格の違い
「――待ってくれ!」
ぐったりとした橘紗月を抱えたまま、黒いスーツの男がこちらを向く。
(なにが起きてる……?)
颯の頭は追いついていなかった。
警察官だと思っていた男が、なぜ突然、彼女を昏倒させたのか。
理由が、まったく分からない。
――ぐ、と。
足元の感触が急に変わる。
「……っ!?」
周囲の地面が盛り上がり、瞬く間にドームを形成しようとした。
(閉じ込められ……!?)
男は一瞥しただけで、紗月を抱えたままその場を離れようとしている。
「ふざ……っ!」
颯は歯を食いしばる。
――圧縮。
空気を一点に凝縮し、解き放つ。
———ドンッ!!
轟音とともに土のドームが爆散した。
破片が宙を舞い、夜風に散る。
男が足を止め、ボソリと呟いた。
「……異能者か?」
(……あっ)
その瞬間、颯も理解する。
(こいつも……異能者だ!)
脳裏に数日前に聞いた、真里の声が蘇った。
――『八鬼夜行の脱獄犯、宗方尊玄が京都市内に潜伏している可能性が高い』
――『すでに、他のエージェントは動いているわ』
(……まさか、この男が?)
「……あんた、宗方尊玄を追ってる異能管理庁のエージェントか?」
男は、興味深そうに首を傾げた。
「……そういう君は?」
「青山颯。異能管理庁のエージェントだ。別任務で動いてた」
「……それにしては、随分若いですね?」
「今、証拠を見せる」
首元に手をやり、シャツの内側からバッジを引き出す。
月明かりを反射する、異能管理庁の刻印。
「……へぇ」
男――天城一樹は、それを見て感心したように、微笑む。
「まさか……お仲間、でしたか」
颯は、無意識に息を吐いた。
(……やっぱり、そうか)
「安心してくれ。そっちの任務を邪魔する気はない」
視線を、紗月に向ける。
「だが、その少女は宗方尊玄とは無関係だ。俺が保証する。……だから、離してくれ」
「そうでしたか……」
天城は微笑んだまま、紗月を縁側にそっと寝かせた。
「……すまない。だが、ここで何があったんだ?」
その瞬間。
――ズン。
足元に土が絡みつき、固定された。
「……っ!?」
颯は反射的に身構えたが、遅い。
——ズドンッ!!!
腹部に、凄まじい蹴り。
「――がっ!!」
身体が宙を舞い、塀まで叩きつけられる。
天城は、倒れた颯を見下ろし、わずかに眉をひそめた。
「……まだ意識があるなんて、おかしいですね。手ごたえはあったはずですが……」
衝撃の瞬間、反射的に空気を圧縮していた。
渦を巻く空気を即席の緩衝材にし、致命傷だけは避けた。
「……っ、ぐ……!」
地面に膝をつき、苦悶する颯。
天城は、その様子を見て、納得したように小さく息を吐いた。
「なるほど……君の異能は、空気操作ですか」
一歩、また一歩。
「あの一瞬で防御するとは……若い割には悪くない。ですが——」
天城は颯を見下ろした。
「安心した瞬間が、一番危ない。それに、その目、本気で殺し合いをしたことがないですね?」
「……っ、偉そうに……言ってんじゃねぇ……! ただの不意打ちだろうが!!」
天城は、どこか楽しげに目を細めた。
「へぇ、根性だけは、まあまあですね」
「……っ、何が……っ!」
颯は腹部を押さえ、荒い呼吸のまま顔を上げる。
「……俺たちは……異能管理庁の……エージェントだろ……」
視界の端で、天城がわずかに首を傾げた。
「……内規を……忘れたのか……?! エージェント同士の私闘は……禁止だ……! 理由もなく、異能を行使したら……!」
——処分対象になる。
そう言い切る前に、天城が目の前に近づいた。
「橘紗月は神聖導会と関係がある。だから私は任務を遂行しようとした。そこに君が割って入った――だから、邪魔は排除する。ただそれだけです」
「……ふざ……けるな……! だから、橘紗月は、宗方尊玄とは関係ないって言っただろうが!」
天城は、左右に首を振った。
「いいえ。関係ありますよ」
その口調は、まるで当然の事実を述べるかのようだった。
「“尊玄様”には、橘紗月が必要なんです」
そして、ほんの一瞬だけ口角が上がる。
「それに――私個人も、彼女とは多少の“縁”がありましてね」
「……っ!」
「安心してください」
天城は、倒れた颯を見下ろしたまま、穏やかに続けた。
「エージェント同士が争ったことは、誰にも知られることはありませんから」
「……クソ……!」
身体を動かそうとした瞬間、足に鋭い痛みが走る。
(……っ、足が、折れてる……?!)
だが——
颯は、歯を食いしばり、身体の下。
地面すれすれで、空気を一点に圧縮する。
(……まだだ……)
———ドンッッ!!!!———
圧縮された空気が一気に弾け、衝撃波となって炸裂した。
身体が強引に持ち上げられ、背中から地面に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
だが、颯はその勢いのまま転がり、天城から距離を取ると、痛みを堪えながら両手を前に突き出した。
掌の間で、空気が歪む。
圧縮。
さらに圧縮。
高密度の空気が、鈍い唸りを上げ始める。
「……よくも……やってくれたな……!」
血の味が、口の中に広がる。
「これでも——くらえっ!!」
全力で圧縮した空気弾を——
「——解放!!」
天城へ向けて、叩きつけるように放った。
だが。
——空気の塊が茶色く濁っていく。
颯の異能は、空気を一点に寄せ集め、圧力を形にする——はずだった。
なのに。
砂粒が、弾の内部へ次々と吸い込まれ、圧縮された空気の塊は、瞬く間に、重さを持ち始める。
そして、次の瞬間。
——ボフッ。
一帯に、砂埃だけが広がった。
「……なっ!? バカな!!」
天城は、崩れた空気の名残を一瞥しただけで、興味を失ったように視線を戻した。
「消えてしまったのが、不思議ですか?」
まるで講義でもするかのような、平坦な声音。
「単純ですよ。君の異能は“空気を圧縮する”。――なら、私はそこに“重り”を入れるだけだ」
天城は靴先で砂を軽く鳴らす。
「君が一点に圧を寄せた瞬間、砂も入れる」
そこで、わずかに間を置いた。
「そして――私が、その砂の“重さ”を変え、粒子を結合させる。圧縮体の中で、砂は“塊”になる。すると圧は、塊を潰す力に使われる」
夜気の中、声だけが澄む。
「結果、空気は圧縮しきらず“崩される”」
天城は、淡々と評価を下した。
「いいものを持っていますよ。出力も、発想も、素直で悪くない」
だが、と一拍置く。
「——いかんせん、経験が浅すぎる。このまま現場で場数を踏めば、いずれは、いいエージェントになれたでしょう」
その言葉は、褒め言葉の形をしていながら、同時に“可能性の否定”でもあった。
「ですが……正直、疑問ですね。こんな若いエージェントを、単独で任務に当たらせるとは……」
天城は、ほんの少しだけ首を傾げる。
「異能管理庁も、ずいぶん雑な使い方をする」
そして、結論のように静かに告げた。
「——君は、ここで死ぬべき人材ではなかった」
「ふざけるな……!」
颯は歯を食いしばり、地面に手をついて立ち上がろうとした。
だが――
「っ……!」
足に走る激痛に、立ち上がれない
(一発だ……一発でいい……!)
颯は焦りのまま、周囲に空気を集め始めた。
圧縮。
圧縮。
圧縮。
どれか一つでも形になれば、それでいい。
だが。
形成されかけた空気の塊は、ことごとく――茶色く濁る。圧は崩れ、形を保てず、霧散していく。
「……クソ……!」
視界が、ちらついた。
眩しい光。
スポットライト。
揺れるペンライトの海。
名前を呼ぶ声。
笑っている、メンバーたち。
肩を叩く真里の姿。
(……ああ)
次のステージも、次の曲も、次に交わすはずだった視線も——
もう、訪れない。
(……俺、約束してたのにな……)
また一緒に立つって。
次も、その次も、ステージは続くって。
(……ごめん)
颯の喉が、ひくりと震えた。
(……俺、もう……一緒に、ステージに立てない……あいつらの前で、歌えない)
(……リーダー失格だな……)
天城の声が、やけに近くで響いた。
「知り合ったばかりで、残念ですが……さようならです」
淡々と、感情の欠片もなく。
「土の棺桶は、私からのせめてもの贈り物です」
——パチン。
乾いた音が鳴った。
次の瞬間。
地面が、うねった。
颯の両膝の下で、土が液体のように崩れ、絡みつく。
「……っ!」
沈みゆく身体の中で、最後に浮かんだのは——
(……橘紗月……すまない……)
——チャポン。
颯の姿は、夜の庭から、完全に消えた。




