幕開け
病院の受付を済ませた三人は、静かな廊下を歩き、紗月の母、美紗子がいる病室へと向かった。
「——ここや」
紗月がそっとドアを開けると、部屋の中には夕暮れ時の柔らかな赤い光が差し込んでいた。
窓際には車椅子が一台置かれ、美紗子が背もたれに寄りかかっていた。少し痩せた体を窓枠に預け、赤く染まる空と東寺の五重塔をじっと見つめている。
その視線は、どこか別の世界を彷徨っているようにも見えた——。
「お母さん、元気やった? 今日は莉乃と奈々ちゃん連れてきたで!」
紗月は無邪気な声で話しかけながら、美紗子の隣に駆け寄った。だが、美紗子は空虚な視線を窓の外に送り続けていた。
「莉乃はわからんかもなー。前に来た時はまだ小さかったし」
「おばさん、お久しぶりです!前は寝たきりだったのに、元気になって安心しました!」
「………」
「奈々ちゃんは初めましてやね」
紗月は無理に明るい声を作って、奈々を紹介する。
「可愛い子やろ、お母さん。奈々ちゃん、挨拶してみ?」
「こんにちは……」
「………」
奈々は困惑したようにぬいぐるみを抱き直す。
「お母さん、こんなに沢山お見舞い来てくれて嬉しいやろ?」
紗月は無理に笑顔を作りながら、母の手をそっと握る。
———だが、美紗子はただ無言で、遠くを見つめていた。
「今度、また一緒に甘いもんでも食べよな。お母さん、あんこ好きやったやろ……?」
「……紗月お姉ちゃん……」
「ごめんな、奈々ちゃん、返事は出来んけど、みんな来てくれて、きっと嬉しいんやで」
その笑顔が痛々しいほど無理に作られたものであることを、奈々も莉乃も感じていた。
奈々はぬいぐるみを胸にぎゅっと抱きしめ、ぽつりと呟いた。
「……綺麗な夕焼け……見てるのかな……」
その言葉に紗月は一瞬動きを止めたが、すぐにまた母の手を握り直し、声を振り絞るように言った。
「うん……きっとそうやな……」
(えーと、紗月………おーい? もしもしー! 紗月さーん)
(あれ?! 清雅……おったん?)
(酷いなあ~、ずっといたのに……)
(紅子さん、黄泉比良坂のこといろいろ聞いとったのに、なんで答えんの……?)
(もう必要ないかと思ってね!)
(はぁ……わけわからん……で、なんやの?)
清雅はふわりと美紗子の方へ近づき、顔を覗き込むようにじっと見つめる。
(この人……紗月のお母さん?)
慌てた紗月が清雅と美紗子の間に割って入る。
「ちょ、ちょっと清雅! 近すぎや!」
莉乃が不思議そうな顔で問いかける。
「どうしたの、紗月お姉ちゃん……?」
「い、いや、なんでもあらへん」
紗月はぎこちなく笑いながら、心の中で清雅に詰め寄る。
(もう、なんやの……うちのお母さんや。それがどうしたん?)
清雅は紗月の問いかけを無視し、美紗子の瞳をじっと覗き込む。そして低い声でボソリと呟く。
(いつから、こんな感じ……?)
(……そやな……うちが四才ぐらいやったんちゃうかな……元気やった頃のことは……なんとなくしか覚えてへんけど……)
清雅はさらに美紗子の顔を覗き込む。じっとその瞳の奥を探るように見つめ、ボソリと言った。
(………呪だ……紗月のお母さん…呪われているよ……)
(えっ、なんて? はっきり言わんと、わからんやん!)
———その瞬間、病室が軽く揺れた。
音とともに地面が震え、棚の上の物がカタカタと音を立てて揺れる。
「地震や……!」
莉乃と奈々も驚きで固まり、三人は思わずお互いを見つめ合った。
「ふぅ、震度3ぐらいあったんちゃう……びっくりしたわ」
一息つくように三人が頷き合うと、紗月の視線はふと病室の壁の時計に移った。
時計は18時53分を指している。
紗月はゆっくりと窓の外へ目を向けた。
そこには、東寺の五重塔が見える。
遠くから微かに鳥の鳴き声が聞こえ、ただ、夕暮れの赤く染まった空が広がっていた。
***
夕暮れの空がほんのりと赤く染まる中、タクシーが鞍馬寺の入り口で静かに停まった。
紅子が後部座席のドアを開け、悠希と真希を先に降ろす。
「よいしょっと……着いたわね」
紅子が辺りを見回すと、入り口付近に立っていた賢治がすぐに目に入った。
「おい、遅いぞ!」
「そんなに急かさないでよ。ちゃんと時間通り来たでしょ」
「真希は久しぶりだな、悪りぃな、急に呼んじまって」
「はい、お久しぶりです。大丈夫です。気にしないでください」
「それより、千紘はどうしたんだ……? まさかとは思うが……ばっくれやがったのか?!」
「はぁ……そのまさかよ……」
額に手を当て、首を振る紅子の姿に、悠希がおずおずと口を開いた。
「あの……紅子さんが言ってたみたいに、戦いが始まったらきっと現れるんじゃないですか……?」
「クソッ……千紘が現れる時は、現場が収拾つかなくなってからなんだよ! あいつの場合はな!」
「千紘さんがいなくなった理由……もしかして、星読みをして何か見たのかもしれませんね」
「それが良い方向に動くか、悪い方向に動くか……どうせ後者だろうよ」
賢治が肩をすくめながら吐き捨てると、紅子は腕を組んで考え込んだ。
「まぁ……いないものは仕方ないわね」
「だな、行くぞ。時間もねぇし、さっさと終わらせようぜ」
三人が賢治の後に続き、鞍馬寺に着くと金堂前の『金剛床』へと一歩足を踏み入れた。
———六芒星を描いた床が足元に広がる。
「ここは私に任せてください」
その中心に立つ巫女装束の真希は、神楽鈴を片手に掲げながら、美しい舞と歌声を披露し始めた。
「天つ神、地つ霊、此処に集いし八百万の御魂よ―― この穢れを祓い、清めたまえ」
鈴の魔除けの力が結界を徐々に溶かしていく。
「す、すごい……これが特級陰陽師の力……!」
悠希の驚きの声にも構わず、真希の舞は続く。
舞いの速度が徐々に速まり、鈴の音色が高らかに鳴り響く中、結界の壁が完全に溶け落ちた。
結界の中には、満月が輝く広大な草原が広がっていた。草原の中央には、黒い石で組まれた祭壇が据えられている。
———「う、嘘……なんで……!」
真希の声が恐怖で震え、彼女の目は祭壇に釘付けになっていた。
「こ、この祭壇……緑ちゃんが……松江で作ったのと……同じ……!」
「どうしたの! 真希!」
「おい、ちょっと待て! どういう意味だよ! これが松江と一緒だってことか?」
「……そう……間違いなく……一緒……なんで……ここに……?」
「彩花ちゃんじゃない……祭壇の横にいるのは……誰……?」
祭壇の横には、白い布を纏い、目を閉じたまま横たわる二人の少女の姿があった。
———「ドォオーーーーン!!」
突如、地面が突き上げるような激しい揺れが一行を襲う。
「うわっ!」
悠希がその場に崩れ落ち、咄嗟に地面に手をつく。
祭壇の周囲がゴゴゴゴ……と不気味な音を立て、徐々に崩れ始める。
「おい! なんだ、これは!?」
賢治が歯を食いしばりながら、足元を踏みしめ必死に体勢を整える。
その時———
———ブワァッ!!
目に見えない濃密な霊力が、爆発的に溢れ出した。
「ヤバイ、下がれっ!」
「……松江の時と同じ……!」
「松江って何ですか!? 何が起きるんですか!?」
「三年前の松江霊障事件よ! 詳しい説明は後! 悠希、今は下がりなさい!」
「……松江で……神降ろしが暴走した時と同じ! あの時も霊力がこんな風に溢れて、すべて崩れていったの……!」
「ちょ、待て!つまりこれって……!」
賢治が言葉を続ける前に———
———ズズズ……!!
霊力がまるで暴風のように渦を巻き、吹き荒れ始めた。吹き飛ばされた霊符が炎を纏い、一瞬で燃え尽きる。
「崩壊する! 早くここから離れないと!!」
「あそこにいる少女たちはどうするんですか!?」
「くそっ!」
賢治が迷わず祭壇の横に駆け寄る。崩れる瓦礫を交わしながら、横たわる少女たちを両腕に抱き上げた。
「重っ……!!」
歯を食いしばりながら少女たちを守るように走る賢治。
———ドゴォン……!!!———
祭壇の残骸が完全に崩壊した。
溢れ出した霊力が渦を巻きながら、周囲を飲み込むように広がる。
「……ダメ……もう……遅い……」
真希は震える手を地面に置きながら、呆然とその光景を見つめるだけだった。
7月23日18時53分——
後に「京都鞍馬山霊障事件」と呼ばれる災害級の霊障事件が、その幕を開けた。




