呼ばれし神
「うちは……」
紗月の口から絞り出された言葉は詰まり、部屋に沈黙が舞い降りた。
———紗月が言い淀んでいるのを見ながら、賢治の思考は自然と昨晩の出来事へと遡っていく。
結界が閉じたあと、彼らはすぐに鞍馬寺から撤退し、この屋敷まで戻ってきた。
雅彦はそのまま病院に搬送され、橘家の当主には一連の出来事を報告。千紘と優希は先にホテルへ送り届け、ようやく紅子と話し合う時間を取ることができた。
「説明しなさいよ。なんであんたがあそこにいたの?」
賢治は紅子の視線を受けながら、苦笑いを浮かべた。
「わかったよ。説明するよ……まぁ、俺があそこにいたのは、たまたまと言えば、たまたまだ。」
「たまたま?そんな都合のいい話、あると思う?」
「いや、ほんとに偶然なんだよ。ツーリング中だったんだ。気分転換にハーレーを走らせてたら、突然ものすごい神気が視界に飛び込んできた。」
「神気…まさか…」
「ああ、神気を見たんだ。神楽坂緑のこともある。そりゃ気になるだろ。」
「それで京都まで来たってこと?」
「そういうことだ。だが、いざ京都に着いてみたら、全然普通の日常が広がってた。街は平和そのもの、何も壊れてない。正直、拍子抜けしたよ。」
「………。」
「だから神気の痕跡を追ったんだ。そしたら……その痕跡が、あの屋敷に続いてた。」
賢治は軽く頷きながら話を続ける。
「正確に言うと、神気は紗月ちゃんに纏わりついてた。異常だったよ…だって、人間から発せられるような代物じゃない。だから、様子を探るために、少し距離を取ってずっと見てた。」
「なるほどね……それで私たちを追って鞍馬寺まで来たってわけ。」
「正解。でも、紅子と千紘を見た時はたまげたぜ。何が始まるかと思ったら、あれだろ…」
紅子はしばらく考え込むように視線を落としたが、やがて口を開いた。
「実は、心当たりがあるの。紗月ちゃんには、昔の陰陽師が守護霊みたいに、取り憑いてるんじゃないかしら……しかも、とんでもない奴が。」
「冗談だろ……。」
「紗月ちゃんが意識をなくしたとき、その陰陽師が乗り移った、そして、鬼と戦ったわ。」
「……何?」
「白龍と鴉を従え、黒炎を操って……鬼を跡形もなく焼き尽くしたの、白龍は“清雅様”と、鬼は“白鴉”と呼んでいたわ。」
「白鴉…」
「任務を受ける時に凛から聞いたの、平安時代の伝説的な陰陽師だって。賢治、知ってる?」
「いや、そういう歴史的な話は興味ねぇんだよな……全然わかんねぇ。」
「紗月ちゃんの神気も白鴉に関係してるのかしら…?」
「……黒炎を操る存在……神気もだが、紗月ちゃんとじっくり話をする必要があるな。」
紅子は険しい表情を浮かべたまま、静かに口を開いた。
「それに……なんだか嫌な予感がするのよね。まるで、緑の時よりも、もっと最悪なことが起こりそうな……」
「おいおい、冗談じゃねえぞ……お前がそう言うと、洒落にならねえんだからな。黄泉なんとかっていうやつだろ?そんなにヤバいのかよ……?」
「黄泉比良坂よ。冥界と現世を繋ぐ道が開かれれば、冥府の軍勢やら妖怪やらが溢れ出す。京都だけじゃなく、日本全土が壊滅するかもしれない。」
「……こりゃ、俺たちだけで対処出来る案件じゃねぇぞ!長官に連絡する。」
賢治は腕を組み、険しい顔で紅子に目を向けた。
「それで、儀式がいつ始まるかだが……。」
「莉乃ちゃんに聞いたら、彩花ちゃんが妖狐や鬼と何か話してたらしいけど、距離があって肝心なところは聞こえなかったみたい。」
「多分…そんなに猶予はねぇだろ。明日中には片付ける。」
賢治は短く言い放つと、視線を窓の外に向けた。
「ただ、あの結界……ぶち破るのに、かなりの霊力を使うんだよな。」
紅子はその言葉に、眉を上げて賢治を睨みつけた。
「……まさか、結界を切り裂くのに自分の霊力を温存しようとしてるんじゃないでしょうね?」
「おいおい、紅子。俺だって無尽蔵の力があるわけじゃねぇんだ。結界をぶち破るのに何度も力使ったら、後で本気で戦えないだろ?」
賢治はニヤリと笑う。
「だから…結界のスペシャリストを呼ぶしかねぇ。」
「……あんたのそういうところ、いつもズル賢いわよね。」
「だろ?——稲葉真希を呼ぶ。これで特級陰陽師三人だ!なんとかなんだろ。」
———賢治の記憶が昨晩の光景を辿る中、部屋には静けさが漂ったままだった。
なかなか喋り出さない紗月に、紅子がため息混じりに口を開く。
「紗月ちゃん、言いづらいわよね。」
紅子は視線を一度賢治に投げてから、真剣な表情で紗月に向き直る。
「……最初にこの要請を受けたとき、こう聞いたの。『橘家にある封印石は平安時代のもの。そして、それを封印したのは橘家の祖先と“白鴉”という陰陽師だ』って。」
紅子は一呼吸おいて続けた。
「その白鴉って、当時の陰陽寮、今で言う陰陽師協会ね。その実務部隊の長で、伝説的な陰陽師だって聞いてるわ。」
紅子は周りを見渡し、明るい調子で声を出した。
「——それで合ってるかしら……白鴉さん?」
(うーん……だいたい合ってるんだけど…最強で男前が抜けてる、あと、餅と干し柿が好きなこともね…紗月、教えてあげて!)
(誰があんたの自己PR手伝うねん!!)
(——ハッ!…あかん……いつものノリで突っ込んでしもうた……。)
(……そう言えば思い出した。あの怖い鬼も白鴉って…それ清雅のことなん…?)
(言ってなかったっけ?)
(…聞いてないわ…それより清雅のこと言ってええん?)
清雅は気にする様子もなく、のんびりとした声で答えた。
(紅子は知ってるから問題ないよ。)
(えっ!?どうやって知ったん……?)
(紗月が寝てる間にちょっとね。)
(なんや、それ……紅子さんの夢にでも出たんか……?)
「紗月ちゃん、彼……そこにいるのよね?」
紗月は一瞬たじろいだが、すぐに居心地悪そうに頷く。
「は、はい……ここにおります。」
そして、ためらいながら清雅を指差した。
「——賢治、あなたの異能の目で見えるかしら?」
「……いいだろう。ちょっと待ってろ。」
賢治が目を開くと、その瞳は鮮やかな光を帯びており、霊力の流れ、気の奔流、結界の痕跡。
——あらゆる霊的な存在を映し出すその目は、昨晩の神域結界の中さえも見通した力を持っていた。
しかし。
「……いや、まったく、見えねえな。」
賢治は視線を巡らせ、清雅が立っているはずの場所を何度も見据えたが、そこには何も映らない。
「式神の気配もない。霊的な存在でもない……いったい、何なんだ?」
(まぁまぁ、深く考えても仕方ないでしょ。せっかくだし、もっと俺のこと語ってもいいんだよ?)
清雅の軽い口調が響くが、紗月は完全に無視して続けた。
「……前に清雅が言ってました。現世と完全に乖離された存在やって。」
「乖離された存在……?」
賢治が腕を組みながら考え込む。その横で紅子が薄く微笑みを浮かべながら紗月に問いかけた。
「賢治の目で見えないのに、紗月ちゃんには見える。そして、紗月ちゃんには乗り移れる……ますます興味深い存在ね。」
「……えっ、紅子さん、いま何て……?」
紗月が戸惑いの表情を浮かべる。紅子は片眉を上げ、言葉を続けた。
「紗月ちゃんに乗り移れるって。……あれ?紗月ちゃん、聞いてなかったの?」
「えっ、えぇっ!?うちに乗り移るって!?どういうことや!?清雅、あんた何してんのよ!」
(ハハ…緊急事態だったからね。まぁ、勢いで……お試し的な感じで?)
「そ、そんな……お、お試しって……!変なことしとらんやろな!?あとでじっくり聞かせてもらうで!」
「ワン!」
紗月は顔を真っ赤にしながら、清雅に詰め寄った。紅子は笑いをこらえつつ、軽い口調で紗月に話しかける。
「紗月ちゃん、そういえば……どっかで神様みたいな存在に会ったりしたことある?」
紗月は一瞬、驚いたように目を見開いたが、思い出したように答えた。
「えーと……井戸と雷の神様には……会うたことあります。」
その言葉に、紅子の目がぎょっと見開かれる。
「井戸と雷……八百万の神ね……それで、どうやって会えたの?」
「えっと……普通に、呼んだら来てくれはったんです。」
「……呼んだら?」
紅子の表情が凍りつき、信じられないという色を浮かべる。
その時、賢治がテーブルを叩くようにして立ち上がった。
「嘘だ!神楽坂緑がそれを試して、どうなったか知らねぇわけじゃねぇだろ!あいつは……あいつは街一つを霊障で地獄に変えたんだぞ!」
怒りを含んだ剣幕に、紗月は思わず怯えたように縮こまった。
「…ほ、ほんまです……!」
「ちょ、ちょっと賢治!落ち着きなさいよ!紗月ちゃんが怖がってるじゃない!」
「……す、すまない……。」
賢治は深く息を吐き、頭を掻きむしるようにしながら低い声で続けた。
「ただ……紅子、お前は松江で何が起きたか見てねぇから。落ち着いてられんだ。神を呼んだ…?ありえねぇ……」
「賢治……。」
紅子の声に一瞬賢治は沈黙したが、その拳はまだ固く握りしめられたままだった。
「俺たちだけでどうこうできるもんじゃねぇ。長官に報告して、協会の指示を仰ぐべきだ!」
紅子は眉をひそめ、何かを考え込むように目を伏せた。
「……確かに、これは私たちだけじゃどうにもならないわね。誰か……このこと知ってる?」
「え、えっと……奈々ちゃんが、知ってます。」
「ありがとう、紗月ちゃん。もういいわ。このことは……まだ誰にも言わないで。奈々ちゃんにも、そう伝えておいてくれる?」
「……は、はい……。」
紗月は小さく頷くと、そそくさと部屋を後にした。
襖が閉まる音が響き、部屋の中は再び静寂に包まれる。
その沈黙を破ったのは、拳を握り締めたままの賢治だった。
「……神を呼んだ、だと……?そんなことが、本当に……あり得るのか?友達じゃねぇんだぞ……!」
賢治の声には困惑と苛立ちが混じり、紅子は閉ざされた襖をじっと見つめていた。




