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小野義久

———陰陽寮。


現在の京都御所の北東に位置し、鬼門と呼ばれるこの場所に、平安時代の陰陽寮は静かに佇んでいた。


その陰陽寮の板敷きの廊下を、バタバタと慌てた足音を立てながら走る男がいた。


たちばな 宗助そうすけ――後に橘家の祖となる男である。


彼は目当ての部屋にたどり着くと、挨拶もそこそこに襖を勢いよく開け放った。


「義久、聞いたか!?」


部屋の中には一人、姿勢正しく板の間に座り、書物に向き合って筆を走らせる男の姿があった。


整った顔立ちの細っそりとした人物は、後に「夜叉王」として名を馳せ、自ら人間を捨て鬼となった小野おの 義久よしひさその人である。


「宗助、一旦落ち着け。」


義久は筆を静かに置き、宗助に向き直ると、落ち着いた声で問いかけた。


「入って来るなり挨拶もなく『聞いたか?』とは、一体どういうことだ?…何も聞いておらんし、まったく心当たりもない…何があったのだ?」


「き、清雅様が、帝から直接、異名と位階を賜ったのだ!」


「ほう…それは誠か……。異名と位階とは大したことだ。それで、いただいた異名は何と言うのだ?」


宗助は興奮を抑えきれない様子で答えた。


「使役されている白龍と闇鴉にちなんで、『白鴉』と賜ったそうだ!そして五位の位階も一緒に授けられたと!」


「…白鴉……なるほど、清雅殿らしい異名だ。確かに、彼があの白龍と闇鴉の式神を使役している姿には、どこか凛然たるものがある。それに加えて五位の位階か……。これは陰陽師として異例中の異例だな。」


「そうだろう!陰陽師の中の陰陽師と称された安倍晴明様でさえ、六位止まりだったというのに、清雅様はそれを超える五位の位階を賜った。つまり、清雅様は朝廷から安倍晴明様以上にその才を認められたということだ!」


「これで清雅様の名は、さらに高名な陰陽師として都中に轟くことになる!」


宗助は熱っぽく語るが、義久は静かにその言葉を受け流し、心配した声を出した。


「宗助。一応、注意しておけ。これで陰陽寮長官である安倍晴明様の曾孫、安倍秀明様と同格、さらに儀式部門の長である蓮華院高信れんげいんたかのぶ様よりも上ということになる。」


「……それはつまり…義久、陰陽寮内で争いが起きるということか?」


義久は静かに首を振り、書物に視線を落とした。


「安倍秀明様も、私の上司である蓮華院高信様も、どちらも人格者であり、清雅殿との関係も良好だ。陰陽寮の中でというより、貴族たちの争いに利用されるかもしれん。」


義久の落ち着いた口調に、宗助は眉間に皺を寄せつつ、思案げに呟いた。


「……貴族の派閥争いか…だとすれば、俺たち陰陽師も巻き込まれることになりそうだな。」


「清雅殿がどれだけ高名であろうと、我々には我々の役目がある。それを全うすればいいだけだ。」


「……そうだな。お前の言う通りだ、義久。」


この時話したのお互いの役目が、後の二人の運命にどれほどの影響を与えることになるかを、まだ二人は知らなかった。



———夜の闇が深まる中、小野義久は自宅の門をくぐった。昼間の陰陽寮での議論が頭をよぎりながらも、義久は一息つくように深呼吸をした。


「いま戻った、桜子。」


彼の静かな声が広い庭先に響くと、屋内から足音が近づいてきた。襖が音もなく開き、現れたのは彼の妻、桜子だった。


「お帰りなさいませ、義久様。今日は遅かったのですね。夕餉が冷めてしまったので温め直しますね。」


「いや、先に温かい茶を貰えないだろうか。」


頭上には雲間から覗く月が白く輝き、静かな夜の空気が心地よい。


義久は縁側に腰を下ろし、静かに空を仰いだ。


(清雅殿が五位の位階を賜ったか……。これは陰陽師にとって誉れ高いことだ。だが…。)


義久は眉間に皺を寄せ、拳を軽く握る。


(私の主人である菅原義明様……癇癪をおこし無茶をなさらなければ良いが…。)


彼は義明の顔を思い浮かべた。正直であるがゆえに周りを試みない、彼の敵を作りやすい性格。


(「藤原光昭め……私の家人を次々に引き抜くとは……!これでは家を守れぬ。だが、私は諦めぬ。いつか必ず巻き返してみせる!」)


襖が静かに開き、桜子が茶を持って現れた。その手元には湯気の立つ茶碗と、ささやかな菓子が乗った盆があった。


(清雅殿の主人である、藤原光昭様…本人にその意図はなくとも、今回の清雅殿の件で、益々、有力な家人が集まるだろう。)


「義久様、お茶をどうぞ。」


(私は陰陽師として、義理の弟として、義明様を守るべきだ……だが、たかが陰陽師一人の力でどうにかなるものではない。)


「…義久様、どうかされましたか?」


「桜子か…すまない、考え事をしていた…。」


桜子が差し出した茶を受け取りながら、義久は彼女の顔をじっと見つめた。柔らかな微笑みを浮かべる彼女の姿は、妊娠中とは思えないほど凛としていた。


「桜子……」


「はい?」


「いや、何でもない。ただ……お前とこうしていられる時間が、何よりも貴いと感じる。」


「義久様、そんなことを急に仰るなんて……どうかしましたか?」


「何もない。ただ、これからもお前と腹の中の子を守る。それが私の使命だ。」


その言葉に、桜子は安心したように頷いた。そして静かに彼の隣に座り、二人で夜空を見上げた。


(そして、義明様の国元と藤原光昭様の領地は隣接している……。水の引き込みを巡る対立が、ついに小競り合いにまで発展したと聞く。この争いがどのような結末を迎えるのか……心配だ。)


「義久様……?」


義久は少し微笑みを浮かべ、茶をもう一口飲んだ。


「心配するな、桜子。全て上手くいくさ。」


だが、その言葉とは裏腹に、義久の心の中にあった悪い予感が的中する———国元で戦が始まったという報せが届いたのは、それからわずか一月後のことだった。




———薄暗い朝靄の中、ひんやりと冷えた空気が漂う中で、突如として響いたのは蹄の音だった。


「馬の音だ!数が多いぞ!皆、起きろ!敵襲だ!!」


屋敷の外で見張りをしていた武士が叫ぶ。


その声に続いて、慌ただしい足音が廊下を駆け抜ける。


「殿!殿!藤原光昭の軍勢が押し寄せております!すでに城門前に布陣しています!」


居間で座していた菅原義明は、その報告に眉をひそめた。だが、その瞳には迷いではなく、怒りの色が浮かんでいる。


「光昭め……ついに来たか。全員、持ち場を確認しろ!門を固め、女子供は裏手の山道から避難させるのだ!」


命令を下す義明の声は大きく響き渡る。その隣では、青ざめた表情の桜子が、義久にすがりついていた。


「義久さま、この屋敷に火が放たれるのでは……!ど、どうか、私たちと一緒に裏山へ――」


「桜子、落ち着け。」


義久は、桜子の手をそっと解く。


「桜子、私は殿の命令で戦う。それが家人としての役目だ。お前は避難の準備をしておけ。」


桜子は怯えながらも義久を見つめ、目に涙を浮かべながら小さく頷いた。



屋敷の門前——。


「開けろ!この場で降伏せよ!さもなくば力尽くで門を破る!」


藤原光昭の指揮官が、野太い声で怒号を放つ。


その背後には武装した兵たちが槍や弓を持ち、ずらりと並んでいる。赤い旗が風にはためき、その威圧感が屋敷全体を包み込む。


門の内側では、義明が家人たちとともに陣を張っていた。


「聞け!我は八幡大菩薩の御名のもとにこの地を守る菅原の頭領、菅原義明である!正義を忘れた者に、この門を開けるつもりはない!」


義明の声が響き渡る中、義久は彼の背中を見つめていた。彼の主人がこうして毅然と振る舞う姿には、どこか悲壮感が漂っている。


(この数では持ち堪えられまい……だが、殿の覚悟を無駄にはできぬ。)


義久が小さく息を吐き、錫杖を握り直すと、門外から敵軍の咆哮が響いた。


「構えろォ!破城槌を前に出せ!門を叩き潰せ!」



——ドォン! ドォン!——


巨大な破城槌が門にぶつかるたび、屋敷全体が震える。


「門を守れ!弓兵、矢を放て!」


義明の指示で屋敷の弓兵たちが一斉に矢を放つ。

空を埋め尽くす矢は、敵の先頭を混乱させた。しかし、敵軍の数は圧倒的で、矢の雨にも怯む様子はない。


「破れぬ門など、この世には存在せぬ!叩け!押せ!」


破城槌が再び勢いよく門を打つ。義久はその音に目を閉じると、静かに息を整えた。


「義久!結界を張れ!我が家を守るのだ!」


義久は錫杖を握りしめ立ち上がった。


屋敷内の人々が息を飲む中、敵の軍勢が放った無数の矢が、まるで雨のように空を覆っていた。


「この数の矢をどう防ぐんだ……!」


弓兵の一人が絶望的に呟く。その言葉に反応するように、義久は錫杖を高く掲げた。


「大丈夫だ……!」


義久の静かな声が響くと同時に、彼は地面に力強く錫杖を突き立てた。


———カァーン!!!!———


金属音と共に、錫杖の先端から青い光が溢れ出し、地面に波紋のような光の輪を広げていく。


「天地の理よ、この地を守りたまえ!邪なる矢を遮る結界をここに築く――『八方護陣』!」


義久が一気に詠唱を終えると、青い光が光の壁となり、屋敷全体を包み込むように立ち上がった。


「すごい!あれが陰陽師の力なのか!」


屋敷の兵士たちが驚きの声を上げる中、矢の嵐が光の結界に向かって降り注ぐ。



———ガンッ!ガンッ!———



無数の矢が光の壁に弾き返され、地面に落ちる。その音が、敵軍の喧騒を一瞬だけ静めた。


「こ、これは……矢が通じないだと!?」


「待て……屋敷の中に陰陽師がいる!警戒しろ!」


指揮官と思しき男が声を張り上げた。その言葉に、敵軍の兵士たちの間に動揺が広がる。



「陰陽師だと!?この数の矢を全て防ぐとは……どれほどの腕前なんだ!」



「破城槌も効かぬかもしれんぞ……!」



一方で、味方の屋敷内では、義久の術に守られた者たちが歓声を上げる。



「見たか!義久様が私たちを守ってくださっている!」



「これなら、まだ持ちこたえられるかもしれん!」


義久は静かに結界を維持しながら、敵軍の動きを見据えていた。その額には薄く汗が滲み、息を整えるたびに錫杖がわずかに震える。


「義明様、結界で時間を稼ぎます。ただし、この力も長くは持ちません……!」


義明は屋敷の上から敵軍を睨みつけながら、声を張り上げる。


「よし、全員配置を守れ!敵が結界を越える瞬間が勝負だ!準備を怠るな!」


外では、敵軍の指揮官が結界を見上げながら、憎悪に満ちた目で呟く。


「くそっ、陰陽師ごときにここまで邪魔されるとは……だが、この結界を破らねば、我らの勝ちはない!」


破城槌が再び勢いよく門を叩く音が響く中、義久は視線を結界の先へ向けた。


「私の力が尽きる前に、必ず策を講じてください……!」


———敵軍の喧騒の中、光の結界は力強く輝き続けていた。

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