呪い
夕暮れの光が差し込む病室。
京都御苑の木々が赤く染まり、窓ガラスに静かに揺れて映っていた。
紗月は、車椅子に座る美紗子の背後に立ち、優しく髪へブラシを通す。
「お母さん、病院変わってもうたけどな、田辺先生が引き続き診てくれるんやって。よかったなぁ……ほんま安心したわ」
ブラシの音だけが、静かな病室に響く。
「ここ、景色めっちゃええやろ? 御苑よう見えるし、夕焼けも綺麗や。家からも近なったし、うちも通いやすくなったんよ」
美紗子は、窓の外をただ見つめたまま微動だにしない。
淡く夕日に照らされた瞳は、どこにも焦点を合わせていなかった。
「そういえばな、お母さん——」
紗月は笑って続けた。
「うち、陰陽師になるんよ。お父さんと同じ。……彩花様が聞いたら、なんて言うんやろな」
冗談めかして息を吐く。
「ほんまは未成年は入れんのやけど、特例措置で陰陽師協会にも籍が入ったんよ。ま、監視って名前のストーカー付きやけどな」
紗月は窓の外に目を向ける。
出入口の横のベンチには、フードを深く被りながら所在なさげに座る青山颯の姿があった。
(……やっぱり、おる……他に仕事ないんやろか……)
「そうそう。昨日な、嵐山に行ってきたんよ」
——その瞬間。
美紗子の肩が、微かに震えた。
「……え? お母さん、聞こえたん……?」
紗月は思わず前へ回り込み、顔を覗き込む。
「嵐山やで……うちら家族で住んでた場所」
言葉が、自然と熱を帯びていく。
「懐かしいやろ? 学院の同級生らと一緒に妖退治に行ったん。でも安心してや。低級の妖ばっかりで、大したことは——」
「でも獅子丸、あいつだけはほんまびっくりしたわ。霧の中に妖追って勝手に飛び込んで……しばらく姿消えてもうて」
「みんなで探してたら、何事もなかった顔して戻ってきよったんよ。うちが“無事でよかった”って声かけたら——」
一瞬、あの凍りつくような表情が脳裏に蘇る。
「……“アーメン”とか言いよったん。なんか……魂抜けたみたいな目で、怪しい宗教でも始めたんか思たわ」
——その時だった。
「ア……ア……アア……ア、ァ……!」
美紗子の喉から、強ばった声が漏れた。
「っ、お母さん!? 大丈夫!? しっかりして! 聞こえる!? うちや、紗月やで!」
美紗子の目は虚空を彷徨っている。
「ア……アアア……っ……」
やがて力が抜けるように呼吸がゆっくりと整っていく。
「……よかった……でも、なんか前より……いろいろ反応してくれるようになったわ。このままいけば、きっともっと良うなる……きっと」
——その瞬間。
(……紗月……無理だよ……前に見た時より、悪化してる……)
頭の奥に、清雅の声が響いた。
その声音は淡々としているのに、どこか冷たく突き刺さった。
「っ……! 悪化ってなんや……いくら清雅でも、その言い方は許さんで」
(だって——紗月のお母さんは、病気じゃないんだ)
「……え……? ど、どういう意味や、それ……」
清雅はふわりと美紗子へ歩み寄った。
「ちょ、ちょっと清雅!? お母さんになにすんのっ!」
清雅は紗月の声を無視し、そっと顔を近づけ、美紗子の瞳をのぞき込む。
(……やっぱり……間違いない。これは——呪いだよ、紗月)
「……の、呪い……?」
(うん。紗月のお母さんには、強い怨念が染みついてる。もう、魂と混ざり合ってるんだ)
「だ、だったら……! 清雅なら治せるんちゃうの!? 紅子さんから聞いたで! うちに乗り移った時、呪いを浄化したって! うちの身体、いくらでも使ってええから! お母さんを……お母さんを治してや!!」
紗月は泣きそうな声で叫んだ。
だが清雅は、静かに首を振る。
(ごめん、紗月……ここまで深く根を張った呪いは、もう“浄化”出来る段階を過ぎてる。魂と同化してしまったら……浄化すれば魂ごと消えてしまうんだ)
「そ、んな……そんなん、あかんやん……! そんな……!」
紗月の声が弾ける。
「……そうや!! なぁ……清雅、神様やったら治せるんちゃう? うちがもう一回“神降ろし”したらええやろ!?」
(紗月……)
「神様やったら、きっと——!」
清雅はそっと目を閉じ、かぶりを振った。
(……紗月。神は、式神とは違う。人が命じて動かす存在じゃないんだ。祈り、頭を下げて願うもの。……力を貸すかどうかは、神の気まぐれだ)
「気まぐれって……!」
(しかも、事象を変えれるほどの“高天原の大神”に頼むなら、必ず対価がいる)
「対価……?」
(魂、輪廻の権利、現世の記憶——何かを失わずに奇跡は起きない)
「で、でも……清雅、前に雷神様に頼んで鬼退治してもろたやん!」
(……ああ。あれは例外中の例外だよ。あの方は……まぁ、言ってしまえば“チョロい”から)
「な、なんやそれ!」
清雅は苦笑を浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。
(でもね、今の紗月じゃ、天上位格の神を呼ぶのは無理だ)
「……だったら、頑張る! うち、修行して、呼べるようになるまで頑張るから!」
紗月の瞳に宿るのは、希望とも狂気ともつかない光。
だが清雅は、痛みを滲ませた声で言った。
(紗月……“呪いと魂が同化する”って、どういうことか分かる?)
紗月は小さく首を振った。
(つまり——人が鬼になる、ってことだよ)
「……え……?」
紗月の喉が乾き、息が詰まる。
(もう時間の問題だ。今日、明日にでも、鬼に変わってもおかしくない)
「う、うそや……そんなの、絶対うそや!!」
紗月の叫びが病室に響く。
「お母さんは、優しい人なんや! 悪いことなんもしとらんのに! なんでそんな……なんで鬼にならなあかんのよ!!」
(紗月——)
「清雅なんか嫌いや!! もう喋りかけんといて!!」
紗月は顔を伏せ、泣きながら美紗子の膝にすがりついた。
清雅は言葉を失い、ただ静かに紗月を見つめていた。
***
日本陰陽師協会・本部。
一般の職員でも滅多に入れない地下フロアのさらに奥——重い鉄扉が、幾重もの解錠音を立ててゆっくりと開いていく。
ガコン、ガコン、と鈍い金属音が響くたびに、空気が一段階ずつ冷たくなっていった。
「……なんか……歓迎されてない感じの場所ね」
村瀬紅子は、通路を歩きながら呟いた。
奥へ続く廊下には、古い時代の護符や、式盤を模したプレートが壁一面に埋め込まれている。
足を一歩進めるごとに、それらがぼんやりと光を帯び、入室者を無言で査定しているようだった。
「歓迎されてたら困る場所だ」
隣を歩く安倍輝守が、淡々と返す。
「ここは“呪物保管庫”だ。人の手に余るものは、全部ここに押し込んである」
「物騒な言い方ですね。長官」
「実際、物騒だろう?」
輝守は立ち止まり、最奥の扉の前で振り返った。
「ここから先は、特級でも許可がないと入れない。いい思い出になるぞ」
「長官、社会見学みたいな言い方やめませんか?」
口では文句を言いながらも、紅子の表情は真剣だった。
輝守が最後の符を切ると、分厚い扉が、低い音を立てて左右に開いた。
中は思っていたよりも広く、天井は高い。
中央に円形の石造りの台座があり、その周囲をぐるりと取り囲むように、古式と現代技術を組み合わせた結界装置が並んでいる。
台座の上には——黒い石が二つ。
ゴルフボールほどの大きさの、球形の石。表面はガラスのように滑らかだが、その奥で常に何かがうごめいているように見える。
ただそこにあるだけで、胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚がした。
「……呪核——」
「ああ。陰陽師協会の封印庫に眠る、“呪玉”だ」
輝守は台座から距離を保ちつつ、紅子の横に立つ。
「どっちも百年以上前の代物だ。一つは東北で祟り神として恐れられた雪鬼。もう一つは、戦時中に現れた“都市伝説級”の妖だと言われている」
「ふぅん……」
紅子は一歩、結界の境界線ぎりぎりまで近づいた。
近づくほどに、視界の端に黒いもやがちらつき、一瞬、誰かの悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
「……気持ち悪いわね。これ」
「それが素直な感想としては正しい。で、どうだ? 飲み込んだ呪核との違いは?」
「大きさも形も、私が飲んだ呪核とほとんど同じ……なのに、全然違う。見てるだけで胃がねじれるみたいに禍々しい。——触りたくもないわ」
輝守は呪核から視線を外し、静かに呟いた。
「……そうか。できれば一度、清雅殿にも見てもらって話を聞きたかったのだがな」
「長官、今は無理ですよ。紗月ちゃん、研修中ですし。それに——紗月ちゃん、清雅に身体を貸すのを嫌がってますから」
輝守は目を瞬かせ、首をかしげる。
「嫌がる? なぜだ? 身体を使わせても、何か減るわけでもあるまい」
紅子は盛大にため息をつき、呆れたように肩をすくめた。
「……だから、男って本当に……。長官、凛にセクハラで注意されたことありません?」
「なっ——!? な、何を言っている、私はだな……!」
突然慌てふためく輝守を見て、紅子は半眼で告げる。
「思春期の女の子が、異性に体を好きに使わせるなんて、できるわけないでしょう。精神的にも、物理的にも」
「……そ、そういうものなのか……」
「そういうものなんです」




