第二形態
地面に転がる四人の男たち。
そのうちの一人だけが、微かに指先を震わせていた。
「……まだ、意識があるのか……?」
勇真は、錫杖を構えたまま、ゆっくりと近づいていく。
「さっき言ってたな。“橘北を迎えに来た”って」
(橘北の家は、もう存在しない。紗月が橘北の血を引いてることなんて――橘家の関係者か、京都の古参の陰陽師くらいしか知らねぇはずだ……)
勇真は、男を睨みつける。
「おい。なんで紗月が橘北だって知ってる?」
「……ぁ……?」
男は、かすれた声を漏らし――次の瞬間、ニヤリと笑った。
「……し、知ら……なかった……」
「……?」
「で、も……」
男は、舌を湿らせるように口を動かす。
「……お前が……教えてくれた……」
勇真の背中に、冷たい汗が流れる。
「……は?」
「橘……紗月が……橘北の……娘だって……」
「……っ!」
脳裏に、先ほどのやり取りがフラッシュバックする。
——「橘北を迎えに来た」
——「……紗月のことか?」
(……クソ……!!)
たった一言。
たった一瞬の油断。
勇真は、言葉を重ねて誤魔化そうとした。
「ち、違ぇ! さっきのはそういう意味で言ったんじゃ――!」
その瞬間——隣から、強烈な視線。
莉乃が、半目で、じーとこちらを見ている。
「……そ、そんな目でみるんじゃねぇ……」
勇真は、思わず目を逸らし、早口になる。
「だ、大丈夫だって! こいつらは捕まえたし! 紗月には、絶対会わせねぇから!」
そのとき――
「……ア……」
「……あ、何か言ったか?」
その瞬間だった。
足元の草が、音もなく色を失った。
青々としていた葉が、墨を流したように黒ずみ、ぱらぱらと崩れ落ちる。
同時に、草むらがざわりと揺れた。
クモ、ムカデ、名も知れぬ虫たちが――
一斉に、男から距離を取るように逃げ出していく。
まるでそこに、「触れてはならない何か」が生まれるかのように。
「……っ!」
勇真の喉が、ひくりと鳴る。
(——やばい!? この感覚……同じだ……!! 山に放り出されて……修行中に死を悟った、あの時と……)
次の瞬間――
——ギチッ。
最初は、何が起きたのかわからなかった。
だが、男の腕が本来、曲がるはずのない方向へ、ゆっくりと折れ曲がっていく。
「……っ、な……?」
——ミシ……ミシミシ……。
莉乃が、息を呑む。
「……ゆ、勇真……」
男の顔に苦痛も、悲鳴もない。
ただ、恍惚としたような表情で、口を開く。
「……祝……福……を……」
次の瞬間――
——ゴキィッ!!
肋骨が内側から押し広げられ、胸元が不自然に膨張する。
「……っ!!」
勇真は、一歩、後ずさった。
皮膚が裂け、黒ずんだ筋繊維が露出する。
人の形を保ったまま、人であることを捨てていく。
——ギチ……ギチ……。
「……もう……人間やめちまったな……」
「……人が……妖に……?」
莉乃の声が、震えた。
異形は、ぎこちなく首を傾げ――歪んだ声で、呟く。
「……紗……月……ドコォ……?」
次の瞬間。
——ドギャンッ!!
異形の体が前へと踏み出した。
「——来る!!」
勇真が声を落とした、その瞬間だった。
——ビュンッ!!
腕を振った——ただ、それだけの動作。
だが。
——ズガガガンッ!!!
「——っ!?」
勇真の背後で、轟音が響いた。
屋敷の壁が、爆発したかのように崩れ落ち、粉塵が夜気を塗り潰す。
勇真の頬に、熱いものが走る。
「……っ!」
指で拭うと、赤い血が付いた。
振り返った先——崩れた屋敷の残骸の中に、黒衣の人影が転がっている。
「……お、お前……」
勇真は、愕然と目を見開いた。
「もしかして、仲間を……投げたのか……?」
異形は答えない。
代わりに、倒れている別の男の脚を掴み、無造作に振りかぶった。
「——嘘だろ!!」
——ビュンッ!!
「莉乃!! 伏せろぉぉぉ!!!」
二人は同時に地面へ飛び伏せた。
——ドガーンッ!! ガラガラガラ!!
瓦屋根を突き破り、屋敷の外まで男が吹き飛ぶ。
「……おいおい……」
勇真は、真っ青な顔で怪物を見上げた。
「……五年前はな。京都って、観光地だったんだぞ……」
乾いた笑いが漏れる。
「霊障で鬼が溢れて、市民はキレ散らかして暴徒化して、挙げ句の果てに——」
「……今度は、人が怪物に変身かよ」
「……ここは、もう観光地じゃねぇ。魔境だ!!」
「い、いまそんなこと言ってる場合じゃないでしょ……!」
莉乃が、ふらつきながら起き上がる。
「ど、どうするの……? 勇真……」
「どうするって……」
勇真は、視線を逸らしながら呟いた。
「……一応、人間だったんだぞ。殺すのは……マズいだろ……言葉が通じるなら……話し合い……」
二人は、顔を見合わせ——
そして、同時に異形へ視線を戻した。
——グギャァアアアアアアアアーーーー!!
帰ってくるのは言葉ではなく、鼓膜が押し潰されるような雄叫び。
「……」
「……」
「……無理だな」
「……うん、無理だね」
いつもは意見が合わない二人だが、この時ばかりは、即座に意見が一致した。
「意識を断つしかねぇ……! なんとか、もう一度拘束する……さっきの爆発するネズミ、頼めるか?」
「……わかった」
二人は、同時に散開した。
異形の動きは、人の理を完全に逸脱していた。
骨の軋む音を響かせながら、それでもなお、正確に——執拗に、勇真へ迫る。
「——っ!」
錫杖で受けると、腕が痺れる。
(……力が……人間じゃねぇ……いや……鬼に近い……)
一歩、退いた瞬間。
異形の首が、ぎこちなく回った。
——視線が、勇真から外れる。
「……っ、莉乃! マズ——」
叫ぶより早く。
勇真は錫杖を投げつけ、同時に両手で印を結んだ。
——不動印。
「……オン・アビラウンケン・バザラダトバン……」
異形の腕で弾かれた錫杖が飛んでいく。
その直後——
地面から、黒い手が噴き上がった。
異形の足元を掴み、絡め取り、縫い止める。
さらに、勇真は印を組み替える。
——金剛力士の印。
「——オン・バサラ・ユキヤ・ウン……!」
短く、鋭いマントラ。
勇真の背後に、円環状の文字列が浮かび上がる。
それは、梵字とも星図ともつかぬ、宇宙を思わせる陣。
すると、黒い影の手が、実体を持ち始め、質量を得て、異形を完全に固定する。
「堅固・不壊の影……」
勇真は、低く言った。
「その影の手はな……要するに——コンクリートより硬ぇってことだ!!」
——ギチギチ……!
——グギャァアアアアア!!
響き渡る、悔しげな咆哮。
だが——
——ピキッ。
——ピキピキッ!!
黒い手に、亀裂が走る。
「……マジかよ……」
勇真の額に、冷や汗が滲む。
「……これも、あんまりもたねぇな……」
「莉乃、頼め——」
「わかった!」
莉乃は、形代を空へ放ろうとした——その瞬間。
「——莉乃っ!! 逃げろぉぉぉ!!」
「……え?」
新たに現れた異形は、まるで獲物を抱きすくめるかのように、両腕を広げた。
(——間に合わない——)
——ガシッ。
「——っ!?」
抱き抱えられた莉乃の身体が、宙に持ち上げられたまま、足をばたつかせる。
「ちょっ……やめて!! はなせぇー!!」
「………数が……合わねぇと思ってたが……まさか……二体目……っ!!」
——バギィッ!!
異形を縫い止めていた黒い手が、音を立てて砕け散った。
拘束は、完全に崩壊する。
その瞬間——
解き放たれた異形は、ゆっくりと背を反らし、喉の奥を震わせた。
怒り。
歓喜。
そして、解放されたことへの歪んだ悦び。
それらが混ざり合った表情のまま——
——ギャァアアアアアアアアアアア!!
耳を裂くような咆哮が、中庭を叩き潰す。
空気が震え、地面が微かに揺れた。
同時に。
視界の端で——
莉乃を掴み上げた、もう一体の異形が、ぎこちなく首を傾ける。
獲物を確かめるように。
「クソっ……!」
(……二体……)
莉乃を捕らえた異形。
怒りを爆発させ、こちらを睨み据える異形。
焦りと圧迫感が、呼吸を奪っていく。
——その時。
莉乃の胸元で、何かがかすかに鳴った。
——パチッ。
静電気のような、乾いた音。
——ズガガガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!
白藍の雷光に、世界が白に包まれた——。




