紗月という少女
暗闇の中、紗月はどこか懐かしい感覚に包まれていた。夢を見ていることは分かっているが、その中でのやり取りは妙に現実味を帯びていた。
「○○、また余計なこと言ってお祖父様に怒られたの?」
紗月は誰かに話しかけた。その声は、自分のものではないように思えるが、どこか心地よい響きを持っていた。
「だって光昭様、俺に戦を止めて来いなんて無茶苦茶な命令するんだから……そりゃ、文句ぐらい言いたくなるよ」
自分ではない誰かの声が返す。その言葉に、温かな笑い声が重なる。
「それだけお祖父様が○○を信頼してるのよ。普通、家人の陰陽師にそんなこと頼まないわ」
「おえー」
「ふふ、変な顔……私も○○のことは信頼してるわ……」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚が紗月を襲った。
誰かが照れ笑いしている。
———その笑顔が、なぜか切なく感じる。
「な、なんだよ。急に変なこと言うなよ。まぁ、姫さんが困ってれば、いつでも助けに行ってやるよ」
「ありがとう……○○……」
———誰だっただろう。この夢の中で話しているのは誰と誰なのか。何もかもがぼやけて、名前も顔も思い出せない。
目覚める直前、夢の中の光景が次第に薄れ、記憶の断片は霧のように消えていった。
「………?」
突然、頬に柔らかな感触が触れた。
「うわっ!?」
紗月は目を覚ました。視界に入ったのは、得体の知れない子犬――いや、麒麟の剣が変身した存在だった。
「何やの……あんた、また勝手に……!」
子犬は尻尾を振りながら、まるで紗月をからかうように小さく吠えた。
「ワン!」
「夢見心地やったのに……! ほんまに……!」
紗月はまだぼんやりとした頭を抱えながら、ふと夢の中で聞いた声を思い出そうとする。
「……誰やったんやろ……あの声……」
自分でも分からない涙が頬を伝い、紗月は慌ててそれを拭った。
夢の中で感じた温かさと切なさが、目覚めた今も心に残っていた。
———「紗月お姉ちゃん、起きた?」
襖が勢いよく開き、元気な声が部屋に響いた。莉乃がにこにこしながら顔を覗かせる。
紗月は布団の中からちらりと莉乃を見やり、ため息を吐きながら言った。
「……莉乃、開ける前にせめて声ぐらいかけてや」
「えへへ、ごめんごめん!」
全然悪びれた様子もなく笑う莉乃に、紗月は半ば呆れながら体を起こした。
(なんでやろ……あれから急に、うちのこと昔みたいに『紗月お姉ちゃん』って呼び始めて……。彩花様は…助けられへんかったのに……)
「何か用なん?」
「賢治さんと紅子さんがお姉ちゃんと話したいって呼んでたよ」
「……賢治さんと、紅子さんが?」
紗月は少し眉をひそめ、寝ぼけた頭を振りながら体を起こした。
「もう、しゃあないな……ほな、行こか」
莉乃は嬉しそうに笑いながら紗月の手を取る。
——紗月は莉乃に案内され、賢治と紅子が待つ部屋の前に立った。
腕の中では、麒麟の剣が変身した子犬が静かに丸くなっている。その小さな体の温かさを感じながら、紗月は深呼吸をして襖に手を伸ばした。
「紗月です。入ってもええですか?」
中から紅子の声が聞こえてきた。
「どうぞ」
「じゃあ、紗月お姉ちゃん、先に朝ごはん食べてるね」
「うん、わかった」
紗月は子犬をそっと撫でながら、莉乃と別れた。そして、襖を開けて部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中央には、賢治と紅子が並んで座っていた。紗月は二人の正面に促され、静かに座る。
(えーと……なんや、この空気……うち、なんかしてもうたんやろか……?)
「紗月ちゃん、昨晩はお疲れ様。彩花ちゃんのことは残念だったけど……莉乃ちゃんの話だと、何か儀式に関係している可能性が高いわ。だから、少なくとも今は手出しされないはずよ。それまでに必ず助けるわ」
彩花の名前が出た瞬間、無理に考えないようにしていた感情が胸を締めつける。紗月は俯き、拳をぎゅっと握りしめた。
「……はい。彩花様は、必ず助けます……」
紅子は静かに頷くと、向かいに座る賢治をちらりと見やる。
「それと、知ってるかもしれないけど、改めて紹介するわ。こいつは特級陰陽師の霧島賢治よ」
「お、おい!」
賢治が驚いて声を上げる。
「なんだよ、こいつって……言い方に棘があるだろ……!」
紅子は賢治を鋭く睨みつけた。
「棘がある? 事実でしょ。浮気男にはそれくらいがちょうどいいのよ」
「……それ、いつまで引っ張るつもりだよ……」
「はぁぁ……とにかく、特級陰陽師としては確かに実力があるから安心して。ただし、それ以外は信用しないこと。紗月ちゃんも気をつけてね」
「おい、紅子!」
賢治は困ったように苦笑し、紗月に向き直った。
「えーっと、紗月ちゃんだよな。昨晩はどうも、特級陰陽師の霧島賢治だ。よろしくな」
少し気まずそうな賢治の様子を見て、紗月は微妙な緊張感を抱えつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……」
紗月が正座で賢治たちの話を聞いていると、腕の中で丸くなっていた子犬がモゾモゾと動き出した。
小さな体を器用に抜け出すと、紗月の隣にちょこんと座る。
まるで「俺にも話を聞かせろ」と言わんばかりの堂々としたお座りだった。
賢治が目を輝かせて、身を乗り出す。
「おっ、そのワンコ、昨日、剣だったやつか?」
「ワン!」
「お前、もしかして話がわかるのか?」
「ワン!」
「紗月ちゃんのこと、主人だと思ってる?」
「ワン!」
「俺のこと、カッコいい男だって憧れただろう?」
「………」
無言で首を傾げる子犬。
紅子が手を叩いて笑い出した。
「どうやら賢いワンちゃんみたいね。ちゃんと答えを選んでるんじゃない?」
賢治が額に手を当て、がっくりとうなだれる。
「クソッ……何でだ……! 俺、あんな完璧なタイミングで登場して、ヒーローみたいだったろうが!」
(……このコントは……いったいなんなんや……?)
「まぁまぁ、そんなに落ち込まないでよ。ワンちゃんに気に入られなかったくらいで、陰陽師としての価値が下がるわけじゃないんだから」
「……それ、全然フォローになってないぞ……!」
賢治の肩を落とす姿を見て、紅子がさらに笑い声を上げた。
(……うち、何しに来たんやろ……)
紅子は笑いを堪えながら目尻の涙を拭い、深く息をついて姿勢を正した。
「あー、スッキリした……ごめんね、紗月ちゃん」
突然の真剣な声色に、紗月の背筋がピンと伸びる。
「実は、私たちから紗月ちゃんに聞きたいことがあるの。本当はもっと早く聞いておくべきだったんだけど……」
「……は、はい。何でしょうか……?」
「——単刀直入に聞くわ。清雅……いや、白鴉って紗月ちゃんにとって何なの?」
紗月の心臓が大きく跳ねる。言葉を探そうとするが、喉が詰まったように声が出ない。
その隙を縫うように、賢治が口を挟んだ。
「それと、もう一つ……紗月ちゃん、昨日の昼間、神様に会ったか?」
紗月は小さく肩を震わせながら顔を上げる。二人の視線が刺さるように感じ、冷たい汗が背中を伝う。
(……清雅のこと……神様……どうして、紅子さんと賢治さんが、そのこと知っとるん……?)
「うちは……」
紗月の声はか細く揺れ、言葉は喉で詰まったままだった。




