真希と緑
島根県の出雲市、穏やかな風が吹き抜ける住宅街に佇む和風の屋敷。その玄関先では、稲葉真希が出発の準備をしていた。
靴を履きながら、振り返って声をかける。
「じゃあ、お祖母様、美鈴、行ってくるわね。留守番よろしくお願いします」
祖母が杖をつきながら近づいてくる。
「真希や、霧島の坊主には気をつけるんだよ。あやつは年中、女のことしか考えてないエロ猿だからね」
「大丈夫よ、紅子さんもいるし……それに長官から直々に要請されたのよ。断れないでしょ」
「まぁ、そうだろうね。けど、くれぐれも無茶だけはするんじゃないよ」
そこへ、巫女装束を着た美鈴が駆け寄ってきた。
手には五芒星の中央に「三級」の文字が彫られた真新しい陰陽師協会のバッジを持っている。
「お姉ちゃん、僕も連れてってよ!僕だって立派な陰陽師だよ!」
美鈴は誇らしげにバッジを掲げてみせるが、真希は軽く溜息をついた。
「美鈴、あなたには出雲大社での仕事があるでしょ?」
「でも、お守りの売店なんて誰でも代われるよ! ねぇ、連れてってよ……!」
「ダメよ。今回の任務は危険が伴うかもしれないの。三級陰陽師のあなたを連れて行くわけにはいかないわ」
「でも、僕だって役に立てるよ!お姉ちゃんの役に——」
真希は美鈴の肩に優しく手を置き、微笑んだ。
「その気持ちは嬉しいけど、お守りの売店だって立派な仕事。参拝客の人たちが安心して祈れる環境を守るのも陰陽師の務めなの」
「……わかったよ。けど、お姉ちゃん、ちゃんと無事に帰ってきてよね」
「もちろんよ。安心して待ってて」
真希は美鈴の頭を軽く撫でると、玄関の戸を開けた。
「じゃあ、行ってくるわね」
屋敷の中に残された祖母と美鈴は、真希の背中が見えなくなるまで見送っていた。
***
———新幹線の座席に身を沈めた稲葉真希は、車窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていた。
(黄泉比良坂を開いたのは、神であるイザナギだったからこそできたこと……。元陰陽師だとしても……鬼にそんな真似ができるのかしら……?)
視線を遠くへ投げるように、彼女は窓の向こうに目を向けた。
(それに……神気をまとっていたのが普通の女の子だなんて……。賢治さんの目で見たのなら、間違いないのだろうけど……)
(……まさか…いえ、それはないわね…緑ちゃんですら、神降ろしに失敗したのだから……)
心の奥底では、忘れようとしても消えない記憶が蘇っていく。
(でも、どうして……あの時、緑ちゃんを止められなかったの……?)
新幹線の振動が静かに響く中、真希の思考は、松江事件――緑とのあの瞬間へと遡っていった。
***
———「来たのね、真希さん。やっぱり止めに来ると思ったわ」
「当然よ! こんなこと、絶対にやめさせる!」
祭祀場は、複雑な文様がまるで脈打つかのように光を放っている。
その中心に立つ神楽坂緑は、儀式の発動を試みていた。
「やめさせる? 真希さん、あなたにはこの儀式がどれだけ重要かわからないのね。私は、この国を救おうとしているのよ」
「救う? ……何を言ってるの、緑ちゃん……!」
真希は一歩祭壇に近づき、涙を浮かべながら訴えかける。
「緑ちゃん、こんなことをして何になるの? 神を呼ぶなんて危険すぎる。失敗したら、何が起きるか……誰にもわからないのよ!」
「この国はもう限界なのよ、真希さん。古い秩序に縛られ、未来の可能性を閉ざしている。この力を使えば、私は新しい日本を作れるの。秩序を作り直し、神々の加護のもとで生きていく未来をね」
「……そんなこと、本当にできると思ってるの? 緑ちゃん、これはただの思い上がりよ!」
「思い上がり……そうかもしれないわ。でも、誰かがこの道を切り開かなければならない。それが私だと思ったの」
「緑ちゃん……お願い……考え直して!」
真希は涙をこらえきれず、祭壇の前で立ち尽くす。
「真希さん、あなたは優しすぎるのよ」
「……緑ちゃん……」
「私は恐れていないわ。神々は私たちに力を与えるために存在している。その力を使うことに、何のためらいがあるの?」
「……でも!」
真希は激しく首を振り、声を荒げた。
「その力を手にするために、どれだけの犠牲を払うことになるのか、わかっているの!? 緑ちゃん、失敗したら……松江だけじゃ済まない! 日本全体が滅茶苦茶になるかもしれないのよ!」
「それでも構わないわ」
緑は真希の悲痛な叫びを一蹴した。
「失敗したら、それが私の力が足りなかったということ。けれど、成功すれば……全てが変わる」
「緑ちゃん……!」
真希はその言葉に衝撃を受け、膝をつきそうになる。
「お願いだから、やめて……緑ちゃん、私たちが知っている神々は、人間が自由に扱えるような存在じゃないのよ……!」
「私はただ、この国を守ろうとしているだけ」
「……お願い、緑ちゃん!」
「———なら、私を止めてみなさい。真希さん」
真希は震える手で術符を握りしめ、泣きながら立ち上がった。
「……緑ちゃん、本当に……止めるからね」
二人の間に張り詰めた空気が流れる中、祭壇を囲む霊脈が次第に輝きを増していく。
場の霊気はさらに高まり、儀式の進行を告げるように祭祀場全体が震え始めた。
———ふいに、彼女の思索を遮る声がかかった。
「あのう、すいません……特級陰陽師の稲葉真希さん、ですよね?」
真希は驚いて顔を上げた。そこには、少し緊張した様子の二人組の男子高校生が立っていた。
「ふぇっ?! は、はい……そうですけどぉ……」
すると、二人は顔を見合わせ、声を上げた。
「おっ、マジだ! やったー!」
「やっぱり、俺の言った通りだっただろ!」
片方の少年が興奮した声で続けた。
「いつもテレビで見てます! その……もしよかったら、一緒に写真を撮ってもらえますか?」
「は、はい、いいですよ」
少年たちはスマートフォンを取り出し、真希とともに記念写真を撮った。撮影が終わると、彼らは満面の笑みで礼を言い、元の席に戻っていく。
「ありがとうございましたー!」
その姿を見送りながら、真希はそっとため息をついた。
そして、再び車窓の景色に視線を移し、思索の中へと戻っていった。




