封印石の調査
(おーい、起きろー、時間だぞー)
遠くから清雅の呑気な声が聞こえ、紗月は薄ぼんやりと目を開けた。
「うーん……」
寝ぼけた頭で声の主を確認することもせず、布団をかぶり直そうとしたその時――。
(おーい、時間だってばー!)
「……うるさいなぁ、今何時……」
目をこすりながら、紗月は壁にかかった時計をぼんやりと見上げた。
——その瞬間。
全身の血が一気に逆流したような感覚に襲われる。
「22時やん!?」
22時――。庭に集まるように言われていた時間だ。それどころか、時計の針は既に22時ジャストを指している。
「やばいやばいやばい!! 清雅、なんでもっと早く起こさんのよ!?」
紗月の声は怒りと焦りが入り混じり、ほぼ叫び声になっていた。
(いや、さっきから起こしてたよ? 人のせいにしない)
「そ、そやけど、いくらなんでも、ギリギリすぎやろ!」
慌てて髪を整えながら、紗月は清雅を睨みつけたが、その姿はどこ吹く風といった様子。呑気に天井を見上げている涼しげな顔に、なぜか怒りがこみ上げてくる。
「ほんま、清雅のせいで遅れるやんか! どうしてくれんのよ!」
(いやいや……それって、完全に八つ当たりだよね?)
「………!」
(ほらほら、急げ急げ、遅れちゃうぞー)
「うぅ……後で覚えときぃや……」
急いで上着を羽織り、いつものように使えもしない、霊符の入った袋を腰に結びつける。
「よし、準備オッケー……って、もう行くで!」
(おー、いってらっしゃーい!)
「アンタも来るんや!」
紗月は清雅に文句を言いながら、部屋を飛び出した。廊下を全速力で駆け抜け、障子を勢いよく開けると、涼しい夜の空気が肌を撫でた。
庭にはすでに数人が集まっている。
遅れて現れた紗月を見て、彩花が少し眉をひそめながら声をかける。
「紗月、遅いわよ。どうしたの?」
「ちょ、ちょっと寝過ごしてしもうて……!」
紗月は息を整えながら答えると、彩花が小さくため息をついた。
「もう……大丈夫かしら。気を抜かないでよ」
「………うん」
紗月が気まずそうに俯くと、その背後で清雅がどこからともなくひょいと顔を出し、呑気な調子で口を挟んだ。
(陰陽師の紗月さん、いっちょ頼むよ!)
「いや、頼まれても困るわ! それにうちは陰陽師ちゃう言うてるやんか!」
紗月は清雅を睨みつけ、思わず声を荒げる。
だがその声は、隣で控えていた村瀬紅子に聞かれ、彼女は驚いたように眉を上げた。
「どうしたの、紗月ちゃん? 寝ぼけて幽霊でも見えた?」
「い、いえ! なんでもないです……すいません!」
紗月は慌てて頭を下げ、改めて紅子と悠希に向き直った。
「……村瀬さん、大野さん、よろしくお願いします。迷惑かけないよう頑張りますので……!」
紅子はその言葉に笑いながら首を振り、豪快にパンッと悠希の肩を叩いた。
「いいのよ、そんなに気張らなくても。むしろ、ごめんね、こんな遅い時間まで手伝ってもらって。紗月ちゃんのことは、コイツがちゃんと守るから安心して!」
「えっ、ちょ、紅子さん……!」
悠希は不意をつかれ、肩を押さえながら照れたように顔を赤らめた。
「紗月ちゃん、彩花ちゃん、よろしくね。僕も精一杯頑張るから」
「……よろしくお願いします」
彩花も控えめに挨拶すると、紅子が軽く手を挙げて声を弾ませた。
「それと、私のことは紅子でいいわ。堅苦しいの嫌いなのよね。それに、コイツのことも悠希って呼んじゃって」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんよ。堅苦しいのは嫌いだから」
「僕も気楽な方がいいから、そう呼んでください」
その場に和やかな空気が漂う中、紗月の視線がふと足元の石碑に移った。
「これが……封印の石碑……」
紗月が無意識に呟くと、紅子が石碑に目を向けながら真剣な声で言った。
「そう。ただの石に見えるけど、これほどの封印術式が施されていたなんて……。平安時代の陰陽師って本当に恐ろしいわね……」
悠希は神妙な表情を浮かべ、静かに頷き、紗月の横で、清雅が鼻息を荒くして、自慢げな顔をしていた。
少し離れた場所には、橘雅彦と分家の跡取りたちが控えていた。
昼間は休んでいた彼らも、夜になり万が一妖が現れた場合に備え、準備を整えている。
「彩花、お前も気を抜くな」
控えめな声でそう言ったのは、彩花の兄である雅彦だった。分家の跡取りたちも厳しい表情で、それぞれの武具や術具を手にしている。
その光景に、紗月は自然と背筋を伸ばした。
(うちがここにおる意味……ちゃんとせなあかん……)
彼女は拳を握りしめながら、もう一度深く息を吸い込んだ。
「それじゃあ、始めましょうか」
全員の視線が彼女に集中する中、紅子は肩にかけた袋からおもむろに何かを取り出す。
「じゃじゃーん!」
紗月は思わず目を凝らしてその物体を見つめる。
「えっ、これってもしかして……亀の甲羅?」
「そうよ、亀の甲羅。占いに使うのよ!」
「占い……?」
(紅子さん……う、占いって……。大丈夫やろか?)
占いなど全く信じない紗月には、紅子の行動がますます怪しく思えた。
「あー、今、占いなんかって顔したでしょー?」
「ち、ちゃいます!占いって、朝の情報番組とかでしか聞いたことないから……それで何がわかるのかなって思っただけで……」
「これは『亀卜』っていってね、古代から使われてる占術のひとつなのよ。うちの家系は代々占い師なの」
紅子は胸を張って説明すると、袋からもう一枚、厚手の霊符を取り出した。
その霊符を甲羅に丁寧に当てがうと、手に持った火打ち石で霊符に火を灯した。
炎が揺らめきながら霊符を燃やし、その熱が甲羅をじわじわと温めていく。
「静かにしててね。これから神聖な儀式を始めるわ」
紅子は甲羅を目の前に掲げると、呪文を唱え始めた。
「朱雀の火、玄武の盾、青龍の刃、白虎の吼え、天と地の理を照らし出し、真理を示せ。」
甲羅が熱され、じりじりと音を立てる中、ひびが一本、二本と走り始める。そのひび割れの形をじっと見つめる紅子の表情が真剣そのものになった。
「方位――北北西! 破滅の光、結界の砕けし地、それは黄泉」
紗月は息を呑んでその様子を見つめていたが、ふと聞き慣れない言葉に眉をひそめた。
「……黄泉?」
「そう。ひびが示したのは『黄泉』……でも、これだけだと意味が曖昧ね。『黄泉』が何を指すのかは、追加の調査が必要かも」
紗月は不安げに甲羅と紅子の顔を交互に見ながら、思わず声を上げた。
「何やろ……黄泉って、あの……死者が行く世界とか!?」
「それもあるかもしれない。でも、黄泉って言葉には別の意味が込められてることもあるのよ。さあ、どうなることやら――」
一方、悠希は慎重にひび割れの形を観察しながら、神妙な顔で呟いた。
「……北北西か。この方向に何があるのか、調べないといけませんね」
紗月は石碑から少し離れ、周りに聞こえないように小声で清雅に話しかけた。
「なぁ、清雅。橘家のことにやたら詳しいんやけど、この封印のことも何か知っとるん?」
清雅は一瞬目を細め、ニヤリと笑うと、何かを思い出すように口を開いた。
「知ってるとも。力を失い、世を怨む君、忠臣ひとり、黄泉の門開く。冥府の軍、都を奪わんと、白鴉来たりて封じたる。石に残りし、その恨み、今なお消えず、ここに響く」
「なんやの…それ」
「冗談も通じない、真面目で忠義の厚い、悲しい陰陽師の話さ」
紗月は言葉を失い、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……え、ちょっと待って、なんの話なん? 全然意味わからへんわ!」
「まぁ、わからないほうが気楽でいいでしょ?」
「気楽なわけあるかい! こんなん余計不安になるやん!」
***
封印が解かれた夜の空に満月が高々と浮かび、鞍馬寺全体を幻想的な光で包んでいた。
静寂の中、六芒星を模した『金剛床』に、一人の男がゆっくりと降り立つ。
その姿は黒い着物に身を包み、長い黒髪がフワリと風に揺れている。橘本家の封印から出てきた男だった。
彼は静かに両手を胸の前に合わせ、息を吸い込むと、呪言を唱え始めた。
「光を遮る影よ、夜を覆う闇よ……汝が境界を今ここに断つ!」
その言葉に合わせて男は印を結び、両手を力強く合わせると、「パン! パン!」と音が山中に響き渡る。
その瞬間、まるで鞍馬寺そのものが異界に飲み込まれていくかのように、夜空は暗紫色に変わり、満月さえもその光をかき消される。
結界が完全に解けたのを確認すると、ゆっくりと本殿金堂へ向かいながら呟いた。
「長き眠りから覚めた我が身に問う……都よ、まだ美しきか?それとも――」




