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麒麟

 書斎に座り、湯飲みから立ち上る湯気をじっと見つめながら、宗近は襖越ふすまごしに感じ取れる気配に耳を澄ませていた。


 「紗月です」


 宗近は短く返事をし、襖を開けるよう促した。


 「入りなさい」


 襖が静かに開き、紗月が小さな足音を立てて入ってきた。宗近は正面の座布団を指す。


 紗月が座ると、宗近はその顔をじっと見つめた。視線を向けられた彼女はまるで叱られると思い込んでいるのか、明らかに緊張している様子が窺えた。


 (あの時の子が、ここまで大きく育ったか……だが、紗月の顔を見るたびに、父のあの言葉が蘇る……)


 ――「橘北家を再興させてはならんぞ。紗月には陰陽術を教えてはならん。宗近、わしからの遺言だと思え!」


 胸の奥に絡みつくような思いを振り払うように、宗近は静かに口を開いた。


 「紗月、今夜から陰陽師協会の二人と調査に同行してもらう」


 その言葉に、紗月は目を見開き、困惑の色を浮かべた。


 「え……うちが……ですか?」


 「そうだ、紗月が封印の石碑を触った罰だ。それに加えて、陰陽師協会の村瀬氏からも同行の申し出があった。それまでしっかり寝て休んでおけ」


 宗近の言葉に、紗月は小さく頷いたが、まだ納得しきれない様子で俯いていた。


 「……彩花も一緒に行くことになっている」


 「彩花様も……ですか?」


 その言葉を聞いた紗月の表情に、少しだけ安心した色が見えた。


 「……はい、わかりました」


 宗近は湯呑みを口元に運び、一息ついた。


 「紗月、生活に不自由はないか?」


 「はい、和助さんや春江さんにもよくしてもろてます。あっ、彩花様にも……」


 「うむ、それは良い。……だがな、彩花がこう言っていたぞ。『紗月は陰陽術の授業になるといつも上の空で、学院で落ちこぼれだ』とな。三年から実技が本格的に始まるだろう。どうするつもりだ?」


 「ははは……なんとか出来るよう頑張ります」


 「そうか……。美紗子さんはどうだ?」


 その言葉に、紗月の表情が一瞬曇った。


 「母は……少しだけ歩けるようになりました。でも……うちのこと、誰かわかってへんみたいです。ずっと病院代も出してもろてて……すいません」


 「かまわん…謝る必要はない」


 その言葉に、紗月は深く頭を下げた。


 その後、視線を横にそらし、小声で何か喋っているのを見て、宗近が怪訝そうに声をかけた。


 「どうした? 横に妖でもいるのか?」


 「あっ、い、いえ……なんでもないです……」


 紗月は慌てて首を振りながら答えたが、その声にはどこか焦りが混じっていた。



 ***



 宗近の部屋を出た紗月は、ずっと笑い続けていた清雅に向かって文句をぶつけた。


 「何がおかしいんよ…おかげで宗近様に怪しまれたやんか!」


 (ふふ、ごめん、ごめん。あまりにも面白くて、お腹がよじれるかと思ったよ…ふひ、ひひ、ああ、思い出すだけでまた笑えてきた)


 「だから何がやねん! ずっと宗近様のこと指差しながら笑ってから! なんもおもしろいことないやろ」


 (ぷっ……いや、ほんとにごめん。あんな真面目で堅物な人がさ……あの血筋から……ぷぷ……でもね、真面目なのはいいけど、橘家の当主としては力不足だよ)


 「何を言いよるん! 宗近様は立派な当主様や、うちの学院のお金や生活費だって出だしてくれとる」


 (いやいや、人として立派かどうかじゃないんだよ…橘家はそれじゃあダメなんだ)


 「……どういう意味や、それ。それに、なんで清雅がそんなこと知ってるん?」


 紗月が鋭い目を向けると、清雅はいつもの呑気な顔から一転、真剣な表情になった。


 (四神の守りし座にて、麒麟立ちて封ずるは鬼。朱雀の炎、青龍の刃、白虎の吼え、玄武の盾。四つの力を継ぎし者、稀代の陰陽師、麒麟と成る。……ってね)


 清雅はわざと詩を吟じるような口調で、意味ありげに言葉を紡いだ。その声には、いつもの軽薄さとは違う深みがあった。


 (俺がそう決めたんだ)


 「……は? なんなんそれ。どういうこと?」


 紗月は戸惑いながら清雅を見つめた。清雅の雰囲気がいつもと違う。冗談でもなく、真面目な顔で語る彼の姿に、何か底知れないものを感じた。


 (橘家が代々守ってきた“麒麟”っていうのは、ただの血筋や形式じゃない。霊力を受け継ぎ、四神の力を統べる存在だ。麒麟が封印を行い、鬼を鎮め、封印のバランスを保つ……それが橘家の本当の役目だよ)


 「……そんな話、うちは聞いたことないで。橘家の人間やないのに、なんで清雅がそんなん知ってるん?」


 紗月の問いに、清雅は少しだけ笑い、肩をすくめた。


 (だから言ったろ、俺が決めたからさ)


 「……は? ふざけんといて、いい加減にせんと怒るで!」


 (まあまあ、落ち着いて。俺が言いたいのはね、橘家の当主っていうのは、ただの家長じゃ務まらないってことだよ。霊力がなきゃ意味がないの。宗近さんが人として立派だってのはわかる。でも、宗近さんじゃ“鬼”に対抗できない)


 紗月は清雅の言葉を飲み込めず、言い返そうと口を開くが、続く清雅の言葉に押し黙った。


 (宗近さんが弱いって話じゃないんだよ。橘家に“麒麟”がいなければ、封印は弱くなる、それに封印が崩れた今、“麒麟”でなければ鬼に勝つことはできない。四神の守りし座に座れる人が、橘家の当主であるべきなんだ)


 清雅の声にはいつもの軽さはなく、どこか遠い記憶を語るような響きがあった。


 「……じゃあ、その“麒麟”はどこにおるの?」


 紗月が問いかけると、清雅は少し目を細めて紗月を見た後、空を見上げた。


 (さあね。でも、俺がここにいるのは何か意味があるのかなって思うんだよ)


 その言葉に紗月は何も言い返せず、ただ清雅の横顔を見つめていた。彼の軽薄そうな態度の奥に隠された真実――それは、彼女の知る清雅の姿とはまるで別人のようだった。


 (さっ、なんか真面目な話になっちゃったね。夜に備えて寝るんでしょ。起こしてあげるから早く休みなよ)


 「いやいや、なんで清雅が部屋におる前提やねん! 気になって寝られるわけないやろ!?」


 紗月が思わず声を荒げると、清雅はおどけたように肩をすくめてみせた。


 (えー、せっかく親切で言ってるのに。じゃあ廊下で正座して待つよ。どう?)


 「それもっと嫌やわ! どんな罪悪感押し付けてくんねん!」


 紗月は額を押さえてため息をつきながら、清雅のあまりに呑気な態度に、頭が痛くなりそうだった。


 「ほんま、もうええから、せめてうちが寝る間だけ静かにしといてや……」


 (静かにねぇ……。うーん、考えておくよ)


 「考えんと実行せぇ!」


 紗月の突っ込みに清雅は苦笑を浮かべ、手をひらひらと振った。


 (はいはい、わかりましたよ……)


 軽く肩をすくめて背を向けると、その表情はふと柔らかくなる。


 (……まったく、宗助の奴……)


 誰にも聞こえないほどの小さな呟き――

 それは、どこか懐かしさを滲ませた声だった。



 ***



 橘の屋敷を泣きながら飛び出した莉乃りのの足は、ただ目の前の道を駆け抜けることだけを考えていた。


 胸の奥からこみ上げる怒りと悔しさ、そして涙で滲む視界。いつしか足は止まり、見上げた先には朱塗りの鳥居がそびえ立っていた。


 大きな鳥居の下に立つと、先ほどまでの父親への不満が一瞬忘れられるような、静謐な空気に包まれた。


 「……なんで……私だけ……」


 莉乃は鳥居をくぐり、参道に入ると、緑豊かな木々が陽光を受けて輝いている。いつもなら見惚れる風景も、今の彼女には何も響かなかった。


 そんな中、神楽殿の前で賑やかな笑い声が聞こえてきた。莉乃がふと顔を上げると、白無垢を着た花嫁と紋付袴を身にまとった花婿が手を取り合い、列席者たちに祝福されている光景が目に飛び込んできた。


 結婚式――。


 その美しい儀式の中、家族や友人たちの笑顔が満ちあふれている。


 「……なんで……」


 目に映るのは幸せそうな人々の姿。


 ——しかし、自分の胸にあるのは、嫉妬と孤独感だけだった。


 (どうして、いつもいつも紗月お姉ちゃんばかり……)


 涙がまた頬を伝い落ちた。ふとバッグの中からスマホを取り出して時間を確認する。


 「……16時か……」


 参道の隅に腰を下ろし、莉乃は小さな声でつぶやく。


 「……私だって……笑いたいのに……」


 周囲の賑やかな祝福の声が、彼女の孤独をさらに際立たせているようだった。手のひらで顔を覆いながら、莉乃は膝を抱え込む。


 その時、ふと頭上から風が吹き抜けた。

 木の葉がざわめき、鈴の音のような微かな響きが混じる。


 神楽殿の横手から、一人の小さな子供が駆け寄ってくるのが見えた。


 「お姉ちゃん、泣いてるの?」


 突然の声に、莉乃は驚き、慌てて顔を隠した。


 「……泣いてないよ。放っといて」


 そっけなく返すと、男の子は首を傾げてじっと莉乃を見上げた。

 どこか透き通るような瞳――陽光の中で輪郭が揺れて見える。


 「でも、涙が出てるよ。お姉ちゃん、何かあったの?」


 「……いいの。気にしないで」


 莉乃は無理やり笑顔を作ってみせたが、それを見た男の子は「そっか」と小さく頷きながら、ポケットからハンカチを取り出した。


 「これ、使っていいよ」


 「……え?」


 男の子が差し出したハンカチに、莉乃は一瞬戸惑った。普段なら受け取らないだろうが、その小さな手から伝わる不思議な温もりに、つい手を伸ばしてしまう。


 「ありがとう……」


 「うん! お姉ちゃん、元気になってね」


 男の子はそう言うと、くるりと振り返り、また神楽殿の方へ駆けていった。

 その背中は、どこか光に溶けるように淡く揺らめいていた。


 莉乃はしばらくその背中を見送っていたが、ふとハンカチを見下ろした。


 「……元気、か……」


 まだ胸の奥にはくすぶるものがあったが、先ほどより少しだけ気持ちが軽くなった気がした。


 ふと頭上で羽ばたく音がする。見上げると、一羽のカラスが、莉乃を確認するかのように旋回しながら飛んでいくのが見えた。


 莉乃はその黒い影を見上げながら、再び足を動かした。

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