交差
病院を出た瞬間、夜の空気が肺の奥まで冷たく入り込んできた。
(……呪い)
清雅の言葉が、頭から離れなかった。
病気じゃない。
——最初から、呪われていた。
「……そんな……」
口に出すと、現実になってしまいそうで、呟きは喉の奥で消えた。
思い返せば——
“些細な違和感”はいくらでもあった。
鬼が現れた時、美紗子は異様なほど怯えていた。
ただの恐怖ではなく、まるで、何かに呼ばれたような反応。
(……もしかして、共鳴してたんやろか)
鬼の呪いに。
——母の中にある“それ”が。
(……宗近様は? ……知ってたん……?)
歩きながら、紗月は何度も同じ問いを頭の中で繰り返していた。
(それにお父さんは、本家に不義理をしたから……って)
具体的に何をしたのか。
——紗月は、何一つ知らない。
(……病死って聞いたけど……もし、お父さんの死が、お母さんの呪いと関係してたら……)
(……うち、ちゃんと知りたい)
父の死と、母の呪い。
無関係だと言い切れる根拠は、どこにもなかった。
「……家に帰ったら宗近様に聞こう……」
家の前に近づいた、その時だった。
——やけに、騒がしい。
紗月は、思考の底から一気に引き戻される。
「……なに……?」
玄関前には、赤色灯の明滅があった。
「ちょっと待ってください! 話が——」
「黙りぃ!! 話は署で聞いたる言うとるやろ!!」
紗月は思わず駆け足になった。
門をくぐった瞬間——
「……え?」
見覚えのある背中が、視界に飛び込んできた。
「だから! 私たちがやったんじゃないって——!」
「やかましい! 陰陽師どもの住んでる家で夜分に騒ぎ起こして、被害出して、挙げ句には人間が怪物になって襲ってきたやと? 舐めとんのか!!」
霊障対策課——その腕章が、街灯に照らされている。
「……勇真……? 莉乃……?」
その名を聞いて、勇真が振り返る。
「……あ?」
一瞬、驚いたように目を見開き——
「……紗月……?」
(……ああ……これ、絶対……ろくなことになってへん)
その様子に気づいたのか、霊障対策課の面々も次々と振り返った。
「……ん?」
班長の大村が、紗月の顔を見た瞬間——ほんの一瞬、眉がぴくりと跳ねる。
「……お前……どっかで見たことある思たら……この前、本家におった子やんけ。なんで、ここにおるんや?」
その問いに、勇真が何でもないことのように口を挟む。
「本家が改修中なんで、今は全員こっちに集まってるんです」
——その瞬間。
大村の顔色が、目に見えて変わった。
「……本家におった……陰陽師どもが全部……?」
ごくり、と喉が鳴る。
「……ほな……」
声が、わずかに裏返る。
「……アイツも、おるんかい……?」
「……?」
紗月はきょとんと首を傾げる。
「……アイツ?」
次の瞬間、場の空気を読むという概念をどこかに置いてきた龍二が、即答した。
「特級陰陽師の賀茂千尋さんのことですね」
「……っ!!」
大村が何か言う前に、龍二は続ける。
「班長、その人に前にめちゃくちゃ馬鹿にされてましたよね」
「おい」
「それ以来、根に持ってるんですよ。でも怖くて文句言えないから」
「おいおい」
「だから会いたくないんです。内心めちゃくちゃビビって——」
「龍二ィィィ!! 誰がビビっとる言うた!!」
拳を振り上げ、地団駄を踏む。
「特級陰陽師だろうがなんだろうが関係あるかい!! ワシが本気出したら、そんなもん——パクったるわ!!!」
「絶対、無理です」
「ぐぬぬぬ……」
大村は歯噛みし、乱暴に手を振った。
「もうええ! さっさと署に戻るで! 志穂、その二人を車に乗せい! 署でじっくり話、聞いたる!」
「ちょ、班長! まだ犯人って決まったわけじゃ——」
志穂が慌てて割って入るが、大村は振り返りもしない。
「もうええ言うとるやろ。早う乗れ」
「えっ、ちょっと待って——」
「待たん!!」
即答だった。
そして——
「……で」
大村の視線が、ふっと横へ流れる。
夜灯りの下に立つ、黒いスーツの男。
場違いなほど整った佇まいの——天城一樹。
「……天城は、歩いて署まで戻れや」
「ちょ、班長!? それ、普通にパワハラですよ!」
「うるさい! パトカーに六人も乗れるかいな! 第一なぁ、異能管理庁の連中は何考えとるかわからん。そばに置いとくと、気色悪いねん」
「そんな言い方——!」
志穂は一瞬言葉に詰まり、慌てて天城の方を向いた。
「す、すみません、天城さん……班長、ちょっと……その……口が悪くて……」
続いて、小声で大村に。
「班長、さすがに失礼ですって……!」
「何が失礼や。ワシは正直なだけや」
——にこり。
あまりにも爽やかで、場の空気と噛み合わない笑顔を浮かべる。
「いえ、大丈夫ですよ。真島さん、気にしないでください」
「え……?」
「歩いて戻ります。タクシー代も経費で落ちますし」
「……経費やと……?」
大村の眉が、ぴくりと跳ねる。
「異能管理庁のエージェント様は、ええご身分やなぁ」
嫌味を、これでもかと込めて吐き捨てた。
「ワシら警察官は、どんだけ残業してもタクシー代なんか一円も出ぇへんでぇ」
「班長、他の課は出るみたいですよ」
「……なんやとぉ!?」
「出ないの、霊障対策課だけらしいです」
「…………」
「ちなみに、予算も一番少ないです」
——シン。
「……龍二」
「は、はい?」
「……黙っとれ」
「…………」
大村は、天城の表情を睨みつけた。
怒鳴り散らしても、皮肉を投げても、この男は――まったく、動じていない。
「……チッ。まぁええ……いくで」
「ほら、早う乗れ!」
「ちょっ、だから——」
「抵抗すんな!」
勇真と莉乃は半ば押し込まれるようにパトカーの後部座席へ放り込まれ、ドアが荒々しく閉められる。
赤色灯が再び回り出し、エンジン音が夜気を切り裂いた。
——そうして。
車列が角を曲がり、騒音が遠ざかると。
その場に残ったのは——夜に溶け込むように立つ黒スーツの男と、ぽつんと取り残された、紗月だけだった。
紗月は、ゆっくりと周囲を見回した。
踏み荒らされた庭や、崩れ落ちた瓦屋根。
「……なにが、あったんやろ……?」
胸の奥に、嫌な感触が残る。
そのとき。
「……失礼します」
柔らかな声とともに、天城が一歩近づいた。
そして、丁寧すぎるほど丁寧に——ぺこりと頭を下げる。
「少年たちの話では、人が怪物になって襲ってきたそうですね」
「……怪物……?」
「はい。ただ、証拠が残っていなかった」
天城は、荒れた庭を一瞥し、淡々と続ける。
「ですから、ご覧の通り。彼らは事情聴取をするために連れて行かれました」
「……えっと……」
紗月は少し戸惑いながら尋ねる。
「警察の人……やろか?」
「まぁ……そのような者です」
そして、天城の視線が、まっすぐ紗月に向けられる。
「——ところで……あなたは、橘紗月さんで間違いありませんか?」
「……そうやけど」
その答えを聞いた瞬間。
夜空を仰ぎ見るように、ゆっくりと顔を上げる。
「……そうですか……あの時の女の子が……もう、こんなに大きくなったんですね」
「……?」
意味が分からず、紗月が首を傾げた――その瞬間。
(——紗月!! 離れて!!)
清雅の声が、頭の中で弾けた。
「えっ——?」
足元に、ぐっと重たい感触が伝わる。
「……っ!?」
見下ろすと、土が——まるで生き物のように、紗月の足首を呑み込んでいた。
「な、なに——!?」
動かそうとしても、抜けない。
次の瞬間。
天城が、すぐ目の前にいた。
——トン。
手刀が、首筋に落ちる。
「……っ」
紗月の身体から、力が一気に抜けていく。
そのとき。
「待ってくれ!」
(……この声……)
世界が、静かに遠ざかっていく。
(……ごめん……清雅……)
それが、最後に浮かんだ思考だった。
——紗月の意識は、完全に闇へと落ちた。




