過ぎた暴風
屋敷に戻るタクシーの中で、橘宗近は窓の外に流れる京都の夜景をぼんやりと見つめていた。
(蓮花院の言葉……あれは、私を追及するためだけの場だったように思える。)
———「先ほど少し触れましたが、京都府警の霊障対策課から各家への事情聴取が行われる話があります。対応マニュアルを作成してありますので、こちらを参考に対応してください。」
そう言いながら、蓮花院朔馬は淡々と用意した資料を一人ずつに手渡していった。
「次に、宗近殿。」
蓮花院が低い声で名指しすると、室内の空気が一変する。他の当主たちの視線が一斉に宗近へ向けられた。
「なぜ七星会や京都府警を通さず、陰陽師協会に直接依頼を出されたのですか?」
宗近は一瞬、答えを飲み込んだ。
「……状況が緊急であったためだ。」
「緊急であっても、まず七星会で話し合うべきじゃないかしら!」
「陰陽師協会に頼るなど、橘家の威信を損なう行為ではないでしょうか?」
次々と飛び交う言葉に、宗近は深く息をつき、重い口調で語り始めた。
「……月影の集いの夜、封印石が砕けた。その中から……長い黒髪、着物姿の男が現れた。」
その一言に、室内は凍りついたように静まり返る。
「着物の男……?」
「封印石から出てきた……だと……?」
「低級の妖が集まっとるだけって聞いとったが。」
当主たちは顔を見合わせ、明らかに動揺していた。
「橘家では到底歯が立たなそうだった。やむを得ず、陰陽師協会に依頼した。」
宗近の言葉に、会議は一気に紛糾する。
「そんな重大なことを黙っていたとは……!」
「その男は何者なのだ?!」
「まさか、それが夜叉王なのではないか?」
蓮花院が重々しい声で語り始めた。
「もしそれが……本当に夜叉王であれば…ただの鬼ではありません。」
その言葉に、全員が息を飲む。
「伝承では、平安時代後期、陰陽寮に所属していた陰陽師が、自ら鬼と化し、黄泉の軍勢を平安京に招き入れた。それが夜叉王です。」
「黄泉の軍勢……そんな馬鹿な!」
「橘家が夜叉王を封じたはずだが、なぜこのタイミングで封印が解けたのだ?」
———「ウーウー!」
サイレンの音で宗近の思考が引き戻される。
突然、京都駅方面からサイレンを鳴らしながら走ってきた緊急車両が、タクシーの前を物凄いスピードで横切った。
「運転手さん。何かあったんだろうか?」
「さぁ、わかりまへんなぁ。ただ、あれは霊障対策課の連中ですな、最近は妖が増えてしもうたみたいで、よう動いてますわ。」
運転手はバックミラー越しに一瞥し、話を続ける。
「ほら、テレビのワイドショーでもよう取り上げてるでしょう? 何年か前にテロ起こした、陰陽師の凄い人、おったでしょう? 名前、なんやったかな……」
「神楽坂 緑のことか?」
「そう、それや!」
「その人ですわ。なんでまぁ、あんな綺麗な女性がテロなんて起こしたんか、不思議でしゃあないけど……いや、違う、話がそれましたな。ほんで、そのワイドショーの話やと、どうも刑務所の中からまた何か仕掛けてるんちゃうかってね。」
「刑務所から……?」
タクシーの中、運転手がバックミラー越しに宗近へ話しかけた。
「ええ、なんでも噂ですけどな、あの神楽坂 緑が最近の霊障事件に関わっとるんちゃうかって。テレビのネタ話ですけど、わしら一般人にはようわからん話や。」
(神楽坂 緑……か。日本を揺るがしたあの事件の張本人……。今さら何かしようというのか?)
タクシーはゆっくりと目的地に差し掛かった。しかし、前方の様子がおかしいことに運転手が気づく。
「あれ、お客さん……なんや、こっから侵入禁止みたいやな。なんでやろ?」
宗近も窓の外を見ると、道の途中に規制線が張られ、警察官が車両を止めて交通を制限していた。
運転手は車をゆっくり止めると、窓の外に首を伸ばしながら尋ねた。
「お巡りさん、ここ通られへんのか?」
「申し訳ありません。この先は霊障事件の調査中です。通行はご遠慮願います。」
運転手が困った顔で振り返る。
「お客さん、どうします?う回路使うてもええけど、ちょいと遠回りになりますなぁ。」
宗近は一瞬考え込んだ後、静かに答えた。
「ここで降りる。歩いて向かう。」
「そうですか、ほな気ぃつけてくださいな。」
○
暗闇が広がる世界。悠希はいつの間にか荒れた地面の上に立っていた。
「ここは……?」
その時、不意に目の前の地面が大きく盛り上がり、巨大な影が現れた。
鬼童丸。
彼の巨大な体躯が、悠希を見下ろしている。その瞳は炎のように赤く輝き、不気味な笑みを浮かべていた。
「人間風情が……みんなを守るだと?笑わせるな。」
鬼童丸の低い声が地響きのように響き渡る。次の瞬間、その拳が地面を叩きつけた。
——「ドゴォォォォン!」
衝撃で大地が砕け、土砂がまるで波のように巻き上がった。その土砂の波は瞬く間に広がり、悠希の足元まで迫ってくる。
「紗月ちゃん!!」
悠希は叫びながら必死に土砂を避けようとする。しかし、視界の端で、紗月が波に飲み込まれる姿が見えた。
「…………!」
しばらくすると、土砂の中から、泥まみれの紗月が這い出てくる。
「どうして……助けてくれなかったの?」
「紗月ちゃん……ごめん…許してくれ…!!」
悠希は言葉を詰まらせ、後ずさる。しかし、紗月はそのまま這い寄るように彼に近づいてきた。
「守ってくれるって……言ったのに……なんで、紅子さんだけ…!私も助けてもらいたかった。」
手を差し伸べる紗月の指先は土砂と血にまみれている。恐怖で体が動かず、悠希はその場に立ち尽くす。
「……紗月ちゃん、俺は……!」
「信じてたのに……!!」———
悠希はガバッと跳ね起きた。全身が汗でびっしょり濡れ、心臓が今にも飛び出しそうだった。
「夢……か……。」
(いや、夢じゃない…)
「俺は結局、紗月ちゃんは守れなかった…」
辺りを見回すと、庭の外では赤色灯が明滅し、パトカーや消防車が立ち並んでいる。悠希はその光景をぼんやりと見つめた。
「おっ、起きたか、悠希!」
明るい声が響く。振り返ると、ポン太が笑顔でこちらに手を振っていた。
しかし、悠希はその声を無視し、拳を地面に叩きつけて、涙を流した。
「ごめんよ、紗月ちゃん……許してくれ……!」
「おい、悠希!テメェ、俺様を無視すんじゃねえ!」
悠希はそれでも泣き続ける。
堪忍袋の緒が切れたポン太は、悠希の頭を思い切り引っ叩いた。
「いてェ!何すんだよ、ポン太!」
「何すんだよ、じゃねえ!よく見ろ!!」
ポン太が指差した先を見た悠希の目に飛び込んできたのは、すやすやと眠る紗月の姿だった。
「へッ……?なんで……?俺……結界で紅子さんとポン太しか守れなかったのに……」
「まぁ、いろいろあったんだよ。お前がへばってる間にな!」
悠希は紗月の寝顔をじっと見つめながら、拳を強く握りしめた。
(無事だったんだ……本当に……よかった……)
「おい悠希、いつまでもしょぼくれてんじゃねえぞ!!」
ポン太の言葉に、悠希は涙を拭い頷いた。
「あっ、そうだ…紅子さんは?」
ポン太が顎で示した先では、紅子と橘宗近、そして見知らぬ男が何かを話し込んでいる様子だった。
橘宗近は険しい表情で何かを訴えかけており、紅子はいつものように涼しい顔でそれを聞き流している。見知らぬ男は手帳を開きながら、二人の話を冷静に記録しているようだった。
「……何を話してるんだろうな……」
「さぁな。でも、きっとお前には関係ねえ話だろ。今はお前がやるべきことを考えろよ。」
(……やるべきこと……そうだ、このままじゃダメだ。)
「俺が……もっと強くならなきゃ……!」
小さく呟いたその声は、ポン太にも届かないほどだったが、悠希の中では確かな炎が灯っていた。
(もう二度と、誰かを守れなかったなんて思いはしたくない。)
悠希はそっと立ち上がると、改めて紗月の寝顔を見下ろした。その表情は穏やかで、夢で見た、泥と傷にまみれていた姿とはまるで違っていた。
「次は……必ず守る。」——




