神威
霧の中へ飛び込んだ獅子丸の視界は、すぐに白一色に塗りつぶされた。
(……ちっ、妖どもがっ! どこ行きよった……?)
さっきまで頭上を跳び回っていた猿の妖の気配は、霧と一緒に溶けて散っていく。
『獅子丸』
脳の奥深くで、黒寂が声を響かせた。
『匂いが変わった。妖の臭気じゃない。もっと……重い何かだ』
「重い?」
獅子丸は足を止め、鼻で空気を嗅ぐ。湿った土、血、腐臭……その底に、明らかに異質な気配が沈んでいた。
(……なんやこれ。胸がざわつく)
『行け。そっちだ』
そのまま進むと、霧の向こうに黒ずんだ影が浮かび上がる。
崩れかけた塀。歪んだ門柱。半分潰れた瓦屋根。
——屋敷跡だった。
(……なんやここ)
一歩、敷地へ足を踏み入れた瞬間——
ぞわり。
皮膚という皮膚が逆立つような寒気が走った。
「っ……!」
『……アッハハハ、気に入った。誰かがここで自分を呪いに喰わせたな』
「自分を……?」
『そうだ。力と引き換えに呪いを受け入れた。身も心も全部だ』
そんな場所のはずなのに——
霧の向こうから、人の声が聞こえた。
「……やはり、手掛かりは何も残っておらんか」
獅子丸は即座に崩れた塀の陰へ身を沈める。
霧が少し揺れ、黒い衣を纏った数人の影が現れた。先頭を歩くのは、白い装束に黒い羽織を重ねた細身の男。
(……誰や、あいつ)
「尊玄様。橘北家の屋敷跡……やはり何も見つかりません。残っているのは、強烈な“呪い”の残滓だけです」
尊玄は、まるで陶芸品を鑑賞するかのように、柱の焦げ跡をなぞった。
「聞いてはおった……橘北家の女——命を代価として信者達を返り討ちにしたと……」
信者たちがざわりと息を呑む。
「……だが、ここまでとは。十年以上経っても、まだこれほど濃い呪いが漂っている……娘を守るために、呪いを受け入れた女か……実に、美しい覚悟だ」
「はい。……しかし、幼児は死亡と」
「……いや、確信した。それほどの覚悟を示す母の手で守られた子なら」
尊玄の指先が、焦げた柱をそっと離れる。
「——必ず生きておるわ!」
(呪い……? それに橘北家やと?)
獅子丸は息を殺しながら耳を澄ませた。
「尊玄様が施設に収容された後に、戸籍、陰陽師台帳、協会の登録からも“橘北家”という項目は全て消されました」
「……徹底しておるな……橘の狸じじいか……」
その声には、恨みというよりも、愉快そうな色さえ混じっていた。
「しかし——」
信者が言葉を継ぐ。
「もし、幼児が生きているなら……現在、十七歳前後のはずです」
「そうなるな」
そこで、男は少し言いよどんだ。
「一度、『候補外』と判断された存在がいます」
「何者だ?」
「橘本家に入った、養女です」
その言葉に、獅子丸の眉がぴくりと動いた。
(……橘本家の養女……?)
「十三年前に迎えられているため、年齢的には合致します。ですが——陰陽師としての才能は皆無。下働きのように雑に扱われていた、と……」
獅子丸の胸に、嫌な記憶が蘇る。
顔を上げることすら許されず、雑巾を握りしめていた、小さな背中。
(……あいつ……)
「そんな子供が、“特異な力を持つ幼児”であるとは考えにくい——と、判断しました」
「ふむ……人の価値は、外から見えるものだけでは決まるまい……泥の中にこそ、真価が宿ることもある」
「……再調査を?」
「当然だ」
尊玄は顔を上げ、信者をまっすぐ見た。
「名前はなんという?」
「……確か——」
信者は記憶を探るように、ゆっくりと言った。
「橘……紗月、だったはずです」
その瞬間。
獅子丸の心臓が、どくん、と跳ねた。
(——橘紗月)
あの、雑巾を握っていた、本来なら自分よりはるか格下のはずの少女——
(……なんで、あいつの名前が、ここで出てくるんや)
「本家は、霊障事件で損傷が激しく、現在は改築中。養女は今、橘東家に身を寄せていると」
「では——連れて来い。わしが直接確かめてやる!」
「ははっ……!」
信者たちが一斉に頭を垂れた、その時だった。
——ギャアアアアアアアッ!!!
甲高い叫びが、霧を突き破る。
「……さっきの猿妖か」
しかし、さっきまで法輪寺の鳥居の上にいた妖とは桁が違う。
ひときわ巨大な猿妖が、瓦礫の屋根に爪を立てていた。毛は逆立ち、眼は血のような赤。背後からは、数十の小さな影がうごめいている。
猿妖の群れ——ボスと、その群れが、尊玄たちを取り囲むように、屋根や塀、木々の上に次々と現れていく。
「尊玄様! 数が多すぎます! ここは一度退いた方が——」
「退く?」
——ギャアアアアッ!!
屋根から、塀の上から、群れが尊玄めがけて殺到した——その瞬間。
「——跪け」
尊玄が、ただ一言、呟いた。
獅子丸は、肺が押し潰されたような圧迫感に思わず膝をつきかけた。
(な、んや……これ……! 言霊か?)
『違う。異能だ。獅子丸』
目に見えない何かが、この一帯を覆い尽くし、猿妖たちの動きが、一斉に止まった。
尊玄は、胸の前でゆっくりと両手を組む。
「神よ——信仰こそが力。汝の裁きを、目の前の穢れへ——“アーメン”」
信者たちが同時に膝をつき、深く頭を垂れる。
「「「「アーメン……」」」」
(……なんや、この圧……?)
——ゴウゥゥゥゥゥ……ッ
——バキッ……バキバキバキィィッ!!!
猿妖たちの身体が、まるで見えない巨大な掌に握り潰されるかのように凄まじく圧縮される。
骨が押し潰される鈍い音、肉が潰れる湿った音。腕や脚があり得ない角度へとねじ曲がりながら、霧へと吸い込まれていく。
——ズズズ……ッ
最後にボスと思しき猿妖が、赤く濁った目を限界まで見開き——
「ギ……ァ……ァ……」
やがて、跡形もなく消えた。
「……吠えるだけの獣は、供物にすらなれぬ」
「さすが……尊玄様の“神威”……」
獅子丸は、呼吸をするのも忘れていた。
(今の数を……全部、一瞬で……俺じゃ、そもそも“戦い”にすらならんかったかもしれん)
それを、祈り一つで。
『獅子丸。お前は弱い。生まれた時から負けている。努力では埋まらん差に、気づいているはずだ』
「うるさい! 黙っとれ!!」
黒寂の声が、低く笑う。
『否定するな。あの少女を見た時——お前は確かに思った。“勝てん”と』
(……違う。俺は……弱ない。弱いわけ……)
『わかってるんだろ? お前は弱い。認めたくなくても、気づいてしまったんだ』
「やめろ……やめろや……!」
『だったら、奪え。噛み千切れ。力だけが価値だろう?』
(……力……)
『欲しいんだろう? 喉が裂けてもいいほどに』
(欲しい……)
『なら——掴め』
その時。
「——そこだ」
尊玄の金を溶かしたような瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「……出てこい」
(……バレとる)
逃げるか——
そう思った瞬間、自分の脚が勝手に前へ出ていた。
塀の影から姿を現すと、尊玄と信者たちの視線が一斉に向く。
「……何者だ?」
「九重獅子丸、帝院学院二年生や」
口が勝手に名を名乗っていた。
「帝院学院か。陰陽師の卵というわけだな」
「ここで何をしていた?」
「妖を追っとった。飛び込んだら……いつの間にか、ここにおっただけや」
「なるほど。では——」
尊玄は視線を霧へ向け、薄く笑った。
「今の妖どもか。すまぬな、お前の獲物を奪ってしまった」
獅子丸は小さく首を振ったが、顔は悔しさで歪んでいた。
「……別にええ。正直、自分一人で倒せたか、わからへん」
尊玄は、獅子丸の表情を一瞥しただけで、何かを見抜いたように目を細めた。
「強くなりたいのか?」
「……っ」
「力が欲しいのだろう?」
まるで心の底を直接掴まれたようだった。
「……欲しいに決まっとる。強うならな、意味がない。俺には、それしか——」
獅子丸は、拳を震わせながら言葉を吐き出す。
「それしか……価値がないんや」
尊玄の口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「よかろう」
尊玄は、袖の内側へそっと手を差し入れた。
指先でつまむように取り出されたのは——薄いガラスのように透ける、聖体。
それを尊玄は、ためらいもなく獅子丸に投げた。
「それは——祈りを束ねる“聖体”だ」
白い薄片はふわりと向きを変え、引き寄せられるように獅子丸の手元へ滑り込んだ。
(……っ)
「もし——強さを本気で望むのなら、それを口に含みなさい。使徒への道は開かれる」
獅子丸は、手の中の白い円片から目を離せなかった。
陰陽師の霊符とも、呪具とも違う。
もっと——甘い誘惑に満ちた力の匂いがする。
(……これを飲めば……あんな力が、俺のもんに……?)
尊玄は獅子丸へ背を向け、黒衣の信者たちに歩き出す。
「行くぞ。ここで得るものは、もう十分だ」
「ははっ」
信者たちは一斉に膝をつき、恭しく頭を垂れた後、尊玄の後に続いた。
『飲め』
黒寂の囁きは、もはや耳ではなく血液の中に響いていた。
『飲み込め。お前は弱い。惨めなほどにな。だが、それでいい。弱者は——這いつくばってでも力を求めろ』
(俺は……)
『力がなければ、お前はただ——喰われる側だ』
(やめろ……)
『違うだろう? 喰う側に回りたいんだろう?』
(……ああ)
『祈れ。求めろ。奪え。力を望め』
(……欲しい。全部、ひっくり返せる力が……そこにあるんやったら)
九重獅子丸の瞳に、静かで深い狂気が灯った。




