動乱の序曲
京都府警・霊障対策課に隣接する喫茶店。
窓際の席には、霊障対策課のメンバーがいつものように集まり、それぞれの飲み物を手にしていた。
志穂はアイスティーをストローでかき混ぜながら、大村をじとっと睨む。
「だから、言ったじゃないですか…あんな橘家にズカズカ入っていっても、やり込められるのがオチだって。」
「……まぁ、ちょっと押されただけやけどな。」
「いやいや、『ちょっと』じゃなくて完全にやり込められてましたよ、班長。」
「なんやと龍二!お前、ワシがやり込められてるとこしか覚えてへんのか!」
龍二はメガネを押し上げながら、思い出したように言った。
「だって……班長、特級陰陽師って聞いた瞬間、顔真っ青になってましたよね。」
「な、なっとらんわ…!しかし、ホンマにあれが特級陰陽師なんか…?ワシのこと完全に無視してスマホいじっとったやんけ!」
「最後に班長の顔見て『ウケる』とか言ってましたね。あれ、割と本気でウケてたんじゃないですか?」
志穂が肩を震わせながら笑う。
「……あいつのこと一生覚えとくで!ワシは根に持つタイプなんや!次会ったら絶対パクったる!」
大村が拳を握りしめると、龍二がぽつりと呟いた。
「次会ったら、またやり込められる未来しか見えないんだけどなぁ……。」
「なんやと龍二ィ!?お前、またワシをバカにしとるんか!?」
龍二は焦るそぶりも見せず、ポテトをつまむ。
「いやいや、そんなことないですよ!ただ……また『特別活動免責権』とか言われるんじゃないかなーって思っただけで……。」
「まぁまぁ、昨日の話はその辺でいいじゃないですか。それより班長、今晩のパトロールどうするつもりなんです?」
大村はポテトを口いっぱいに頬張りながら眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
「ふん、今晩こそは本気出すでぇ。霊障なんて全部ワシが片付けたるわ!」
「はいはい、班長の『本気』ね……どうせまた現場で振り回されるのは私たちなんですけど。」
「…そうですよ……結局いつも僕らが苦労するんだよなぁ……。」
店内に穏やかな会話が飛び交う中、突然、グラリと床が揺れた。
「……わっ!地震?」
「まぁ、大丈夫でしょ、震度2、3くらい?」
志穂がアイスティーのストローをくわえたまま、動じた様子もなく言う。
揺れは数秒後に収まり、店内は再び静けさを取り戻した。
「…志穂さん…僕、地震苦手なんですよ…。」
大村はどっしりと椅子に腰掛けたまま、余裕の表情で腕を組んだ。
「大したことない揺れや。そないに気ぃ張らんでええ。」
志穂が窓の外に目をやると、美しい夕焼け空の下で、散歩中の犬がしきりに吠えているのが見えた。
———その瞬間、店内のどこかから甲高い叫び声が響き渡った。
「おい!これ俺の頼んだパフェやろ!なんでお前が食っとんねん!」
「はぁ!?頼んでないくせに何言うてんねん!」
志穂が首をかしげながら振り返る。
「なんか、急に雰囲気おかしくないですか?」
別のテーブルでは、中年男性が突然立ち上がり、店員に詰め寄る。
「おい!注文が遅いんや!早よ持ってこい!」
「す、すみません!ただいまお持ちします……!」
龍二が周りを見回す。
「えっ、班長…なんかへんですよ…?」
「だから、俺はそんなこと言ってないだろうが!」
「嘘つくな!お前、さっき俺のことバカにしただろ!」
椅子を引きずる音と共に、二人は立ち上がり、互いに胸ぐらを掴み合った。
「やめてください!」
近くにいた店員が止めに入ろうとするも、男性たちは完全に聞く耳を持たない。
「やめろって言ってるだろ!」
「ふざけるな!」
———ドンッ!バンッ!ボゴッ!
片方の男性が拳を振り上げ、殴り合いに発展。店内は騒然となり、他の客もざわめき始めた。
その時、別のテーブルの若い女性が突然叫び声を上げた。
「きゃあっ!……やめて!私の頭の中に声が聞こえる!」
彼女の目は大きく見開かれ、何かに怯えている様子だ。
「だ、大丈夫ですか!?」
隣のテーブルにいた男性が駆け寄るが、彼女は混乱して叫び続けた。
「来ないでぇええー!……近寄らないでぇ!」
さらにその混乱に追い打ちをかけるように、キッチンの方から叫び声が響いた。
「助けてぇええええ!!!」
若い男性の店員が走り出してきた。その顔は真っ青で、何か恐ろしいものを見たかのように震えている。
「ど、どうしたの?」
別の店員が駆け寄るが、彼は恐怖で言葉にならない。
「うっ、うっ、う……うわぁっあああー!」
———店内は完全にパニック状態に陥った。
誰かが叫び、誰かが泣き、椅子や食器が床に落ちる音が響く。
その異様な光景に、志穂と龍二は唖然として顔を見合わせた。
「……これ、ヤバくないですか?」
龍二が震える声で言う。
「ヤバいなんてもんじゃないわよ……班長、これどうするんですか!?」
志穂が険しい表情で隣を見ると、大村は険しい顔で立ち上がった。
「……なんや、この異常な空気……。おい、お前ら、準備しとけ。これはただ事やないぞ。」
○
———完全に崩壊した祭壇の残骸が、無惨に散らばる。
溢れ出した膨大な霊力は、渦を巻きながら空へと霧散していき、やがて何ごともなかったように静まり返った。
周囲にはただ、静寂だけが残る。
「ふぅ、びっくりしました…いったいなんだったんですか…?」
悠希の表情は、どこか呑気で緊張感に欠けている。
「松江の霊障事件が関係あるんですか?」
———しかし、彼の言葉に答えたのは誰でもなく、沈黙だった。
紅子、賢治、真希———三人は、呆然と立ち尽くしている。
まるで時間が止まったかのように、視線は虚空をさまよっている。
やっとのことで正気を取り戻した紅子が、静かに口を開いた。
「あんたが陰陽師になる前の話だから、詳しく知らないだろうけど……」
紅子の声は低く、どこか震えていた。
「三年前の松江の事件――特級陰陽師が起こした霊障テロ事件。」
「……?」
「あれを引き起こしたのは、真希の後輩で、陰陽師協会、京都支部長だった神楽坂緑…」
「神楽坂……緑……たしか…テロ犯人の…?」
真希は顔を伏せたまま何も言わない。その肩は微かに震えているように見えた。
「確か…中学生の時、ニュースで見ましたけど……」
「その場にいたのよ…真希も…。」
「…えっ……じゃあ、これから起きることは……?」
その問いに応じたのは、賢治だった。
「霊力に触れたことがない人間は錯乱状態になる。理性を保てない人間が街中で暴れ回るだろうな。市民の半分以上は精神異常をきたすかもしれない。」
「そ、そんな……」
悠希の声は震え、顔は青ざめている。
「人が傷つけ合う地獄が始まるぞ……。」
「いったい……どうすれば……」
「悠希、お前は一人この子を背負え。」
「は、はい!」
「紅子、ひとまず市内に戻る、彩花ちゃんを探すのは後回しだ。分かってるだろう?」
「……わかったわ。でも、必ず……必ず後で探しに行くからね。」
「当然だ。」
「真希、いつまでも落ち込んでる暇はねぇ!お前は特級陰陽師だろうが!」
真希は下を向いたまま、肩を震わせている。
「立て!」
「……はい…わかりました……やります。」
「一日は錯乱したままだ。市内に戻って、暴れてる奴を片っ端から結界に閉じ込めるしかねぇ。」
———「ほう、それは困るな。」———
「夜叉王……!」
紅子が険しい顔で睨む。
その周囲には、見覚えのある姿が次々と姿を現した。
傷が完全に癒えた鬼童丸が不敵な笑みを浮かべ、般若は手に持つ槍を構える。
鵺がその獣じみた赤い目で一行を睨み、鴉天狗は空から鋭い視線を投げかけている。
「本体が負の感情を集め終わるまで、貴様らには、大人しくしてもらう。」
賢治はすかさず構えを取りながら叫んだ。
「悠希は少女二人を守れ!真希、紅子、ここは一気に片付けるぞ!」
夜叉王の分身が低く笑いながら、賢治たちに向かって指を指す。
「全員、かかれ!」




