月下の絶望
雲に隠れていた月が再び姿を見せ、屋敷の庭に柔らかな月明かりが降り注いだ。
白髪の妖狐・葛葉が、彩花を伴って屋敷の外へと姿を消していく。その姿が完全に見えなくなると――幻術が、ゆっくりと自然に解け始めた。
「……はっ?」
悠希が突然息を呑んだ。ぼんやりと宙を見つめていた瞳に、ようやく焦点が戻る。
「紗月ちゃん……?」
隣にいる紗月を見ると、悠希はなぜか顔を赤らめ、口元を手で隠すようにしながら視線を逸らした。
「あれ……?マジか…夢……だったのか?」
その奇妙な様子に紗月は一瞬、不思議そうに悠希を見つめる。しかし、次の瞬間、ハッとしたように顔色を変え、悲壮な声で叫んだ。
「悠希くん、彩花様が攫われてしもうたんやッ!」
紗月の叫びが、静まり返っていた屋敷の庭に響き渡った。
その声を合図にするように、幻術から解放された紅子、雅彦、明良たちが次々と我に返った。揃って立ち尽くしたまま、彼らの視線が自然と一点に向かう。
――そこには、彩花が先ほどまで立っていた場所。
その真ん中に、彼女の神楽鈴がひっそりと転がっていた。
「彩花……!」
雅彦が呻くように呟き、悔しそうに拳を握りしめる。
「くそっ……!」
「紗月ちゃん……いったい、何があったの?」
紗月は息を整えながら、紅子に言葉を紡ぐ。
「耳が生えた女の人が、彩花様を連れて行ってしもうたんや……!」
「耳が生えた女……?」
紅子が眉をひそめて考え込んだその時――。
突然、周囲の空気が変わった。
「……ん?何だ……?」
屋敷の庭のあちこちに、小さな火の玉が次々と浮かび上がる。それは赤く揺らめき、不気味に輝きながら宙を漂っていた。
「これは……!」
火の玉はまるで意志を持つかのようにゆっくりと集まり始める。空間の一箇所に凝縮され、渦を巻くように収束していく。
――その中心に、炎が爆発するように弾けた。
「ハハハハハッ!」
豪快な笑い声と共に、その場に現れたのは――炎を纏った異形の青年。
「久しぶりだな、人間ども!さっきはちょっと面白かったぜ。」
「烈火童子……!」
紅子が低く呟いた。
烈火童子は紅い瞳を細めながら不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、続きをしようか。今度はこっちからもいかせてもらうぜ……!」
その声に反応するかのように、低く重たい声が何重にも巻かれた鎖の中から響く。
「待てよ……一人で楽しもうとするな、俺のことも忘れるんじゃねえよ!」
紅子や雅彦が驚きに目を見開く中、烈火童子はその声の主――鎖に拘束された鬼童丸の姿を見て、肩を震わせながら大笑いしだした。
「アハハハハハッ!なんだその姿!新しい着物か?なかなか似合ってるじゃねぇかよ!」
「うるせーっ!!ちょっと油断しただけだ……!葛葉の奴がうるせーからさっさと片付けて帰るぞ、烈火童子!」
その言葉に、烈火童子はピタリと笑いを止め、目を細めて吐き捨てるように言った。
「……あの女狐が!おやっさんに媚び売りやがって……ずる賢い奴だ。いつ裏切るか分かったもんじゃねぇぜ。」
烈火童子の顔には嫌悪と警戒の色が滲んでいる。だが、次の瞬間、鬼童丸のいる場所から異様な気配が漂い始めた。
「……っ!?」
空気が震え、霊力の濃さに周囲の景色が歪み、陽炎のような揺らぎが立ち上る。
紅子は即座にその異変を察知し、声を張り上げた。
「…まずいッ?!」
紅子は手早く懐から新たな霊符を取り出すと、それを鬼童丸に向かって投げ、素早く印を結び始める。
「霊符強化――封縛、再結!!」
霊符が青白い光を放ちながら鎖を強化し、鬼童丸を押さえ込もうとするが——。
「……!」
「うおぉぉぉぉぉぉぉーーーー!!」
その唸り声と共に、鬼童丸の体から爆発的な霊力が解き放たれた。地面が震え、風が巻き起こる。紅子が強化したはずの鎖は、軋む音と共に次々と引きちぎられていく。
「なっ……!」
「こ、これは……!」
鎖が完全に弾け飛ぶ———
そこに現れたのは、先ほどとは明らかに違う鬼童丸の姿だった。
鬼童丸の体は一回りも二回りも巨大化し、背中からは異形の四本の腕が突き出していた。そして、頭の裏側には二つの顔が浮かび上がり、全てが狂気に満ちた笑みを浮かべている。
「遊びのぉぉ時間はぁ終わりだぁぁぁぁ!!」
その声は重低音で空気を震わせ、彼の周囲にただならぬ圧力が放たれる。あまりの威圧感に、紅子たちの背筋に冷たい汗が流れる。
「本気で行くぜぇぇ……!すぐに死んでくれるなよぉぉ!少しは楽しませろよォォォォ!!」
鬼童丸が地面を力強く踏み込んだ瞬間――
———「ドゴォーーーーン!!!」———
爆発的な衝撃波が周囲に広がり、地面が砕け散った。その轟音は大気を揺るがし、周囲の建物すら悲鳴を上げるように軋んだ。
「なっ……!?」
その衝撃は一瞬にして、雅彦、直人、慶介を飲み込む。三人は反応する暇もなく、凄まじい力に叩きつけられ、屋敷の壁をぶち破りながら遠くへと吹き飛ばされていった。
「うわあああああっ!!!」
壁が砕け、瓦礫が飛び散る。彼らの姿は、まるで紙切れのように宙を舞い、あっという間に視界から消え去る。
(う、う、嘘やろ……あの雅彦様が…)
紗月は唖然として立ち尽くした。
明良は達也と共にその場に固まり、息をすることすら忘れたかのように目の前の光景を凝視する。
一方、紅子は――
(は、速い……っ!!)
予想を遥かに超える速度と破壊力に、背筋を冷たい汗が伝う。目の前の夢のような光景に、手に握った霊符がわずかに震えた。
「アッハハハハハ!!やりすぎたかぁぁぁ!? 生きてるといいなぁぁぁ!!」
狂気じみた笑い声を響かせながら、鬼童丸は両腕を広げ、さらなる破壊を楽しむように見下ろしている。
「紅子さん!!後ろ――!!!!」
悠希の叫びが届くか届かないかのうちに、紅子の背後で異変が起こった。
空気が揺らぎ、ガスのような霧が集まり始める――。
「……っ!?」
次の瞬間、紅子の背後でガスの霧が急激に凝縮し、形を成す。実体化した烈火童子がニヤリと不敵な笑みを浮かべながら指をクイッと上げた。
「俺もいるんだぜ、よそ見するなよ。」
———「ボンッ!!!」———
紅子が立っていた場所が、烈火童子の指の合図と共に爆炎に包まれた。凄まじい爆発が辺りを飲み込み、炎の柱が立ち上る。
「くっ……!!」
紅子はギリギリで反応し、爆風を避けるように横に跳ねる。しかし、爆炎の余波に巻き込まれ、地面を転がりながらその場を離れた。
「……っはぁ、はぁ……!」
服の一部が焼け焦げ、頬には火傷の跡が浮かぶ。
「……!」
烈火童子はゆっくりと歩を進めながら、余裕たっぷりに笑っている。
「どうした? その程度で限界か? まだまだ――燃やし足りねぇんだよ!」
紅子は立ち上がり、霊符を握りしめながら次の手を考える。
(……あーもう……千紘は何やってるのよ…あんたの好きな戦いよ、肝心な時にいないんだから――)
紅子の頭をよぎるのは、特級陰陽師の賀茂千紘、戦闘しか役に立たない、暴虐無尽な自己中娘。
「もう………!」
紅子は再び霊符を構える。
「面白ぇ! もっとだ、もっと暴れさせろ!!」
同時に、背後の鬼童丸も再び動き出す。
「死ぬ寸前まで楽しませろよォォォォ!!!」




