夜叉王の眼差し
———紗月たちが鞍馬寺の敷地に足を踏み入れると、月明かりが参道を優しく照らしていた。
真夏の夜とは思えないほどひんやりとした空気が、肌に心地よく触れる。
「……し、静かですね。」
悠希が周囲を見渡しながらぽつりと呟く。
「夜の鞍馬寺は初めてや……昼間と全然雰囲気がちゃう。」
紗月が満月を見上げながら感慨深げに言うと、紅子がふと立ち止まり、石段を見上げて静かに口を開いた。
「まるで別世界ね……。」
「ふん。くだらん。さっさと行くぞ。」
雅彦が面倒そうにため息をつきながら、一行を急かす。
参道を進む一同は、木々の隙間から覗く満月の光に目を向ける。悠希が不安そうに周囲を見渡しながら呟いた。
「これだけ静かだと……なんか、不気味に感じますね……。」
千紘が軽く笑い、悠希の肩を軽く叩いてから冗談めかして言う。
「怖いなら帰る?」
「いや、それは……行きますけど……。」
むくれたような顔をしながら、悠希が小さく言い返す。
「気を抜かないで。こういう静けさが逆に危険をはらんでる場合が多いのよ。」
その言葉に、悠希と紗月は改めて気を引き締めた。
———「ここが鞍馬寺……。」
六芒星を模した『金剛床』が広がる金堂前に、一行はたどり着いた。
悠希が辺りを見回しながら呟いた。
「……何もありませんね。」
「千紘、扉がどこにあるか調べなさい。」
「もう、紅子、人使い荒いし……。」
千紘はため息をつきながら腰を落とし、星読みの準備を始める。
「星影照応スタートっと。」
千紘が手を広げると、彼女の周囲に小さな星のような光がぽつぽつと浮かび上がり、ゆっくりと旋回を始める。
数分後、千紘が光の流れを読み取り、指をさしながら言った。
「えーっと、ここ。」
千紘が示したのは金剛床の中央。悠希は首を傾げ、再び辺りを見回す。
「……やっぱり何もありませんね。」
「どういうことかしら……?」
紅子は不審そうに金剛床を見つめた。
その時、悠希が慌てたように声を上げる。
「あれっ!?雅彦さんと紗月ちゃんは……?」
紅子は驚いて振り返り、周囲を見回す。
「……二人がいないですって?やられたわ!?」
○
鞍馬寺の金堂前に立つ紗月と雅彦。月明かりが薄く石畳を照らし、周囲は静寂に包まれていた。
「……ここが鞍馬寺……やっぱり夜はきみ悪いなぁ……。」
「感想はいい。無駄口を叩くな。」
「……す、すみません……。」
紗月は慌てて口を閉じ、雅彦の背中を見ながら小さく俯いた。
「……なんやろ、この冷たい風……?」
紗月が恐る恐る雅彦に問いかけるが、雅彦は立ち止まることなく淡々と答える。
「気にするな。ただの風だろう。」
その瞬間、月明かりが徐々に薄れていき、二人の足元にあるはずの石畳がぼんやりとし始めた。
「え、なにこれ……?」
「どうせまたお前が何か変なことをしたんだろう。」
「う、うち、なんもしてへん!……たぶん。」
紗月が小さく抗議するが、その言葉が終わるより早く、周囲の景色が一変した。
気づけば二人の立っていた場所は、広大な草原に変わっていた。夜空には満月が輝き、草原の中央には祭壇が据えられている。
「ここ……どこなん……?夢、ちゃうよね……?」
「…どうやら鬼どものアジトに連れ込まれたらしいな。」
その時、祭壇の横に見覚えのある二人の姿が見えた。
「彩花様、莉乃!?」
紗月が祭壇に駆け寄ろうとした瞬間、目には見えない壁に激しく跳ね返された。
「いったっ……な、なにこれ!?」
地面に座り込んだ紗月は、手を伸ばして透明な壁に触れてみた。まるで空気を固めたような感触が指先に伝わる。
祭壇のそばにいる彩花と莉乃も、同じ透明な壁を叩きながら紗月に向かって必死に何かを叫んでいる。
「彩花様!莉乃!……向こうの声が……全然聞こえへん……。」
静寂に包まれた神域の草原に、どこからともなく現れた影が二つ、紗月と雅彦の前に立ちふさがる。
一人は赤黒い肌に異様に長い両腕を持つ少年——鬼童丸。もう一人は、白い狐面を顔の横に掲げ、長い金色の髪を背に流した妖艶な女性——妖狐の葛葉。
そして、その二人を従えるようにゆっくりと歩み寄ってくる男がいた。
「……封印石から出てきた怖い人や…」
「…こいつが親玉か……」
夜叉王は雅彦には目もくれず、穏やかな足取りでその前を通り過ぎ、静かに紗月の方へ向かって歩み寄った。
「おい、待て!俺を無視するな!」
激怒した雅彦が、腰に差していた麒麟の剣を抜き放ち、夜叉王に向けて振り上げた。
「調子に乗るなよ……貴様が夜叉王だろうと、この俺が相手にしてやる!」
雅彦が一歩踏み出したその瞬間——
———「退け。」———
夜叉王が言霊を一言放つ。
その言葉で雅彦の全身に凄まじい圧力が襲いかかる。
「ぐっ……!」
足元が崩れ落ちるように膝をつき、剣を持つ手が震える。体中の力が抜け、息をすることさえままならない。
「はぁ……っ、く……はぁ……っ!」
夜叉王は淡々と雅彦を見下ろし、冷たい目で呟いた。
「宗助の子孫が、この程度とはな……。」
雅彦は必死に体を起こそうとするが、夜叉王の放った言霊の威圧に押さえつけられ、動けなかった。
それを見た紗月は、震えながらその場に立ち尽くしていた。
逃げなければ——そう思っても、足は一歩も前に進まない。
「鬼童丸、この娘か?」
赤黒い肌に異様な長い両腕を振り上げ、鬼童丸の目が血走る。
「——コイツだぁ、親父ぃい!俺にやらせろォ!烈火童子の仇だ!絶対にぶっ殺してやる!!」
夜叉王が静かにため息を吐きながら、言霊を一言放つ。
———「黙れ。」———
その言霊が放たれた瞬間、鬼童丸の口元が動かなくなった。
口をパクパクと開閉させながら、息すらできないような苦しそうな様子で、顔を真っ赤にしてもがく。
「……!」
鬼童丸は声を出そうとするが、何も言葉が出てこない。
「鬼童丸、聞かれたこと以外、喋るな。いいな?」
鬼童丸が焦ったように、目を大きく見開いて何度も頷く。それを見て、夜叉王が静かに言霊の拘束を解除する。
鬼童丸は解放された途端、大きく息を吸い込み、膝をつきながら額に汗を浮かべた。
「……ひ、ひぃ……親父、すまねぇ……調子に乗りすぎた……。」
「二度目はないと思え。」
夜叉王が冷たく言い放つと、鬼童丸は小さく体を震わせながら再び頭を下げた。
そのやり取りを見ていた紗月は、恐怖に押しつぶされそうになるのをグッと堪えた。
雅彦も未だに膝をついたまま動けず、息を荒げている。誰も、この圧倒的な存在感の前で動ける者はいなかった。
紗月は震えながら後ずさりするが、夜叉王がゆっくりと近づくと、紗月と目線を合わせた。
「清雅殿……いや、『白鴉』、そこにいるのか?」
低く響く声が紗月の耳に届き、彼女の目が驚きで見開かれる。
(えっ、清雅のこと知っとるん……?)
(えっ、言ってなかったっけ?夜叉王とは知り合いだよ。)
(知り合い!?それなら清雅のこと言えば何もされへんやろ?)
紗月が一瞬だけ希望を抱くが、清雅の次の言葉でその思いは崩れ去る。
(知り合いって言っても、昔敵だったからなぁ。)
(な、なんで言わんの!?そんな重要なこと!)
(いやー、聞かれなかったし?)
(まさかの火に油やんかっ……!)
紗月は恐る恐る夜叉王を見上げた。彼の目は、まるで紗月の内側に潜む何かを探るような鋭さがあった。
「……霊力も感じない……。式神となったわけでもないのか?」
紗月は何も答えられず、その場で息を潜める。
「霊的な存在でもないとなると……神降ろしの類か……?」
その姿は、紗月を見ているのではなく、紗月を通じて清雅そのものを見ているようだった。
「この娘が意識を失えば姿を現せるのか……?いや……それとも、ただ隠れてるだけか?」
夜叉王の推測は、紗月の中の清雅に迫りつつあった。
紗月はただその場に立ち尽くし、頭の中で清雅を呼びかける。
(清雅……!ほんまに何も言わんの!?どうするんこれ!?)
(じゃあさ、調子に乗るな、このアホンダラーって言ってみたら?)
(言えるわけないやろ!清雅のアホンダラっ!)
「……答えないか。ならば、力ずくで確かめるしかあるまい。」
夜叉王の静かな声が、紗月の耳に冷たく響く。その言葉に、紗月は恐怖で身体を硬直させた。




