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門守と式獅

 バスがゆっくりと停車する。

 窓の外に広がるのは、夕暮れの中にそっと浮かび上がる嵐山の象徴——渡月橋とげつきょう


(……嵐山——)


 紗月は胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


 ここは、紗月が本家に来るまで暮らしていた場所。

 父が死に、母が倒れてから——離れるしかなかった場所。


 あれからもう、十年以上。


(……帰ってきてもうたんや)


 懐かしさと、痛みと、少しだけ温かい記憶。


 だが——


 バスの窓の向こうに広がっていたのは、紗月の知っている嵐山ではなかった。


 橋の手前には黄色と黒の規制ロープが張られ、簡易バリケードが道を塞いでいた。

 その脇には、真新しい立て看板。


《京都市/陰陽師協会管理区域——関係者以外 立入禁止》


 周囲では、陰陽師協会の職員らしい大人たちが数名、無線機や資料を手に行き来している。

 現場の状況確認や封鎖線の点検に追われ、緊張感のある空気が漂っていた。


 橋の向こう側は、まるで時間が止まったように静まり返っている。


 ——プシューッ。


 扉が開いた瞬間、外から落ち着いた声が響いた。


「荷物、置きっぱなしにしないように。点呼とるからね」


 バスの前に立っていたのは、黒縁メガネの青年——


 三級陰陽師・大野悠希おおの ゆうきだった。


 研修生たちはバスを降り、秋の涼しい風に包まれながら列を作った。


「三年、蓮華院。……二年、九重……」


 名前が淡々と読み上げられ、最後に一年、莉乃の名が呼ばれた。


(えっと、奈々ちゃんは——明日のグループやったな)


「うん、じゃあ全員いるね」


 悠希は小さく頷き、柔らかい笑みを浮かべた。


「改めて。研修生の監督を担当します、三級陰陽師の大野悠希です。東京の帝陰アカデミー出身で、去年までみんなと同じ学生でした。年も近いから、気軽になんでも聞いてください」


 だが、その自己紹介を正面から受け止めている者はほとんどいなかった。


 蓮華院葵、九重獅子丸、青山颯、莉乃。


 四者四様の視線が、すべて一人の少女——橘紗月へと集中していた。


(……うち、なんかしたん?)


 紗月は居心地悪そうに目をそらした。


——ゴホンッ。


 場の空気を断ち切るように、悠希が咳払いをしたその時。


——トコトコトコッ。


 足元から、太ったたぬきが転がり出るように現れる。


 次の瞬間、ボンッと軽い破裂音とともに煙が上がり——そこから二足歩行のたぬき・ポン太が現れた。


「おいコラ悠希ィ! 俺様のことも紹介しろや!!」


 突然の登場に、研修生たちは固まった。


「あー……うん。支部長の式神のポン太。俺と一緒にみんなの監督をします」


 誰も声を出せずに見つめていると、ポン太はフンッと鼻を鳴らした。


「ふん、俺様の変化の術にビビって声も出ねぇか! いいか、よーく聞けよ! 紅子がわざわざ頭下げて頼んできやがったんだ!『悠希のこと手伝いなさい』ってよ!——だから仕方なく来てやったんだよ!! つまり——ここでは俺が一番偉い!! わかったかァ!!」


 たぬきによる突然の支配宣言に、生徒たちは完全に唖然。


 悠希は苦笑し、肩をすくめた。


「……ポン太、助かるよ」


 その横で、清雅がぼそりと紗月の耳元でつぶやく。


(紗月、アイツの本当の名前は……たぬ吉だ)


「なんで、たぬ吉なん?」


(なんとなく)


 その瞬間——。


「よけいなこと言ってんじゃねぇぞぉぉ清雅ァァァ!!! 誰がたぬ吉だ!! 俺はポン太だ!!何回言ってもわかんねぇのかァァ!!」


 ——その怒号は、嵐山を吹き抜けた風に掻き消された。


「——はい、じゃあみんな、一度集まってください」


 ざっ、と生徒たちが足をそろえた。


「ここ嵐山周辺は、現在、低級の妖の出現が増えている区域です。ただし——稀に中級の妖が混ざる場合もあります」


 悠希はメガネを軽く押し上げ、わずかに声を引き締めた。


「——もし、その場合は、絶対に一人で倒そうとしないこと。これは約束です。いいですね?」


 生徒たちは、一斉に頷いた。



 ***



 渡月橋とげつきょうを渡り切ると、法輪寺ほうりんじへ続く坂道が薄い霧に包まれていた。


 列の後ろを歩きながら、紗月と莉乃はそっと悠希へ歩み寄る。


「悠希くん、京都に残ることになったんや?」


 悠希は少し驚いたように瞬きをして、眼鏡の位置を直した。


「……うん。京都支部も再開したばかりで人手が足りないみたいで。それに……紅子さんから声をかけてもらって。手伝ってほしいって」


「そうなんや。……よかった、悠希くんがおってくれて」


 その言葉に、悠希の足がほんの少し止まる。


「え……?」


「うち……協会のこと全然わからへんし。特例措置で協会に入るってことになって……不安やったん」


 莉乃がうんうんと頷く。


「悠希さんが京都支部にいてくれたら心強いよ」


 その言葉に、悠希の顔が一気に赤く染まる。


「そ、そんな……俺なんて、大したこと……」


 ——その瞬間。


 トコッとポン太が悠希の肩に飛び乗り、声を張り上げた。


「こいつなぁ、千紘に『悠希はマザコン確定』って言われてからずっと気にしてたんだぜ!」


「ちょっ、ポン太!! それ今関係ないだろっ!!」


 慌ててポン太を引きはがそうとする悠希の姿に紗月と莉乃は吹き出した。


 その微笑ましい空気が、ほんの一瞬だけ周囲を温めた——その時。


——ギャアアアアアアッ!!!


 山の木々の奥から、獣のような叫び声が突き刺さるように響いた。


 悠希は表情を引き締め、霊符を指に挟む。


「来る。……全員、警戒」


 霧の向こう、鳥居の上に影が逆さにぶら下がった。赤く濁った目、長い手足、歯を剥いた猿のような姿。


 木々の上でも、影が次々と枝を蹴り移動している。


「……猿の妖か」


 悠希が短く息を呑む。


「来る、七……いや、八! 数が多い!」


「悠希! 雑魚でも群れになると厄介だぜ!」


「蓮華院さん、九重くん。最初の接触は二人に任せます。実力をここで見せてもらえますか」


「了解」


「ふん、やっと出番か」


「二人とも、距離取りながら行ってください。絶対に——」


 言い終わる前に、猿の妖が木々から飛び降りた。


——ギャアアアアッ!!


 葵は静かに一歩前へ出た。

 長い袖を払うと、指先を揃え、胸の前で印を結び始める。


「——かくの如く定む、禍つまがつひよ、門前にて留まれ」


 低く澄んだ声で告げると、足元の落ち葉がふっと浮き上がる。


「——開け、門よ。万象を映し示せ。門守もんがかり千里眼せんりがん


——パキンッ


 空気が割れるような音が響き、妖の動きが硬直する。


「……え? 千里眼って……? 千紘さんの術と……同じ名前……?」


(少し違う)


 清雅の声が静かに頭に届く。


(千紘の千里眼は——“未来を視る”星読みの術。蓮華院の千里眼は——相手の能力と動きを“見抜く”看破の術なんだ)


 葵の瞳が蒼く光る。


「視えた。弱点は胸骨の内側、霊核は中央に寄る」


 胸の前で右手を握り、左手を添えるように重ねた。


「——はらえ」


 霊力が拳に収束する。


「——浄撃じょうげき


——ズドンッ!!!


 拳が触れた瞬間、霊核だけが破裂し、妖が霧散した。


「……情報さえ掴めば、後は殴るだけよ」


 その様子を見ていたポン太が声を漏らす。


「かわいい顔して、やることがえげつねぇな……」


「……うそやろ……素手で妖、倒しよった……」


 そんな紗月の戸惑いに、清雅が肩をすくめて笑う。


浄撃じょうげき——拳に霊力まとわせて殴るだけ。術って呼んでいいのか怪しいけど、俺の知ってるやつは式神を素手で殴って従わせたり、結界を拳でぶち破ったこともある)


「……なんやそれ、ただの脳筋やないの……」


「——次は、俺や」


 獅子丸が一歩、前へ踏み出した瞬間。

 背中から、ぞわりと獣の気配が立ち上がる。空気が一変し、冷たく張り詰めた。


 獅子丸は胸の前で手を合わせ、指先を絡め、低く呟いた。


「——まねくは闇、まとうはけものきばもてけがれを喰らえ」


 印が結ばれた瞬間、黒い霊力が獅子丸の身体を包み込み、

 その背後に、巨大な黒豹の輪郭が揺らめく。


黒寂こくじゃく——開放」


——ギィッ。


 獅子丸の瞳孔が縦に裂け、指先から黒い爪が伸びた。髪も獣の毛のように伸び、風に揺れる。


「……え、なにこれ……」


 紗月は思わず後ずさった。


「なんか……獅子丸が変わってもうた……」


 その戸惑いに、清雅の声が静かに重なる。


(あれは……式獅しきし憑きだ)


「式……獅……?」


(普通の式神は霊符や呪具に封じて召喚して使う。けれど式獅憑きは違う。術者の肉体そのものに霊獣を憑依させて、力を共有する)


 言葉に合わせるように、獅子丸の脚が獣のように沈む。


(だから、身体能力や五感を底上げできるし、必要なら肉体を変化させることもできる)


「来いやァァァァ!!」


 獅子丸が獣の跳躍で霧の中へ飛び込む。


 その背を見送りながら、清雅が低く呟いた。


(……まさか、この時代にもまだ式獅憑きを使う陰陽師がいるとはな)


「なんでそんな言い方……」


(獣の霊を自分の身体に“取り憑かせる”んだ。契約してるわけでも、従わせてるわけでもない。いずれ——飲まれる)


「……うそ」


(わかるだろ、紗月。戦神託で見た“戦場の記憶”だけで飲まれかけたんだから)


 紗月の喉が、ごくりと鳴った。


(式獅憑きは霊そのものを抱え込む。長時間の憑依は、術者の人格そのものを侵食する)


(——俺がいた陰陽寮ではこう呼ばれていた)


 清雅の声が、まるで誰かの供養のように低く響いた。


(仲間殺しの術、ってね)


『……焦るな、獅子丸。右の上から来る』


 黒寂こくじゃくの声——その囁きは、獅子丸の思考を飲み込むように静かに侵食する。


「……上等や」


——ギャアアアアアッ!!


 猿妖が木々の上から飛びかかるが、獅子丸は一瞬で姿を消した。


 残ったのは、霧を切り裂く獣の唸り声だけ。


——ザッ!!


 霧の向こうから、悲鳴とも断末魔ともつかない声が響く。


『もっとだ。喰らえ。力を示せ』


「黙っとれ……わかっとるわ……!!」


 返事を最後に——獅子丸の姿は霧の深部へと消えた。

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