紗月の限界
夜風が肌を撫でる中、紗月は明良の指示に従い、皆が配置に着くまで待機していた。心臓は早鐘のように鳴り響く。
(うち……ホンマにやれるんかな……いや、やるって決めたんや…)
そう思いながらも、明良に教えられた呪文を小声で呟く。言葉を発するたび、霊符が微かに光を放つような気がした。
「彩花様……莉奈……絶対助けたる。」
「紗月もとうとう陰陽師かー。相棒としてはうれしいなァ。」
(ああ、もう、相手してる場合ちゃう……集中や、ちゃんと集中せんと!)
紗月は内心で叫びながらも、頭がいっぱいいっぱいで清雅の相手をする余裕などなかった。ただ必死に霊符を握りしめ、震える手を見つめるだけだ。
「紗月、俺が前に肩に手を置いて霊力を流した感じ、覚えてる?」
「忘れるわけないやろ! あんな気持ち悪いの……思い出したらまた変な汗出てきたわ!」
「そうそう、最初はみんなそうなんだ。その“変な汗”の感覚、覚えてれば大丈夫だよ。」
「ホンマかいな……。」
紗月は半信半疑だったが、今は清雅の言葉を頼るしかなかった。震える手を抑えながら、霊符に意識を集中する。
(清雅が言うように……変な汗が出てきた感覚……あの時の……。)
肩に感じた温もり、霊力が体内を駆け巡ったあの感覚を思い出す。
――微かに、霊符が暖かくなるような気がした。
「そう、それだ。それが霊力を流すってことだよ。」
(うち……ホンマに出来てるんやろか?)
不安と期待が入り混じる中、紗月は深呼吸をし、霊符を握りしめた。目の前の鬼たちの雄叫びに、体が震えたが――
「大丈夫、うちは出来る……出来るんや。」
紗月は自分に言い聞かせるように、再び教わった呪文を呟き始める。
紅子は紗月達の意図を察して、二匹の鬼を足止めしてくれている。
袖から霊符を取り出し、軽快に呪文を唱えた。
その瞬間、紗月の目の前にふわりと現れたのは、一匹のたぬき――いや、たぬきの式神だった。
丸々とした体つきに、どこか愛嬌のある顔立ち。しかし、口を開いた瞬間、その愛嬌は吹き飛んだ。
「おいおい、紅子、ふざけんじゃねぇ!何だって俺をこんな窮地に呼び出すんだよ!しかもこんなヤバイ鬼相手に!冗談じゃねえっての!」
(え、何やこのたぬき……すごい口が悪い……。)
紅子はそんなたぬきの文句を聞き流し、冷たく一言。
「ポン太、いいからやりなさい。やらないとたぬき汁にするわよ?」
「うぐっ……分かったよ!やればいいんだろ、やれば!クソッ!後でたらふく美味いもん食わせろよなぁー」
(まさかの……食い意地が張ってるたぬきやなんて……。)
ポン太は不機嫌そうに頬を膨らませると、渋々と頭に葉っぱを乗せて、呪文を唱え始めた。ポン太の体が淡い光に包まれ、やがてその姿は巨大な鬼童丸の姿に変わっていく。
「うおおお!俺様の新しい姿、見てみろよ!完璧な変化だろ?」
変化したポン太鬼童丸は、大袈裟にポーズを決めたり、間の抜けた顔で舌を出してみたり、さらにわざとらしくおどけた声で喋り始めた。
「おいおい、これがお前さんお得意の怖い顔?ぷぷっ、あんた、それで威圧してるつもり?」
「何だテメェェェ……俺をコケにしてんのかァァァァ!?」
「そうだけど、何か?」
「ぶっ殺すぅぅぅ!!」
本物の鬼童丸が声を荒げ、目を血走らせながら一気に距離を詰める。しかし、ポン太鬼童丸はひらりと身を翻した。
「おっと、そんなノロマじゃ俺に当たらないよー?」
「覚悟しやがれぇぇぇ!ぶっ潰してやるぅぅぅぅ!」
「ほらほら、こっちだよー!ほーれこっちこっち!」
ポン太鬼童丸は挑発を続けながら、すばしっこい動きで鬼童丸から逃げ回っていた。その間に、紅子と烈火童子が火花を散らすような炎術の応酬を繰り広げていた。
「火炎滅焼!」
紅子が放つ炎の奔流が烈火童子を襲うが、烈火童子も負けじと叫ぶ。
「炎嵐獄破!」
二つの炎が激しくぶつかり合い、夜空を鮮やかな赤に染めていく。熱気が広場全体に広がり、紗月はその熱さに思わず顔をしかめた。
(すごい……紅子さん、あの鬼と渡り合ってる……。)
その時、明良の声が聞こえた。
「位置に着いた!やるぞ!」
紗月はその言葉にハッとし、自分の配置に急いで戻った。手に握った霊符は、汗で少し湿っていた。
(彩花様と莉奈を絶対助ける……!)
紗月は震える手を握り締め、明良から教わった呪文を思い出した。声が少し震えながらも、彼女は呪文を唱え始める。
「……天つ霊、地つ力、五行の理に従いて……四方を守り給え――『四方守護結界』!」
声が震えないように努めながらも、緊張で喉が引きつる。それでも、紗月は必死に霊符に霊力を注ぎ込む。
(あかん……初めてやから力の入れ加減がわからへん、こんな力入れるんやったんか……?)
結界の淡い光がゆっくりと広がり、ドーム状に形を成していく。その光は徐々に色を濃くしながら、中央に向かって収束していった。
「対象は鬼二体のみ、そのことを強く意識するんだ!」
明良の声が紗月の耳に届いた。
(対象……鬼二体だけ……!)
紗月は喉を鳴らし、頭の中で鬼童丸と烈火童子の姿を思い浮かべながら意識を集中させる。
その瞬間、結界の光は紅子とポン太をすり抜け、鬼たちだけを囲むように変化した。
鬼童丸と烈火童子は異変に気付き、焦った様子で結界を叩き始める。
「なんだこれ……出られんぞ!?」
「ふざけんなぁぁぁ!俺と戦えぇぇぇ!!」
鬼童丸が結界を殴る度に、内部に篭った音が響くだけで外へは何も伝わらない。烈火童子もガスになってすり抜けようとするが、結界はどんどん小さく収束していく。
四方守護結界は内と外が完全に隔絶された別世界となっていた。
その様子を見た紅子は、ポン太を連れて結界の外に立ちながら息をついた。
「ふぅ、もう限界よ…立ってるのがやっとだわ……!」
橘南家の明良も達也も、安堵の表情を浮かべる。
「す、凄い、本当に……封じ込めた……」
悠希が驚きと喜びを混ぜた声で呟いた。
一方、ポン太は満足げに紅子を見上げた。
「な、見ただろ?俺、役に立ったよな?肉とか、魚とかいいやつ頼むぜ!」
紅子は微かに笑いながらポン太の頭を軽く叩いた。
だが――。
紗月だけは違った。
(なんや……力が入らんくなってきた……。)
霊力の力加減がわからない紗月は一気に限界まで霊力を注いでしまった。彼女の体は、限界に近づいていた。手足が痺れ、視界も暗くなり、霊力の流れが不安定になり始める。
(……け、結界が……安定せえへん……!)
結界の北側部分がわずかに揺らぎ始め、光が薄れ、明らかに力を失いつつあることがわかる。
(…うちは諦めへん…絶対にやり遂げるんや……!)
自分に言い聞かせるように心で叫ぶが、体は正直だった。霊力の消耗が限界に達し、紗月の膝はガクガクと震え始める。
「……紗月ちゃん、大丈夫!?」
(お父さん…清雅…うちはもう逃げない…うちはやれ…る……ん………や……)
悠希が気付いて叫ぶが、紗月はそれに応えることもできず、ただ震える手で霊符を握りしめ、絞り出すように霊力を送り続け――意識は静かに深い暗闇へと沈んでいった。




