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降臨

 封印の石碑から現れた男は、ゆっくりと鞍馬寺の本堂へ足を踏み入れた。


 しかし、本堂の扉を越えた瞬間、そこに広がっていたのは神域だった——


 壁と柱があるはずの空間は消え失せ、目の前には満月が輝く広大な草原が広がっていた。

 夜の静寂に包まれた草原の中央には、祭壇がひとつ据えられている。


「……この場所は無事だったようだ……」


 高さ数尺の黒石で組まれた台座の上に、白布が敷かれており、無数の霊符がその表面を覆っている。中央には銅製の大杯が据えられ、杯には透き通った透明な液体――酒が満たされていた。


 周囲には松明が六本、六芒星を模した配置で設置され、その火が青白く揺らめいている。


 男は黙ったまま、祭壇に向かってゆっくりと歩み寄る。


 祭壇の前に立つと、男は着物の袖を整え、ゆっくりと跪いた。そして、低く抑えた声で祝詞を唱え始める。


「天地の理を断ち、陽と陰の流れを逆転せよ。万霊を封じし結界を破り、此処に神の顕現を請う」


「風は止まり、火は燃え尽き、土は砕け、水は静まれ――然る後に、偉大な精霊の主よ、この地に降臨せよ」


 彼は両手を大きく広げ、歩を進めるたびに、足元から紫の光が揺らめき、六芒星の形が徐々に地面に浮かび上がっていく。


 やがて祭壇の上の霊符が一斉に燃え上がり、酒が注がれた大杯が青白い光を放ち始めた。


 男は再び祭壇の前に戻ると、両手を天に掲げ、大きく深呼吸をした。周囲の空気が震え始め、草原全体に神気が漂い出す。


「我が名において請う――大国主よ!この地に降臨し、我が願いを成せ!」


 男が叫ぶと、祭壇の中心から金色の光が爆発的に広がり、その光がやがてひとつの人影を形作った。


 現れたのは、金色の瞳を持つ壮麗な男性だった。彼の姿はどこか神々しく、存在そのものが圧倒的な神威を放っている。


 夜叉王はその場にひざまずき、深々と頭を垂れる。


「久しいな、小野義久。いや、今はもう夜叉王か……」


 その声は静かだが、重々しく、夜空そのものが震えるかのようだった。大国主はゆっくりと夜叉王の前に歩み寄る。


「其方が再び我を呼び出した理由――聞かせてもらおうか」


 夜叉王は頭を上げ、大国主を見上げながら言葉を選ぶように口を開いた。


「我が主人の怨念を晴らしとうございます」


 大国主は金色に輝く瞳を細め、じっと夜叉王を見下ろす。その目には一抹の憐れみが宿っていた。


「まだ諦めておらんのか? 世は移り変わり、今はもう其方の知っている平安京ではないぞ。朝廷が治める日の本など、遥か過去の夢物語だ。……それでもやるというのか?」


「はい…。何卒、お力添えください」


 大国主は一瞬だけ目を閉じ、考え込むような仕草を見せた。そしてゆっくりと低く響く声で呟いた。


建御雷命たけいかづちのみことは出てこんか?」


 夜叉王はかつての戦いの記憶が、一瞬脳裏をよぎる。

 白鴉が降ろした建御雷命たけいかづちのみこと――その圧倒的な雷撃と神気。


「はい、白鴉しらがらすはもうこの世におりませぬ。この時代の陰陽師を少し見ましたが、神降しを成せるような者など、皆無でございましょう」


 大国主は口角をわずかに歪め、冷笑とも取れる表情を浮かべた。


「そうか。奴は苦手じゃ……だが、夜叉王よ、また冥府の扉を開くのか?」


 その声には、かすかな憂いがあった。


「前回もそうであった。関係のない無垢の民が、大勢死ぬことになるぞ。其方はそれを承知の上で動くというのか?」


「……承知の上でございます」


 静寂が辺りを包む中、大国主は大きくため息をついたように見えた。


「夜叉王よ。主従契約の代わりに輪廻の輪から外れし永劫の魂、しかと受け取っておる――しかし、鬼と化してまで主君の怨念を晴らさんとするとは、まことに凄まじき執念よ」


 大国主の声が一段低くなり、空気が張り詰める。


「力を授けた先に何を成すかは、全てお前自身の責である。黄泉比良坂を開けば、怨念がこの世に災いを呼び込むことは、もはや避けられぬ」


 夜叉王は顔を上げ、力強く頷いた。


「すべてを背負う覚悟はできております。我が身がどうなろうとも、主の願いを叶え、この世に報いを与えます」


「……ならば、これ以上言うまい――我が力をもって黄泉比良坂を開け。その先に待つのが何であれ、神の力を利用するという意味を知るが良い」


 金色の光がさらに強まり、夜叉王の周囲に無数の霊的な線が奔る。それはまるで、大国主自身が大地に宿る全ての力を呼び起こしているかのようだった。


「大国主様、深く感謝いたします。必ずや、主の怨念を晴らし、この世に新たな秩序をもたらしましょう」


 夜叉王は祭壇の上に立ち上がり、深く息を吸い込む。大国主は神気とともに消えていった。


「来たれ、我が僕たちよ……長き眠りを破り、我が号令に応えよ」


 彼は懐から六枚の人形の形をした霊符を取り出し、それらを指先で軽く撫でながら呟いた。その指先から淡い赤黒い光が漏れ、霊符に力が宿る。


「天地の狭間に座し者よ、我が名に応じて現世へ降り立て――!」


 霊符を空高く放り投げると同時に、夜叉王は素早く両手で複雑な印を結び始めた。


「陰陽五行、四神の座を逆さにし、冥府の道を今ここに通ず――召喚の印を成し、扉を開け!」


 霊符は夜空で静止し、一瞬の静寂が訪れる。その直後、霊符が眩い光を放ち、まるで裂け目ができたかのように空間が歪んだ。


「来たれ、烈火童子、葛葉、般若、鞍馬天狗、鬼童丸、鵺――!」


 歪んだ空間から、次々と異形の影が姿を現す。


『烈火童子』、最初に現れたのは、炎に包まれた赤い肌の鬼の青年だった。瞳は狂気じみた輝きを放っている。彼は不敵な笑みを浮かべながら夜叉王に向かって頭を下げた。


「おやっさん、久々に暴れられるんか?」


 『葛葉』、次に現れたのは白髪と狐耳を持つ妖艶な女性。六本の尻尾が柔らかく揺れ、薄く微笑む彼女の姿は見る者を圧倒するほど美しい。


「夜叉王様……この時を待っておりましたわ。」


 『般若』、黒い煙とともに現れたのは、般若の面をつけた女鬼。彼女は面の奥から美しい笑い声を漏らした。


「ふん、やっと暴れられるのね……」


 『鞍馬天狗』、翼を広げ、風を巻き起こしながら天狗が降り立つ。鞘に収めた刀を軽く撫でると、夜叉王に一礼する。


「再び貴方の刃となりましょう」


 『鬼童丸』、小柄な少年が不気味な笑みを浮かべながら現れる。両腕を大きく広げて、その怪力を見せつけるかのように地面を叩いた。


「親父、待たせすぎだよ!」


 『鵺』、最後に現れたのは、黒い影のような獣。虎、猿、蛇の特徴を持つその姿は異様で、その金色の瞳だけが鋭く光り、夜叉王を見据える。


「……貴方の命ずるままに」


 夜叉王は全ての式神を見渡し、満足げに口角を上げた。そして静かに祭壇の上で両手を広げ、低く囁くように言葉を紡いだ。


「我が忠実なる僕たちよ。時は来た。霊力を宿す生娘三人の血を集め、その血で冥府の扉を開け――黄泉の軍勢をこの都へと招き入れるのだ!」


 夜空には満月が不気味に輝き、風が一層激しさを増していった。戦いの幕が、いよいよ上がろうとしていた。


「さあ――戦の幕開けだ」

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