仁義なき鬼退治
——「ウオオオォォォォォォォッッッ!!」——
病院の窓ガラスがビリビリと震え、かすかに歪んだ音を立てる。
「ひっ……!」
思わず紗月は窓から飛び退いた。
(わっ、な、なんやの……!?)
心臓が跳ね上がるほどの轟音。
清雅の視線の先には、東寺の境内が広がっている——そこでは、黒い影のようなものが不気味にうごめいていた。
夜の闇と同化するかのように蠢く影。
「——……ぅ……っ……!」
遠くから断続的に悲鳴が聞こえた。
男の叫び、女の悲鳴、そして何かを叩き壊すような音。
それは確実に、この病院へと迫っていた。
「……紗月お姉ちゃん……」
震える声が背後から聞こえた。
莉乃が青ざめた顔で窓の外を指さす。
「……あれって……もしかして……鬼、かも……」
莉乃の指先——そこには、明らかに”人ではないもの”の輪郭があった。
「……ッ!」
ぬいぐるみをしっかりと抱きしめた奈々も、無言でこくりと頷く。
紗月はごくりと喉を鳴らした。
「そ、そんな……」
恐怖がじわりと全身に染み渡る。
「……どないしよう……」
これが、陰陽師になりたいと口にしていた自分の前に現れた”現実”だった。
(チッ……)
清雅が忌々しげに舌打ちする。
(紗月が杯をぶちまけたから、黄泉比良坂を開くのは諦めて、何かしら仕掛けてくると思ったけど……)
窓の外、東寺の境内にうごめく黒い影——。
(神降しの暴走だけでなく、まさか鬼を作ってくるとは……義久の奴、やりやがったなぁ。)
それが”鬼”だという現実が、じわりと紗月たちの背筋を凍らせていく。
(……清雅、どないしよう……?)
震えながら紗月が尋ねると、清雅は腕を組み、ふぅっと息を吐く。
(紗月、方法は二つ。)
そう言いながら、指を二本立てた。
(一つ目——“陽の光に当てる”。鬼は陽に焼かれれば黒い霧になって自然に消える。だから、それまで逃げて隠れる。)
(……夜明けまで逃げ切るってこと?)
(そういうこと。まぁ、鬼の数によるけどね。)
(そして、もう一つ。)
立てた二本目の指を、ことさら強調するように前に出した。
(“片っ端から鬼を倒す”。)
「……っ!」
紗月の顔が青ざめる。
「うちらが鬼を片っ端から倒すって……そんなの無理やろ……。」
紗月にとって目の前にいるのは、伝説の怪異——“鬼”だ。
(賢治さんや紅子さんなら、鬼を倒せる思うけど、うちなんかまだなんも知らん素人みたいなもんや…)
紗月は唇を噛みしめ、莉乃と奈々に向き直った。
「……あの鬼、朝になったら消えるらしいんよ……。」
「なんで……?」
莉乃は、驚いた顔で紗月を見つめる。
「紗月お姉ちゃん、どうしてそんなこと分かるの……?」
「ハハ……まぁ、ある人に教えてもろうたんや。」
適当にごまかしつつ、内心では清雅に感謝していた。
「莉乃、紗月お姉ちゃんの言うこと、本当だから……大丈夫……。」
莉乃は奈々と紗月の顔を交互に見て、しばらくの沈黙の後——
「……うん、わかった。」
小さく頷いた。
「だから……夜明けまで頑張ろうや!」
声に無理やりでも力を込める。
「それしかないやろ。」
少しでも前を向こうとする紗月の言葉に、莉乃も奈々も、再び小さく頷いた——その時。
——バキィィィィィィィン!!!
病院の静寂を打ち破る轟音が響いた。
「——!!?」
突如として、美紗子がかすれた声をあげた。
「……あ、あぅ……あ……!!」
車椅子に座る彼女が、激しく震える手を前に突き出し、何かを必死に訴えるように指を差している。
「……お母さん?」
しかし、美紗子の目は紗月ではなく——窓の外を見つめていた。
その表情は恐怖に歪んでいる。
「……なんや……?」
紗月はゆっくりと視線を窓へ移した。
——次の瞬間。
「……ッ!!?」
病院の正面玄関——そこに、巨大な影が立っていた。
その影が、両腕を振り上げ——
——ズドォォォォォンッ!!!
玄関のガラスが粉々に砕け散った。
「キャアアアアアアア!!」
「な、なにぃ!?地震!?」
「やめろ!!来るなぁぁぁぁぁ!!」
「おい、バリケードを補給しろ!」
ガラス片が飛び散り、白いタイルの床には細かい亀裂が走った。
粉塵が立ち込め、視界がぼやける中——
その中から、ゆっくりと——“それ”が姿を現した。
———鬼。
だが、その鬼は異様だった。
その身体はボロボロに傷ついている。
真っ黒な肌には無数の裂け目が走り、そこからドクドクと黒い霧が漏れ出ていた。
身体中に無数の刀傷や引き裂かれた痕があり、まともな状態とは思えない。
そして——頭部には、ニ本の捻れた角がそびえ立っていた。
「……ッ!!」
「鬼……?」
「まさか……」
莉乃が唇を震わせ、奈々はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「——ヤバイ!鬼が入ってきちゃう……!!」
莉乃が焦った声を上げる。
「……!」
紗月の心臓がドクンと鳴る。
このままでは、病院にいる人たちが——。
「まずいやん!?入るの止めんと、病院の人達……みんなやられてまう!!」
「紗月お姉ちゃん!!……ロビーに行ってくる!!」
「莉乃、待ってや!」
紗月が腕を掴んだ。
「……ほな…みんなで行こうや。」
「……!」
「お母さんを一人で置いてくわけにいかんし、部屋に居ても逃げれんようになってまう。」
莉乃は一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
奈々も無言でこくりと頷く。
「——行くで!」
———病院のロビーは、既に地獄のような光景になっていた。
拘束された跡のある、錯乱者だったと思われる者たちが、まるで魂を抜かれたように地面に倒れている。
彼らは微動だにせず、虚ろな目を開いたまま、浅く呼吸を繰り返していた。
そんな中、田辺医師と数名の看護師、そして錯乱していない患者たちは、暴徒の侵入を防ぐために築いたバリケードをさらに補強しながら、迫りくる鬼の侵入を必死に食い止めていた。
「——押さえろ!!崩されるな!!」
田辺の怒号が響く。
「くそっ……無理だ!!バリケードが持たねぇ!!」
「押し返せ!!」
「くっ……!」
「もう、終わりなのか……!?」
ロビーにいた人々が絶望に染まる中——。
「——田辺先生ぇ!!!」
車椅子を押しながら、廊下の奥から飛び込んできたのは、紗月だった。
「さ、紗月ちゃん……!?」
「田辺先生!!バリケード、もう持たへんやろ!?」
「あ、あぁ……」
「うちらに任せてや!!ここは絶対に突破させへん!!」
息を切らしながら叫ぶ紗月に、田辺医師は一瞬呆気に取られた。
しかし——
紗月はすぐに鞄から霊符を取り出し、素早く空中に投げた。紗月は慣れない手つきで印を結ぶ。
「——五芒の理に従いて、結界を張れ!」
霊符が青白い光を放ち、瞬く間に入口に霊的な障壁が広がる。鬼の足元が一瞬たじろぐ。
「…やった!出来た……!」
紗月が深く息を吐く間もなく、莉乃がすばやく形代を取り出し、小さく呟いた。
「…私もやる!」
彼女は形代を手のひらに乗せ、目を閉じる。
そして、静かに囁くように詠唱を始めた。
「——闇を走り、敵を裂け。」
形代が宙へと投げられると、瞬く間に淡い光をまとい、そこから小さな影が走り出した。
「チュチュチュッ!!」
そこに現れたのは黒い毛並みを持つ小さなネズミ。
「お願い、行って!!」
莉乃が手を前に差し出すと、ネズミは一直線に鬼へと向かって走り出した。
「チュッ!!」
瞬間、ネズミの体が一瞬輝き——
———ドンッ!!———
鬼の肩にぶつかった瞬間、爆発が起こる。粉塵と閃光が辺りに広がり、鬼がぐらりとよろめいた。
「よしっ……!」
莉乃が控えめに拳を握るが、まだ終わりではない。
奈々は静かに、手に持っていたクマのぬいぐるみをそっと投げた。
「———天つ霊、地つ力、五行の理に従いて——我が声に応えよ。」
クマのぬいぐるみは空中でふわりと停止し、柔らかな光に包まれた。その体が変化し、編笠と黒いマントが姿を現す。
「術式、成功…。」
地面に降り立ったぬいぐるみ——森の石松は、再び小さな前足を広げて一礼する。
「お控えなすって!!」
その声は妙に渋く、堂々としていた。
「手前ぁ、森の石松。仁義と礼儀を命に代えても貫くぬいぐるみでございます!」
田辺医師が目を丸くして呟く。
「……さ、紗月ちゃん達……陰陽師やったんか…!!」
ロビーの空気が一変する。
「それでは皆さん、初対面の礼儀として、まずは仁義を切らせてもらいやす!」
その場にいた全員が、一瞬固まる。
「……石松…仁義は後…早く行って!」
奈々が淡々と指示するが、石松は譲らない。
「いけませんぜ、奈々姉さん!!渡世人たるもの、仁義を欠いちゃ、いかねぇんでござんす!!」
ズビシッと前足を空に突き上げる石松。
「それが、筋ってぇもんでござんす!」
「いいから早く。」
「……か、勘弁してくだせぇ!!」
石松は頑なに首を振り、頬を膨らませる。
「礼儀ってのは、先に通すか、それとも後回しにするかで、渡世の筋が決まるんでござんす!!」
「……今すぐ行かないと、水に漬ける。」
「………。」
「……石松、水に漬けたらどうなる?」
「…そ、そりゃぁ……」
小さなボタンの目がぎょろぎょろと動き、奈々を見上げる。
「……中の綿が水吸って……ず、ずしぃぃぃんってなって……歩けなくなるぅ……。」
「……じゃあ、早く行って。」
「くぅぅぅっ!!仁義を捨てるか、溺れるか……!!」
石松は両前足を小刻みに震わせながら、葛藤する。
「……わかりやした!!仁義は、後にしやす!!」
「早く。」
奈々が短く念を押す。
「わかった、わかったでさぁ!!……お命頂戴いたしやす!!」
石松はクルリと身を翻し、編笠を深くかぶる。
そして——
「仁義は後回し、渡世の無念!!悪党、ここで終いでさぁ!!」
小さな前足が懐からドスを抜く動きをし、そのまま鬼の足元へと跳びかかる。
「手前ぇ、鬼といえども渡世に背いた外道!!」
石松の小さな体が影のように滑るように鬼の懐に潜り込む。
「覚悟しな!!」
——ズバッ!!!——
鬼の胸元に、石松がドスを刺した。
瞬間、鬼の体がビクンと震え——黒い霧が吹き出した。
「ぐ、グオォォォォ……!!」
叫びを上げながら、鬼はその場で霧となり、崩れるように消えていく。
「おいおい、手応えがねぇな……。」
石松はドスを袖にしまい、両腕を組んで首を傾げる。
「まぁ、これも因果ってやつでさぁ。」
バサッとマントを翻し、キリリと空を見上げる。
「———人よ、闇に惑うなかれ。」
「———悪党、悪事を重ねるなかれ。」
「———仁義なき鬼は、ここで終いでさぁ!!」
そして、小さな編笠を押さえながら、静かに一礼。
「……お控えなすって。」
ロビーに、静寂が訪れた——。




