紗月の居場所
———紗月は懐かしい夢を見ていた。
「……行きたくない。」
紗月は畳に座り込んで、浴衣の帯をいじりながら呟いた。
目の前には、世話役の水尾春江が用意してくれた浴衣が広げられている。けれど、その地味な柄に心が沈むばかりだった。
他の子たちは、華やかな浴衣を着て、髪をきれいに結い上げてもらっている。自分だけが場違いに浮いてしまう――そう思うと、祭りに行くのが憂鬱で仕方なかった。
「何してるの?」
「彩花様……。」
そこには、すっきりと結い上げられた髪に、揺れる髪飾りをつけた彩花が立っていた。
「何でそんな顔してるの?紗月は、お祭り行かないの?」
「……別に。」
「ふーん。」
しばらくすると、彩花が何かを手に持って戻ってきた。
「ほら、これ。」
彩花が差し出したのは、自分がつけているのと同じデザインの髪飾りだった。
「え……いいの?」
「これもう一つあるから。」
そう言うと、彩花は紗月の前にしゃがみ込んで、乱れた髪を整え始めた。
「じっとしててよ。」
彩花の手つきは不器用だったが、それでも丁寧に紗月の髪を結い、髪飾りをつけてくれた。
「よし、できた。ほら、これでお揃い。」
「わあ、綺麗や…。」
鏡に映る自分の姿を見た紗月は、思わず頬が緩んだ。自分の髪に揺れる髪飾りが、まるで特別な魔法をかけられたように感じる。
「ありがとう、彩花様……。」
「大したことじゃないわよ。それより、ほら、行くわよ。」
「うん!」
彩花が先に立ち、紗月がその後を追うように並んで歩き出す。賑やかな祭りの明かりが二人の行く先を照らしていた。
彩花にとっては、ただの気まぐれだったのかもしれない。けれど紗月にとって、それは一生忘れられない思い出になった。
あの髪飾りをつけてもらった瞬間、そして彩花の隣を歩けたこと――そのすべてが、子供の頃の紗月にとって特別で、唯一の「居場所」だったから。
既に明るい部屋の中、紗月は布団に包まれたまま、眩しさに眉をひそめていた。
(おーい、紗月。朝だぞー)
(……う、うぅ……清雅……?)
頭の中に直接響く清雅の声に、紗月は寝ぼけ眼をこすりながら返事をした。
(もう起きないと、術の練習出来ないぞ。)
(……うるさい……頭に直接話しかけんといてって、昨日言ったやんか……)
声が響くたびに、ざわつくような不快感を思い出し、紗月は布団を頭まで引き上げて抗議する。
(もう平気だろ?)
(えっ……あ、あれ、ホンマや……変な汗も出えへん……)
驚きながらも、ざわつくような違和感がないことを確認する。清雅の言葉に耳を傾けると、少し嬉しそうに説明が続く。
(昨日、あんだけ霊力を使ったから、体が霊力に慣れてきたんだよ。)
その一言で、昨晩の出来事が脳裏に鮮明に蘇った。
二体の鬼に襲撃されたこと。美しい女性の姿をした妖に彩花様が攫われたこと。そして、結界の維持に失敗し、意識を失ったこと……。
紗月は慌てて布団を跳ね除け、清雅に問いかけた。
(清雅!み、みんなは、彩花様…以外は…ぶ、無事なんやろか!?)
(アハハ、かすり傷や打撲ぐらいあるだろうけど、みんな無事じゃないかな……)
少し軽い口調の返答に、紗月は胸を撫で下ろし、深い安堵のため息を吐いた。
(よ、よかった……)
だが、ふと頭に浮かぶ疑問に再び不安が広がる。
(……鬼は、誰が倒したんやろか……?)
(さぁ?)
(ハァ……ホンマ、清雅は役に立たんわ……)
呆れた声でそう吐き捨てると、清雅の朗らかな笑い声が頭に響く。
(ハハハ、まぁ、細かいことは気にしない!)
(気にするわ!)
勢いよく布団を跳ねのけ、起き上がった紗月は、全身に走る筋肉痛のような鈍い痛みに顔をしかめながらも、どこかほっとした表情を浮かべていた。
「ところで、ここどこなんやろ……クマのぬいぐるみがぎょうさん置いてあるんやけど……」
「奈々んち。」
「わぁっ!奈々ちゃん?!びっくりした!いつからおったん……?」
紗月は慌てて声の主の方を見ると、橘東奈々《きつとう なな》がクマのぬいぐるみを抱えたまま、じっとこちらを見つめていた。
「ずっといた。」
静かにそう答える奈々に、紗月はさらに驚いた様子で問い返す。
「ここ、奈々ちゃんの家なん?」
奈々はこくりと小さく頷く。
「……奈々の部屋。」
「そ、そうなん……ありがとう、奈々ちゃんの布団に寝かせてもらっとったんやな。」
奈々はまた頷くだけだった。
「でも、うち、なんで奈々ちゃんの家におるん?」
「本家の屋敷、壊れた……奈々んち広いから、みんな来た。」
「そうか…みんな何しておるんやろ?」
「彩花様と莉乃のこと話してる。」
(……ええ子なんやけど、不思議ちゃんやなぁ……)
紗月は心の中でそう思いながら、奈々に向かって軽く会釈をする。
「ごめんな、奈々ちゃん。うち、みんなのとこ行くな。」
そう言って部屋を出ていく紗月を、奈々はじっと見送った。静まり返った部屋の中、紗月が寝ていた枕を見つめると、奈々はそっとそこに顔を埋めて呟いた。
「紗月お姉様の匂い……尊い……。」
——紗月は、皆が話し合っている広間の前で襖に手をかけたまま動けずにいた。
(……入っていいんやろか、うち……)
(早く入りなよ。)
清雅の声が頭の中に響く。
(うち、陰陽師じゃないけど……入っていいんやろか?)
(何言ってるのさ?紗月はもう、陰陽師だろ。)
(それは清雅が勝手に言ってるだけやろ。橘の人間に認めてもらってるわけちゃうし……)
清雅の溜め息がはっきりと聞こえた。
(あー、焦ったいな!彩花様と莉乃を助けるのに少しでも力になりたいんだろ?)
(……うん。)
(だったら覚悟決めなよ。)
その一言が、紗月の背中を押した。
「よし……」
襖をゆっくりと開けると、中のざわめきが一瞬にして止まり、視線が一斉に紗月に集まった。
「あのう……遅れてすいません。」
声が震えるのを必死で抑えながら、紗月は軽く頭を下げる。広間の中を見渡すと、さまざまな表情が飛び込んできた。
紅子は穏やかに微笑み、悠希は小さく手を振っている。その隣では、ギャル風の女の子がスマホでゲームをしていて、こちらにはまるで興味がなさそうだった。
橘家、当主の宗近はまったくの無表情だ。隣に座る雅彦は苦々しい表情で何かを言いたげだった。
そして、他の分家の当主や跡取りたちは、明らかに困惑の色を浮かべている。
「なぜここに紗月が来たのか?」と言いたげな表情だったが、明良だけが優しい表情をしていた。
広間に入るや否や、雅彦の苦々しい声が紗月を出迎えた。
「紗月、今、大事な話をしている。給仕の必要はない。出ていなさい。」
その冷たい一言に、紗月は一瞬、足を止めたが、清雅の(行け、行け!)という声に背中を押されるようにして、思い切って口を開いた。
「……うちも話に参加させてください。彩花様と莉乃を助けたいんや!」
「お前がいてなんの役に立つ?彩花と莉乃は我々がちゃんと救う。邪魔をするな。」
「……邪魔なんて、せえへん……!うち、ほんまに彩花様と莉乃を助けたいんや!」
「それを言うのが邪魔だと言っているんだ。」
「いいじゃないですか、雅彦さん。紗月ちゃんも昨日、あの場所にいた当事者です。」
「部外者が口出しするな!協会の人間に橘家のことをどうこう言うのはやめてもらおう!」
「橘家のことねぇ……で?なんで橘家はこんな才能ある子に下働きのようなことをさせているんです?何か理由があるんでしょう?」
その言葉に、広間の空気が一層険悪になった。紗月は内心、焦りの色を濃くしていた。
(なんでうちのせいでこんな喧嘩に……!清雅!どないしたらええん!?)
(もっとやれやれ!いいぞ、紅子!)
(あかん!喜んどる!?)
「しかも、紗月ちゃんは橘家の人間でしょう?それを蔑ろにするなんて、橘家の跡取りとしてどうなんですか?」
「黙れ!橘家のことにお前が口出しするな!」
「ふーん、そんな偉そうに言うけど、鬼童丸にあっさりやられた人が、よくもまあ……。」
「なっ……!」
雅彦は激怒し、勢いよく立ち上がった。
「やめろ、雅彦。」
宗近の低く、威厳のある声が広間に響いた。
「座れ。ここはお前の感情をぶつける場ではない。」
「村瀬殿、当家のことにあまり深入りなさらぬようお願いいたします。」
「はいはい、了解ですよ。」
その視線が紗月に向けられると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「紗月ちゃん、こっちにおいで。」
「えっ、う、うち……」
「大丈夫。おいで。」
宗近が重々しく頷いた。
「紗月、座りなさい。」
(……ホンマ、空気が悪くなってしもうたけど…これでええんかな……?)
(いいんだよ。早く座りなよ。)
清雅のその言葉に、紗月は少しだけ微笑みながら、心の中で静かに決意を固めていた。
「……はい。」
(……何もできへんと思われても……うちはやるべきことをやるだけや。)




