厄災の地
——井雷が消えると、静寂が戻った。
蝉の鳴き声が、どこかぎこちなく響き始め、空を覆っていた雨雲は、遠ざかるように消えていった。
「さ、さ、紗月、お姉ちゃん……今の何?」
「さ、さあ、なんやろなぁ……?」
紗月はその場に立ち尽くし、額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。
「……ほんま、なんやったん、今の……。」
ふと視線を落とすと、森の石松が地面にひっくり返り、お腹を見せてピクリとも動いていない。
「石松!?奈々ちゃん、石松、大丈夫なん?」
紗月が焦って近寄ると、石松のボタンの目から涙がこぼれ落ち、かすれた声で呟いた。
「奈々姉さん、手間ぇはまだ覚悟が足りなかった……。あの威圧感、まさに真の『大親分』でございやした……!」
石松は苦しげにひっくり返ったまま、胸をポンポンと叩いて見せた。
「……手間ぇは根性が足りなかったでござんす……。」
奈々は無表情で石松を見下ろしながら、ぽつりと呟く。
「…石松…ビビった?」
「違ぇんでござんす、奈々姉さん!」
石松が跳ね起きるように手を振りながら、任侠らしく胸を張った。
「これはビビったんじゃなくて、覚悟不足による『失神』でございやす!まさに、手間ぇの度胸の無さが露呈しやした……!」
紗月は呆れたように額に手を当てた。
「同じやろ……あんた、任侠気取っとるけど根性なさすぎやろ……。」
(ハハ、これぞ石松クオリティ。可愛いじゃないか、紗月。許してやりなよ。)
(許すとかやないわ……。)
石松は反省して小さく頭を下げるが、すぐに立ち直り、再び任侠風のポーズを取った。
「紗月の姉さん、これからは気張りやす!『大親分』相手だろうと、次はこの石松がビシッと仁義を切りやす!」
「……もうせんでええわ!」
石松は照れたようにまた頭を掻いて見せた。その姿に、緊張が溶けるような笑みが広がる。
(まぁまぁ、紗月。これも経験ってやつだよ。次はもっと派手にやろうぜ。)
「次なんかないわ!もう絶対やらへん!」
紗月の声が森に響き渡る中、遠くで雷鳴の名残がかすかに聞こえた。
紗月は地面に腰を下ろし、深くため息をつきながら頭を抱えた。
「はぁ……なんか役に立つ術、一つでも覚えなあかん……。」
井雷が消えてから、未だに頭が混乱している。それでも、焦る気持ちを抑えられず、紗月は清雅に訴えた。
(さすがにさっきのおじいちゃんはあかん。清雅、なんか他にええ術ないん?)
(うーん……でもね、紗月、井雷も結構強いんだよ。見た目はああだけど、力は侮れない。)
紗月はジト目で清雅を睨みつけ、声を荒げた。
(はぁ!?井戸水ないと何もできん言うてたやん!今の時代、井戸なんかどこにもあらへん!)
(まぁ、確かに。けど、井戸水さえあれば無双できるんだけどねぇ。今度井戸探しでもするかい?)
(するわけないやろ!)
(うーん……じゃあ、基本の式神召喚の術式でも覚えるかい?良い陰陽師には必ず相棒とも言える式神がいるものさ!)
(最初からそれ教えんかい!)
(まぁまぁ、焦らずいこう。式神召喚は基礎中の基礎だけど、それでいて奥深いんだ。)
その言葉を聞きながら、紗月は頭の中でこれまで見てきた式神たちのことを思い浮かべた。
(奈々ちゃんには森の石松がおるし、紅子さんもたしか、口の悪いタヌキを召喚してた……。
彩花様には猫、莉乃にはネズミがおったはずや。)
「……うちにも式神が……。」
なんとなく、みんなと同じように式神を持てたら、仲間に近づける気がする。
それに、陰陽師として認められるんではないか——。
そんな想像をしていると、紗月の心にじわじわと嬉しさが広がっていった。
(よし!清雅、うちも式神呼べるようになりたい。教えてや!)
紗月のやる気に満ちた声に、清雅は満足そうに頷き、指を立てて自信たっぷりに言った。
(任せときなさい!最高の相棒を呼び出す方法、しっかり伝授するから!)
○
嵐山近郊の山間に佇む蓮華院家は、鬱蒼とした木々に囲まれ、その奥に広大な和風の屋敷が広がっていた。
石畳の参道を進む紅子たちの前に、両脇に二体の狛犬が鎮座した荘厳な門が現れる。
「雨止んでよかったですね。しかし、すごいとこだなぁ……。」
「これ、映画セットじゃないの?映えるわー。」
千紘がスマホを取り出し、門の写真を撮り始める。
「ちょっと、遊びに来たんじゃないのよ。」
門を通されると、黒い着物を着た中年の男性が迎えに出てきた。蓮華院家の執事らしく、丁寧に一礼する。
「橘家よりご連絡をいただいております。どうぞこちらへ。」
案内されたのは、静かな庭園を望む広間だった。
しばらくして、広間に黒い羽織を身にまとい、整えられた短髪の男性が姿を現した。
「お待たせしました。蓮華院 朔馬です。」
落ち着いた声で名乗り、静かに座布団に腰を下ろす。紅子も正座し直し、軽く頭を下げた。
「初めまして、陰陽師協会二級、村瀬 紅子と申します。本日は伺いたい事があり参りました。こちらは特級陰陽師の賀茂 千紘と三級の大野 悠希です。」
「よろしくお願いします!」
悠希が少し緊張した声で挨拶すると、千紘は軽く手を挙げて「どもー」と短く挨拶を済ませた。
「陰陽師協会の方々がわざわざお越しになるとは珍しいことです。さて、どのようなご用件でしょう?」
「早速、本題に入らせていただきます——」
紅子は、一呼吸置いてから語り始めた。
橘家の依頼で封印石の調査をしていた際、突如鬼の襲撃に遭ったこと。
彩花と莉乃、橘家の若い二人が攫われたこと。そして、生娘を三人集めて何らかの儀式を行おうとしているらしいという情報。
さらには、封印石の調査で明らかになった「扉」の存在が、鞍馬山へとつながっている可能性が高いこと——。
彼女は要点だけを的確に述べ、話を終えた。
朔馬は少し黙り、瞼を閉じる——
やがて目を開け、低い声で静かに答えた。
「なるほど……」
「蓮華院家は、平安時代から続く門守の一族と伺っています。その知識をお借りできればと思っております。」
紅子が静かにそう告げると、蓮華院朔馬はしばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「——夜叉王。」
その一言に場の空気が張り詰める。朔馬の低く重い声が、蓮華院家に纏わる歴史を語り始めた。
「なぜ、蓮華院が橘家の封印について知っているのか。それは平安時代——かつて陰陽寮に属していた蓮華院家の部下であった陰陽師が鬼と化し、京の都に厄災をもたらしたからです。」
彼の瞳はどこか遠い過去を見つめるようだった。
「当時の陰陽寮とその鬼との戦いは、壮絶で激しいものだったと伝えられています。幾度となく激闘が繰り広げられ、最後には黄泉比良坂を京の都で開き、黄泉の群勢を招き入れようとしました。」
朔馬は深く息をつき、続けた。
「その際、蓮華院家の当主であった蓮華院高信も命を落としました。そして、実働部門の長だった藤原清雅によって、夜叉王は封印され、黄泉比良坂に通じる扉は閉じられました。その後、その封印の地を代々護るよう任されたのが、橘家だったのです。」
紅子たちは息を飲み、静かに耳を傾ける。
「つまり、現代の京都に平安時代の時と同じ厄災が招かれようとしているのです———。」
蓮華院家での会談を終えた紅子たち3人は、石畳の参道をゆっくりと歩いていた。
紅子の顔には珍しく険しい表情が浮かんでいる。蓮華院朔馬から聞いた話が、彼女の胸に重くのしかかっていた。
(……まさか、神の力を借りて黄泉比良坂を開くなんて……。)
紅子が小さく呟くと、隣を歩く悠希が少し戸惑った様子で紅子を見た。
「紅子さん、黄泉比良坂って……日本神話に出てくるイザナギとイザナミの話ですよね?」
「そうよ。黄泉の国と現世をつなぐ境界のこと……日本神話の中で、イザナギが黄泉に行ってイザナミを連れ戻そうとした場所が黄泉比良坂。」
「で、確か、変わり果てたイザナミに驚いて、イザナギは、黄泉の軍勢を振り切りながら、帰ってきたって話しでしたよね。」
紅子は少し立ち止まり、振り返って悠希に向き直る。
「そうよ、でも、現実に『黄泉比良坂』が開かれたら、黄泉の国にいるものが現世に溢れ出す。妖や鬼だけじゃなく、黄泉の軍勢までね。」
「よ、黄泉の軍勢……」
悠希はゴクリと喉を鳴らし、背筋を伸ばして紅子の顔を見た。その隣で、千紘が小さく鼻を鳴らす。
「つまり、地獄絵図ってことっしょ。鬼も妖もゾンビみたいなやつらも、わらわら出てくるとか、マジ面白そうじゃん。」
「軽々しく言わないで。これが現実になったら……本当に取り返しのつかないことになる。」
紅子の声が一段と低くなる。その言葉に、悠希も千紘も口を閉ざした。
参道の石畳を歩きながら、紅子は心の中で蓮華院朔馬の言葉を繰り返していた。
(黄泉比良坂を開くために必要なもの……神の力、そして生娘……。これって……彩花ちゃんたちが攫われた理由……?)
「……千紘、悠希。」
「ん?何?」
「今夜、鞍馬山に行く。どうせ奴らはそこだろうから。」
「……やっぱ行くんですね……。」
悠希が苦笑いを浮かべ、肩を落とした。
「気を抜かないで。これからが本番よ。」
参道の先に見える山道が、静かに彼らを待ち構えているようだった。




