莉乃の涙
紅子と悠希が石碑の周りを調べている中、紗月はふと夜空を見上げた。ほぼ満ちた月が静かな夜を照らしている。
(綺麗なお月様やな……もうすぐ満月や。昨日、封印から出てきた怖い人も、そのままどっか行って、大人しくしてくれればええのに……)
清雅を見ると、いつもの呑気な顔で笑っている。その態度に、紗月の胸には少しだけ苛立ちが湧いてきた。
(清雅もなんか知っとるようやけど、なんでか知らんけど、いつも難しい言葉ではぐらかしよる……はっきり教えてくれたらええのに)
「あんた天才陰陽師なんやろ。麒麟だかなんだかよう知らんけど、封印から出てきたあの怖い人、清雅が封印したらええんちゃうの?」
清雅はスルスルっと紗月に近づき、腰に結んだ霊符の入った袋に手を伸ばした。しかし、その手は袋をするりとすり抜けるだけだった。
「えっ、何してんの?」
紗月が怪訝な顔をする中、清雅は次に印を結ぼうと、指を絡ませようとする。しかし、手を合わせても指が絡むことはなく、印を結べない。
「本当、何してん——?」
さらに清雅は声を張り上げ、言霊を唱え式神を召喚しようとした。その声は紗月にははっきりと聞こえていたが、紅子や悠希には全く届いていないようだった。
清雅は「やれやれ」と肩をすくめながら、首を振る。
「どうやら俺はこの現世と完全に乖離してるみたいなんだ。なんで紗月にだけ俺の存在がわかるのか、正直、俺にもわからないんだよね」
その言葉に紗月は思わず呆れた顔をする。
「……なんや、ようは役立たずってことやんか」
清雅は「えっ?」と目を丸くし、慌てて反論する。
「え、役立たずじゃないよ。さっきも起こしてあげたでしょ?」
「……あんたは目覚まし時計かい!」
「まぁまぁ、でもさ、紗月がいるから俺もここにいられるんだよ。これってある意味、運命じゃない?」
「目覚まし時計がおる意味って、安い運命やな! それに、うちを勝手に巻き込まんといてや! ほんま、ろくでもないことばっかり起きよるやん!」
紗月は心底呆れた表情で清雅を睨みつけていると、ふいに視線の端に橘南家の当主、橘南明良が飛び込んできた。
その表情はいつになく険しく、息子の達也と何やら真剣に話し込んでいる。
(どうしたんやろ……なんかあったんかな?)
その緊迫感に思わず引き寄せられ、紗月は近くにいた彩花にそっと近づいた。
「彩花様、なんかあったんやろか?」
小声で問いかけると、彩花は少し眉をひそめ、迷うように口を開いた。
「……たぶん、莉乃のことじゃないかな……泣きながら飛び出して行ったのを見たし」
「えっ、莉乃……?」
名前を聞いた瞬間、紗月の胸にかすかな不安が広がった。
(そういえば、今日は一度も莉乃を見かけてへん……)
ふと、小さな頃の記憶が脳裏に蘇る。莉乃――橘南家の娘であり、今は一つ下の一年生。
同じ京都帝院学院に通う後輩だ。彼女の幼い頃の笑顔を思い出し、紗月は少しだけ目を伏せた。
(あの頃は、ほんまに仲良かった……)
紗月が赤ん坊の頃に亡くなった父、詳しくは分からないが、本家を裏切っていたとして、橘北家が断絶される話が持ち上がった。
その時、明良さんだけは「そんなはずがない」と最後まで反対してくれたと聞いている。
紗月が本家に引き取られてからも、明良さんがよく気にかけてくれていた。
(明良さんには、ほんまに感謝してる……。そんな人の娘やから、うちも莉乃のことを大事にしようと思ってたんやけど……)
「紗月お姉ちゃん!」と笑いながら駆け寄ってくる莉乃の姿が、心に浮かぶ。
(あの頃の莉乃は、ほんまに懐いてくれとったなぁ……)
一緒におやつを食べたり、本を読んであげたり、隠れんぼをしたり。まるで本当の妹のように慕ってくれた日々。しかし、その温かい記憶は中学生の頃から徐々に変わっていった。
(あの頃や……莉乃のお母さんが亡くなった時……)
ちょうどその頃から、莉乃の態度は一変した。顔を合わせるたびに、辛辣な言葉を投げかけられるようになった。
「何しに来たの? 紗月お姉ちゃんがいても、どうせ何も役に立たないし!」
「なんで何も出来ないのに橘家にいるの? 邪魔なだけなのに!」
(あの言葉、何度も刺さったなぁ……)
それでも莉乃のことを嫌いになれなかったのは、彼女の目に映る寂しさを感じていたからだ。
(……たぶん、莉乃もいっぱいいっぱいやったんやろな……)
そう思いながらも、紗月は自然と莉乃を避けるようになっていた。会えばまた辛辣な態度を取られるのがわかっているからだ。できるだけ距離を置き、関わらないようにしてきた。
(せやけど、もしほんまに莉乃に何かあったんなら……)
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「彩花様、莉乃が泣きながら飛び出したって……ほんまですか?」
「ええ。私も詳しくは知らないけど、見たのは確かよ」
彩花の言葉を聞きながら、紗月は夜空を見上げた。ほぼ満ちた月が輝き、静かな夜風が彼女の髪をそっと揺らす。
(どうして、何もできへんのやろ……うち、ほんまに役立たずや)
紗月はそんな自分に嫌気が差す。
(莉乃……どこに行ったんやろ……)
***
橘本家へと続く、細長い竹林の小道を、莉乃はひとり歩いていた。
(……帰ったら、お父さんに謝ろう)
ふと、頭上から笹の葉がひらりと落ちてきた。莉乃はそれを拾い上げ、迷いのない手つきで笹舟を折っていた。
作り終えた笹舟を、道脇を流れる細い水路へ静かに流す。
「莉乃、笹舟はこうやって折るんやで」
「紗月お姉ちゃん、すごい!」
小さな舟が並んで流れていくのを、肩を並べて眺めていたあの頃——
だけど——思い出してしまう。
「紗月ちゃん、いつもよく頑張ってるな。これ、君に渡したいんやけど」
父が手渡したのは、学院でも滅多に触れられないほどの高級霊符。
莉乃がずっと、欲しくて欲しくて、手にすることを夢見ていたものだった。
(術も使えないのに……なんで私じゃなくて、紗月お姉ちゃんなの……?)
小さく息を吐いた、その瞬間——
——ざわっ。
莉乃は慌てて周囲を見回した。
(……なに、この感じ……)
次の瞬間、強烈な風が巻き上がり、石畳いっぱいに落ち葉が舞い散った。
……ヒュウウウウ……
耳を刺す、羽ばたきの気配。
竹林の上を覆うように、黒い影がうねり始める。
(な……に……あれ……)
頭上を見上げた莉乃の目に映ったのは、数百、数千という黒い羽。
カラスの群れが空を覆い、夜でもないのに視界が暗く沈んでいく。
「嘘……こんなの、見たこと——」
——バサァァァッ!!
カラスたちは渦のように旋回し、莉乃の周囲を囲み始めた。
羽音は鼓膜を破りそうなほど大きく、狂ったように響く。
「えっ……? な、なに——」
震える手で霊符を取り出し、指先に霊力を込める。
「——行って……お願い……」
ぽとりと落とすように霊符を放つと、それは小さなネズミへ変わり、竹林の隙間へ駆け出した。
(これで……きっとお父さんに届く)
ほんの少し安堵しかけたその瞬間——
そのとき——渦の中心に、ひときわ大きな影が現れた。
漆黒の翼を広げ、鋭い嘴、異様に長い腕と人型の輪郭。
——鞍馬天狗。
「く……来るなっ!!」
鞍馬天狗は躊躇なく手を伸ばし、莉乃の腕を掴む。
「はなしてっ!!」
だが、その腕は鉄のように固く、びくともしない。
「誰か……助け——!」
——バサァ!!
莉乃の身体を宙へと引き上げた。
「いやっ……! お父さんっ……!」
そして——
音もなく、莉乃の姿は竹林から消えた。
残されたのは、水路に流れる小さな笹舟だけだった。




