月影の集い
夜空には満月が輝き、橘家の庭園にある円形の儀式場には参加者たちが並んでいた。
紗月もその列の一番端に立っていたが、その手には霊符ではなく、予備の霊符を納めた箱が握られていた。
(……やっぱり、うちには関係ないことやな。)
紗月は箱を抱えながら、ちらりと本家の方を見た。
橘家当主である橘宗近は、分家筋の者たちに指示を出している。
その横に並ぶ、彩花たちの姿が、どこか遠い存在のように感じられた。
「橘家のみなよ。今宵の月影の集いは、我が家に伝わる重要な儀式だ。結界を調整し、先祖の遺志を守るのが我らの務め――忘れるな。」
周囲の参加者たちは一斉に頷く。
その瞬間、庭の中央に設置された石碑が、薄く輝き始めた。それは古くから橘家が守り続けてきた「封印の石碑」だった。
参加者たちは一斉に霊符を掲げ、術式を唱え始めた。
「天つ神、地つ霊、三界を貫く光よ、 我が声に応えよ。」
「五芒の星、五行の理、封じられし力よ、 今はまだ深き眠りの中にあれ。」
「輪を結びて道を調え、千代に続け、邪を退けよ――『月影結界の調律』!」
五芒星の陣が徐々に庭の中央に浮かび上がり、柔らかな光を放つ。
その光が石碑へと吸い込まれ、満月の光と共鳴するかのように石碑がさらに輝きを増した。
儀式に参加している術者たちが掲げた霊符もまた、淡い光を放ち始める。
それぞれの符の光は術者の力を示すかのように強弱があり、雅彦と彩花の符は特に明るく輝いている。
「……す、すごい……。」
分家筋の者たちの中にも、符の光が強い者が数人いたが、それでも長男の橘雅彦と彩花の符が放つ光は群を抜いていた。
(やっぱり……彩花様と雅彦さんは違う。)
紗月は少し離れた位置からその光景を見つめていた。その眩い光が自分に届くことはないと知りながらも———
「……でも…うちには無理やな。」
紗月は小さく自嘲気味に笑い、抱えた予備の霊符の箱を見下ろした。
分家筋の若い者たちですら、それぞれの符を掲げ、儀式に加わっている。しかし、自分はその列に加わるどころか、霊符を渡すだけの役割だ。
「どうせ、うちはここにおるだけの世話役やし……。」
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥で広がる孤独感を消すことはできなかった。雅彦と彩花が放つ光の中で、自分がいかに小さな存在かを思い知らされる。
(でも……あの光、ほんまにすごいわ……。)
その目には、憧れと悔しさ、そしてほんの少しの諦めが混ざり合っていた。
(……うちなんかが、ここにいる意味あるんかな。)
そんな思いが胸をよぎった瞬間、石碑から突然「パキッ」という音が響いた。
「……な、何やの、今の音……?」
誰も気づいていないようだったが、紗月には石碑がひび割れるような音が聞こえた。
(まさか……石碑が……?)
胸の奥にざわめきが広がる。紗月は箱を抱えたまま、石碑をじっと見つめた。
———しかし、術式が終わると石碑の光は再び静かに収まり、いつもの静けさを取り戻した。
当主が参加者たちに一言声をかけ、儀式が終了を告げた。分家の者たちは安堵の表情で一礼し、それぞれ酒宴の準備が整った屋敷の中に入っていく。
(……あの音、何やったんやろ。)
———屋敷の中は、儀式の厳かさとは対照的に、明るい雰囲気で満ちていた。
広間に用意された長い宴席には、橘本家の家族と分家筋の人々が整然と席についている。
上座に座る橘家当主、橘 宗近は、一同が揃ったのを確認すると、席を立ち、静かに手を挙げた。
その動作一つで広間のざわめきが消え、全員が宗近に注目する。
「橘東家、橘西家、橘南家の皆様、今年も感謝いたします。」
「皆様の協力のおかげで、本年も無事に『月影の集い』を終えることができ、橘家の祖、橘宗助の約定を守ることが叶いました。ささやかではありますが、どうぞこの席でゆっくりとお楽しみください。」
宗近が杯を掲げると、他の者たちもそれに倣い、一斉に声を上げた。
「乾杯!」
席が再び和やかな雰囲気に包まれる中、紗月は春江や他の世話役たちとともに、料理や酒を運ぶため忙しなく動いていた。
分家の当主たちは順番に宗近へ挨拶をし、儀式の無事を祝う言葉を交わしていた。それぞれに続く雑談や笑い声が、宴席に賑やかな色を添えている。
紗月は厨房と宴席を行き来しながら、その光景を横目に見ていた。褒められる息子や娘たちの姿がまぶしく、彼らとは違う自分に小さく肩を落とす。
(結局、うちはここで料理を運ぶだけや。それでも……頑張るしかない。)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥にわずかな違和感が残る。石碑の音――あのひび割れが、頭を離れない。
(……月影の集いが終わっても、本当にこれでええんかな。)
その時、春江の指示で酒を運ぶよう声がかかる。
「紗月、橘南様のお酒が切れてるわ。持っていってちょうだい。」
「は、はい!」
紗月は急いで酒瓶を持ち、橘南家の当主、橘南明良のもとへ向かった。彼の端正な顔立ちが優しくほころび、紗月を見ると小さく頷いた。
「おっ、紗月か。元気にしていたか?」
「は、はい……」
不慣れな敬語で答える紗月に、明良は柔らかい笑みを浮かべながら続けた。
「橘北の奥方様は……いや、お母上はお元気か?」
紗月は一瞬驚いたが、すぐに答えた。
「はい、今は少し歩けるようになりました。」
「そうか……それはよかった。橘南明良が心配していたと伝えてくれ。」
「はい……ありがとうございます。母も喜びます。」
紗月は深く頭を下げた。その瞬間、隣にいた少女――橘南家の娘、莉乃が鋭い声で口を挟んだ。
「父さん、橘の血を引いているのに、術も使えないような人と話すのはやめてください。」
(莉乃……)
その言葉に、紗月は顔を上げることができなかった。
「莉乃……口が過ぎるぞ。」
明良がたしなめるも、莉乃は顔をそむけ、軽く鼻を鳴らした。
「事実を言っただけです。」
それだけ言い残し、莉乃は席を立って別の場所へ向かった。
紗月は下を向いたまま、なんとか震える声で答えた。
「お気遣いありがとうございます……失礼します。」
そして足早に宴席を離れ、炊事場へ戻った。目頭が熱くなるのを感じながら、紗月は必死に深呼吸を繰り返した。
(……莉乃も昔と変わってしもうた…うち、なんかしたんやろか……。)
紗月が炊事場に戻った後も、酒宴は続いていた。広間に用意された長い宴席では、橘家の家族と分家筋の人々が和気藹々と杯を交わし、笑い声が絶えなかった。
「そういえば、本家の跡取りである、雅彦君の陰陽師協会入りが決まりましたな。」
「そうらしいですね。宗近様もやっと肩の荷が降りたんではないですか。」
橘東家の当主がそう言うと、橘南家の当主も頷きながら杯を掲げた。
宗近はそれを見ながら満足げに微笑み、再び杯を口に運んだ。
———その時、庭から低い「ゴゴゴ……」という不気味な音が響いてきた。
宴席の和やかな雰囲気が一瞬で凍りつく。
「……何だ、今の音は。」
宴席の人々もざわめき始め、誰もが庭に目を向けた。
紗月も慌てて炊事場から顔を出し、その音の正体を探ろうとした。
音は徐々に大きくなり、何か異質な、禍々しい気配を帯びている。
「まさか……封印の石碑が……?」
「庭に出るぞ!」
分家の当主たちも立ち上がり、宗近の後を追って廊下を駆け抜けていく。
彩花は焦った表情を浮かべながら、父の背中を追って庭に向かった。
紗月はその場に立ち尽くし、震える手で自分の胸を押さえていた。
(なんや……何が起きてるん……?)
下人たちの「紗月、見に行くな!」という声を無視し、足が勝手に庭へと向かっていた。
(見に行くなと言われても、あの音……うちが聞いたあの音と同じやった。)
屋敷を出た瞬間、肌にまとわりつくような不気味な気配が広がっている。
庭の中央の石碑から、黒い霧のようなものが細く立ち上り、その霧は、まるで生きているかのように渦を巻いていた。
「な、何やこれ……。」
その場に駆けつけた橘家の人々は、ひび割れた石碑を見つめて言葉を失っていた。
「……封印が、解けつつある……。」
宗近の顔が険しさを増す。分家の当主たちもそれぞれ霊符を手に構え、緊張感が張り詰める。
「ゴッ……パキッ……!」
石碑全体がひび割れ、周囲に渦巻く黒い霧が空へと舞い上がっていく。
紗月は思わず後ずさり、胸の奥がざわめきで満たされた。
(やっぱり……儀式の時の音……これやったんや……。)
庭に集まった全員が次に起こる事態を予想しながら、息を呑むように石碑を見つめていた。