主を待つ獣
賢治の刃が地に転がった鴉天狗の喉元を正確に貫いた。
——次の瞬間。
鴉天狗の体は霊符へと戻り、千切れた紙片が宙を舞う。
と、同時に、鬼切丸の刀身が小刻みに震え、歓喜に満ちた叫びが響き渡った。
「アぁぁぁぁぁぁ!! 気持ちィィィィィィ!! もっとだ、もっとイかせてくれぇぇぇ!!」
「う、うるせぇ! こっちが恥ずかしくなるだろうが! 少し静かにしろ!!」
「おおォォォォォ…………!!」
———般若は苛立ちを隠せなかった。
「……鬼童丸も鞍馬もあっという間にやられた……何をやっているんだ、あの愚か者どもは! 時間稼ぎすらまともにできんとは、使えん!」
「しかし、般若よ……あの男とまともに戦えば、我らも危ういかもしれん。どうする?」
「……鵺……そんなのは、決まっている。同時に行くしかない」
「待ちなさい……あんたたちの相手は、私がするわ」
「……なにィ? ……大した力もない小娘の分際で調子に乗りよって……」
紅子の宣言に、鵺は喉を鳴らして笑った。
「般若、ここはワシに任せてもらおう。身の程を教えてやる!」
「油断するなよ」
般若が短く警告を発したその時——。
「おいおい、紅子……大丈夫かよ?」
紅子は賢治に振り返らず、ゆっくりと片手を持ち上げた。
そして——
———パチン。
指を鳴らした瞬間、紅子の周囲に黒炎が巻き起こる。
炎はまるで意志を持つかのように揺らめき、轟々と唸りながら彼女の指先に集まった。
「なっ……!?」
(詠唱も霊符も使わずに……ただ指を鳴らしただけで……!)
そして、何より——
「……異能……? しかも、黒炎だぁ……?」
「アハハ……そいつはイカしてるなァ……! いいぞ、もっと燃えろ! 喰らえ!!」
鬼切丸が興奮に震え、まるで黒炎を羨望するかのように叫び続ける。
だが、紅子は賢治の驚愕も、鬼切丸の狂喜も意に介さず、指先で揺れる黒炎を見つめながら、不敵に微笑む。
「アイツが使ってた黒炎……どんなもんか、試させてもらうわ」
ふぅ——。
紅子の吐き出した息に押されるように、小さな黒炎が指先から離れた。
それは、まるで蝋燭の灯火のように頼りなく揺らめきながら、鵺へと向かっていく。
「ふん、つまらん」
鵺は嘲笑しながら、前足を振り下ろした。
——バチッ
小さな黒い炎は音を立てて弾け、儚く消えた——。
「馬鹿にするのも大概にせい! こんなもの、ワシに効くはずがなかろう!」
しかし——その瞬間。
世界が暗転した。
「な……何!? これは……? まさか……幻術か!?」
焦る鵺の視界がぼやける。何も見えない。何も感じない。空間のすべてが虚無へと溶けていくような錯覚。
——やがて。
視界が定まり、目の前には見覚えのある城門がそびえていた。
「……これは……?」
———懐かしい。
いや、もっと根深い感覚——どこか、魂に刻まれた記憶のような感触がする。
「なぜか……知っておる……確か……戦ばかりの時代だったか……?」
すると、城門の前を一人の若武者が馬に乗りながら通り過ぎていった。
その姿を見た瞬間、鵺の胸がざわつく。
なぜか——無性に気になる。
鵺は思わず若武者の後をついていった。
しかし、誰も鵺の存在に気づかない。
若武者も、城の中にいる兵たちも、すれ違う町人も、まるで鵺がこの世界に存在していないかのように——。
そして、若武者の腕には——
「……猿……?」
若武者は、胸元に一匹の小猿を抱えていた。
「今日から、お前は俺の家族だ」
そう優しく呟くと、若武者は猿の頭を撫でる。
「そうだな……名前は……カイ。どうだ、気に入ったか……?」
猿は小さく鳴き、若武者の手にじゃれついた。
鵺は黙って、その様子を見つめていた。
(カイ……?)
懐かしい響きだった。まるで遠い昔に聞いたことがあるような。
それからというもの、小猿のカイは常に主人と共にあった。
主人が床につくときは枕元に、食事の時は傍らに、戦へ向かうときは馬の後ろにしがみついて。
鵺は無意識のうちに、カイのそばで併走するように歩きながら、彼を見つめ続けていた。
「……カイ、お前は幸せそうじゃのう……」
——だが、幸せは長くは続かない。
ある日、戦のために主人が出陣すると、彼は二度と帰ってこなかった。
「カイ……残念じゃがお前の主人は……死んだみたいだの……」
———城の門の前で、カイは主人をじっと待ち続けた。
春が過ぎ、夏が訪れ、秋の落ち葉が舞い、やがて雪が降る。
カイは痩せ細りながらも、ただひたすらに待った。
「……カイ、そんなに待っても、もうお前の主人は帰ってこんぞ……」
鵺は語りかけた。だが、カイの耳には届かない。
「……あの若武者は戦で死んだのだ……とは言っても、お前には聞こえんか……」
———時は流れ、世は変わる。
城は落ち、領主が変わり、新たな時代が訪れた。
人々は噂話を交わす。
「昔、この城には猿を可愛がっていた武将がいたらしいが、あの猿はまだ城門で待っているのか?」
「哀れなものよ……だが、戦で死んだ者は戻らぬ」
——それでも、カイは主人を待ち続けた。
「おい、カイ!! 何度も言っておるだろ! お前の主人は帰って来んのだ! 諦めろ!!」
しかし、カイの耳には届かない。
次第に食べるものもなくなり、飢えに苦しむようになる。
——それでもカイは主人を待ち続けた。
だが——やがて、限界が訪れる。
生きるために、カイは獣を狩るようになった。
最初は狸を喰らい、次に猫を仕留め、ついには蛇すらも捕らえるようになった。
気づけば、カイの姿が変わり始めていた。
猿だったはずの体に、いつの間にか狸の毛、猫の爪、蛇の尾が宿っていた。
「……なんじゃこれは……?」
変貌するカイの姿を、鵺はただ見つめ続ける。
(……まさか……ワシは……)
だんだん、鵺は気づいていく。
この猿——カイは、かつての自分なのだと。
「……そんな……はずは……」
カイは———いつまでも主人を待ち続けた。
気づけば、人々は彼を畏れ始めた。
「城跡に、夜な夜な現れる恐ろしい妖がいる」
「猿とも狸ともつかぬ異形の化け物——鵺」
その頃には、もう——カイは、自分の名前さえ忘れていた。
「……ワシは……カイ……だったのか……」
鵺の心が軋む。
(ワシは……主人を……待っていた……?)
すると——
———パチン。
再び指を鳴らす音が響いた。
視界に燃え上がるように黒炎が広がり、戦国の情景がゆっくりと崩れていく。
「……ずっと寂しかったのね……でも……もう、待たなくていいのよ。 」
黒炎が、優しく鵺を包み込んでいく。
静かに、穏やかに、長い孤独を焼き尽くすように。
「……そうか……ワシは……ずっと、寂しかったのか……」
最後に、鵺の姿は小さな猿へと戻る。
「頑張ったわね……あなたの主人もきっと向こうで待ってるわ」
カイは——微かに、笑った。
「……また……会えるといいな……」
黒炎が消えたあと、そこには何も残っていなかった。
———真希は目を見開き、呆然と立ち尽くしていた。
「いったい……何が……?」
目の前で起きた出来事を理解しようとするが、思考が追いつかない。
紅子さんが、ほんの小さな黒い炎を吹き出しただけだった。
それを鵺が踏み潰した瞬間——
黒炎が広がり、鵺の姿が跡形もなく消えた——。
一瞬の出来事だった。まるで最初からそこにいなかったかのように、すべてが消え去っていた。
「べ、紅子さん……何したんですか……?」
悠希が恐る恐る尋ねる。
ポン太も驚き、目を丸くしながら紅子を見上げた。
「おいおい、紅子……それってアイツが使ってた黒炎じゃねえか? なんで紅子が使ってんだよ? まさか……呪核を呑んだからか?」
紅子は答えず、しばらく鵺が消えた場所を、呪核が落ちてないかじっと見つめていた。
(本当に……跡形もなくなっちゃったわね)
小さく息をついてから、ポン太の方へ視線を向ける。
「そう、呪核を呑んだおかげ」
さらりと言いながら、紅子は腕を組む。
「……でも、毎回……呪核が落ちてるわけじゃないのね」
「当たり前だろ!! そんなあぶねーもん、ポンポン落ちてる訳ねーだろ!!」
「……そう、残念」
その言葉に、ポン太はさらに頭を抱えた。




