神降ろしの余波
———島根県にある出雲大社の儀式場。
広々とした木造の堂内には、神聖な空気が漂っている。静寂を破るのは、巫女たちの祈りの声と、鈴の澄んだ音色だけ。
特級陰陽師・稲葉真希は、儀式の中心に立ち、一対の鈴を持ちながら祈りの言葉を紡いでいた。
白い衣に赤い袴姿の巫女たちが彼女を囲むように並び、それぞれが静かに頭を垂れている。
「———天つ神、地つ霊、ここに集いし八百万の御魂よ。清らなる声をもってこの地を浄めたまえ……」
鈴が一振りされるたびに、柔らかな音が空気を切り裂き、見えない力が場を包む。
巫女たちが唱和する声が一層高まり、儀式の緊張感が最高潮に達する中、突然———
「……え?」
彼女の目の前に、見たこともない「波動」が浮かび上がる。
(何これ……神気……? 緑ちゃんの時と同じ……!)
「真希さん、どうかしたの?」
近くにいた巫女が心配そうに声をかけるが、真希は鈴をぎゅっと握りしめ、儀式を中断した。
「……すみません。続けていてください」
真希は儀式場の外に足早に向かいながら、口元を手で覆う。
(どうして……またこんなことが……あの時と同じ神気が、しかも緑ちゃんが収監されてる関西方面から……どういうこと……?)
足を止め、彼女は空を見上げた。
雲一つない澄み切った青空が、どこか薄暗い影を帯びたように見える。
「緑ちゃん……これ、あなたじゃないわよね……?」
自問するように呟いた真希の目には、かすかな涙が浮かんでいた。
***
———琵琶湖の周囲を走る一台のハーレーダビッドソン。
エンジンの轟音を響かせながら、特級陰陽師・霧島賢治は風を切って快走していた。
「いやぁー、琵琶湖の風景は最高だなぁ! これだからツーリングはやめられねぇ!」
レザージャケットの袖を軽くまくり、ハンドルを操作しながら景色を堪能する賢治。
だが、次第に腹の虫が鳴り始めた。
「もうすぐ昼飯時かぁ、腹が減ってきたな……ん?」
視線の先に、一軒のラーメン屋が目に入る。白い暖簾に『湖畔ラーメン・雅』と大きく書かれている。
「お、いいじゃねぇか! ここで昼飯にすっか!」
バイクを駐車し、ヘルメットを脱ぎながら店に足を踏み入れる賢治。カウンター席に腰を下ろし、メニューをちらりと見る。
「おっちゃん、特製塩ラーメン! それに餃子も追加でな!」
「へい、少々お待ちを!」
しばらくして運ばれてきた湯気立つラーメンに、賢治の目が輝く。
「きたきたぁ! いただきまーす!」
箸を取り、勢いよく麺をすすり始める。
「かーっ! うめぇ! この塩加減が絶妙だなぁ。琵琶湖を眺めながらラーメンなんて、最高の贅沢だぜ!」
湯気と共に食欲を満たしていたその時、突然、賢治の身体がピクリと反応した。
「ブホォッ!」
口に含んでいたスープを勢いよく吹き出し、テーブルに撒き散らしてしまう。
「ゴホッ、ゴホッ、お、おいおい……なんだこの神気は……?」
賢治の眉が険しくなり、箸を置いて外を見やる。湖の水面が静かに波打つ中、その神気は確かに見て取れる。
「こりゃ、また誰かやらかしやがったな……!」
一瞬、彼の脳裏に過去の光景が蘇る。
(……まさか、神楽坂じゃねえよな……くそっ、今度は誰だよ……)
賢治は立ち上がり、ラーメン代をカウンターに置くと、急いで店を出た。
「状況次第じゃ、俺も動かねぇといけねぇな……。方向は……京都か……? よし、行くぜ!」
ハーレーのエンジンが再び轟き、賢治は琵琶湖を背にしながら走り出した。
***
———『特別異能者収容施設』。
犯罪を犯した陰陽師や異能者だけが収容される、異能管理庁(BPA)が管理する施設。
冷たいコンクリートの壁と厳重なセキュリティに囲まれたその場所で、かつて特級陰陽師と呼ばれた神楽坂緑は、孤独な日々を送っていた。
施設の監視室では、二人の看守がモニターを見ながら談笑している。
「おい、今日も神楽坂はずっと瞑想か?」
「ああ、朝からずーっとだ。六時間は経つ、食事も手つかずで……」
「しかし、いい女なのに勿体無いな」
「……でもよ、あいつ松江でやらかしたんだろ?街一つ吹っ飛ばしたんだぞ?」
「そうだな。今はおとなしくしてるけど、また暴れたらどうするんだ?」
「だからこそ、ここに閉じ込めてんだろ。術式もかけて、能力を封じてるらしいが……まあ、油断は禁物だな」
二人は再びモニターに目を戻した。
中央には固定された椅子の上に緑は静かに座し、目を閉じていた。
(なんで……定着しなかった……国譲り神話に記されていた「器」とは、一体何だったの……?)
瞑想にふける神楽坂緑の意識は、神降ろしの失敗を繰り返し検証していた。
(属性が合わなかったのか……? それとも、祭壇に捧げた贄が違っていた……?)
瞑想の中で緑の記憶は、あの儀式の最中に戻る。
霊脈を整え、符を並べ、国譲りを司る神を迎えるための詠唱を続けていた自分。
「……霊力が逸れた……?」
彼女の瞳の裏に浮かび上がるのは、神気が制御不能となり、儀式が暴走した瞬間だった。
(あの時……何かが干渉していた……?)
緑の眉が微かに動き、より深い思索へと沈む。
(術式そのものが間違っていた……? いや、術式は問題なかった……)
———その時。
彼女の意識に、微かに震える神気が触れる。
(……神気? この感覚……間違いない、神降ろし……!?)
瞑想を続けていた緑の瞳が、勢いよく開かれた。
「どこ……? どこで……?」
緑は立ち上がると、感覚を研ぎ澄ますように息を潜めた。
(……京都……この神気、間違いない。誰かが神降ろしを……)
その瞬間、神楽坂緑の口元に歓喜の笑みが浮かぶ。
***
———嵐山近郊、蓮華院家へ向かうタクシーの中。
紅子、千紘、悠希の三人は、京都の街並みを窓越しに眺めながら座っていた。
「いやー、京都ってやっぱいい雰囲気ですね」
「いやいや、マジでジメジメしてるし、超ダルいんだけど。湿気で髪がメッチャうねるし、最悪」
「ほら、文句言ってないで。蓮華院家なんて、そう簡単に行ける場所じゃないんだから、ありがたく行くのよ」
悠希が空を見上げると、真っ黒な雷雲が広がり始めていた。
「げっ、これ雨降りそうじゃないですか」
「はぁ? でもさ、今日晴れの予報だったよね? これで雨とか、ウチもうホテル帰るし」
千紘がふくれっ面でぼやいた。
「ダメに決まってるでしょ! 仕事なんだから、ちゃんとやりなさい」
窓の外にはポツポツと雨粒が落ち始めた。
「あ、やっぱり、雨降ってきましたよ……」
「ほら、言ったじゃん。帰るのアリじゃない?」
「何言ってんの、行くに決まってるでしょ」
その時、突然「ゴロゴロ……」と低い雷鳴が響いた。
「……え、雷? は?」
悠希が眉をひそめたその瞬間———
「———ドォォンッ!!」
轟音とともに雷が近くに落ち、タクシーの窓がビリビリと振動した。
「うわっ! 近い! やばくないですか!」
タクシーは雨と激しい雷鳴の中を突き進み、蓮華院家へ向かっていった。




