折れた牙
九重獅子丸は、生まれた時から「期待」という言葉と一緒に育てられてきた。
「さすが獅子丸や」
「これで九重も、七星会に劣らん力を証明できるわ」
物心つく前から、大人たちはそう言って笑っていた。
九重家——式獅憑きの家として知られ、強力な獣の式神を操る力を持つ一族。
だが、その力の性質は他家との協調を許さず、いつしか七星会の輪の“外側”へと追いやられていった。
「七星会はええよなぁ、祓禍予算が毎年どっさり降りて、好き放題や」
「こっちはいくら強うても、枠も金も回ってこん。外れもんは肩身が狭いわ……」
酒の席で、そんな愚痴を、獅子丸は何度も聞いて育った。
(負け犬みたいな声聞きとうない——俺が全部ひっくり返したる。それでええやろ)
幼い彼には、政治だの立場だのは理解できなかった。
ただ、一つだけはっきりとわかった。
——強ければええ。
獅子丸が術を覚えるたび、式獅を顕現させるたびに、大人の目が輝く。
「——ええぞ、獅子丸」
「お前の力で、七星会の連中を黙らせたれ。鼻を折ったりゃええ」
頭を乱暴に撫でられるたび、胸が熱くなった。
(当たり前や。俺が証明してやる。九重が最強やって)
小さな優越感は、彼にとって生きる証そのものになった。
稽古帰り、障子越しに聞こえた声。
「橘の本家が養女を迎えたらしいわ」
「けどな、なんも出来へん子みたいやで?」
「名門に入っても荷物になるだけやろ」
なぜか、名前だけが耳に残った。
——橘紗月。
七星会の名門に迎えられたのに、“なんも出来へん子”。
(なんやそれ……強い家やのに、なんでそんなのが許されんねん)
その違和感は、幼い心のどこかで小さく膨らみ続けた。
そして数年後、親に連れられて初めて橘本家を訪れたとき——
広い座敷には、同じ年頃の子どもたちが何人かいた。
皆、姿勢がきれいで、落ち着いた所作で大人の話を聞いている。
女の子や、その兄らしき少年は、幼いながらも立ち振る舞いに品があった。
(……さすが七星会っちゅうわけか。品があるやんけ)
そう思った、そのとき——
部屋の隅で、小さな雑巾を握りしめ、黙って床を拭き続けている女の子がいた。
背中は丸く、身体は細く、視線はずっと下に落ちたまま。誰ひとりその子に気を留めていなかった。
(……なんやあれ。屋敷の手伝いか? でも、さすがに小さすぎ——)
「——紗月、こっちにきなさい」
大人の声が、静かな部屋に響いた。
雑巾を持った子が顔を上げる。
びくっと肩を揺らしながら、小さく返事した。
「……は、はい」
(……え)
はじめて獅子丸は理解した。
(あれが……“橘紗月”なんか?)
堂々と立つ他の子らとは、あまりにも違う。
名門の家の子というより——ただ弱そうで、壊れそうで、誰の目にも入らない存在。
——なんやそれ。
胸の奥で、ひっかかるものが生まれた。
(あんなんが、七星会の家に入れるんか。それでええんか)
その瞬間、胸の奥に、ちりっと火花みたいな感情が灯った。
——勝ってる。
(俺の方が強い。俺の方が上や)
その感覚は、獅子丸にとって唯一の価値で——誇りだった。
……昨日までは。
***
(——ふざけんなよ)
九重獅子丸が背負ってきた誇りも、揺るぎない自信も——昨日の模擬戦で、まとめて叩き折られた。
京都を救った英雄、特級陰陽師・賀茂千紘。
誰もが憧れ、雲の上の存在と崇めるほどの実力者。
その千紘相手に——
紗月は真正面から踏み込んだ。
だが次の瞬間、獅子丸は理解を超えた光景を目撃した。
響き渡る金属音。その場の空気は、もはや——戦場だった。
そして紗月は、狂気じみた笑みを浮かべていた。
(……なんや、あれ……? 剣士か何かの怨霊が憑いとるんか……?)
理解できない。
ただ短刀一本だけで——
——賀茂千紘と渡り合っている。
圧倒的な力だけが、そこにあった
(俺が……負ける?)
心臓を鷲掴みにされたような、冷たい感覚。
(……違う……違う違う違う!!!)
否定したい。叫びたい。
けれど、視線の先にある現実から目が逸らせなかった。
——勝てへん。
生まれて初めて、はっきりとそう思った。
その瞬間、胸の奥で、何かがぐちゃりと音を立てて潰れた。
(——力が欲しい)
七星会にも、九重にも、どこにも属さない力。
血筋でも格式でもない、むき出しの“強さ”。
(欲しい。力があれば……全部、ひっくり返せる)
その朝、獅子丸は窓際の席で腕を組んだまま黙り込んでいた。
(来よったな……)
——ガラッ。
「お、おはようございます……」
橘紗月が教室へ入ってきた瞬間——
空気が、ひやりと張りつめた。
獅子丸の視線は、静かに、燃えていた。
(強くなってやる! どんな手を使ってでも)
***
——車輪の振動が、一定のリズムで身体に伝わってくる。
バスの窓の向こうには、流れるように京都の景色が広がっていく。
霊障事件の後、街は表向きにはすっかり日常を取り戻したように見える。
けれど——
(……観光客、ぜんぜんおらんな)
以前なら平日でも賑わっていた河原町や祇園の通りは、人影がまばらだった。観光バスも走っていない。
看板だけは「通常営業」と並んでいるのに、どこか薄暗い。
(……お祭りみたいに賑やかやったのに……)
市街地から離れた地域では、低級の妖の出現が増えており、危険区域として立ち入り禁止になった場所も多い。
観光客の姿はすっかり消え、住民たちでさえ、外に出るのを控えるようになっていた。
(今から向かう嵐山も……その一つ)
道の脇に、無骨な鉄製の看板が立っているのが見えた。
《この先『危険区域 』一般通行制限中》
(研修ゆうても……観光地で妖退治って、変な話やわ)
ふと、隣の席から声がした。
「紗月お姉ちゃん……キリは連れてこなくてよかったの?」
莉乃が心配そうに覗き込んでくる。
紗月は小さく息をつき、内ポケットに手を入れた。
「……ほら」
そっと取り出したのは、細かい術式と封印の紋様が刻まれた、真っ白な符だった。
「……それ、何の符?」
「式神契約の符。……キリ、式神にできてん」
「じゃあ、いつでも呼べるってこと?」
「うん。でも——使わんで済むなら、それが一番や」
莉乃は小さく頷くと、声をひそめて前方へ視線を送った。
「それより……紗月お姉ちゃん。さっきから、ずっと睨まれてる」
「……え?」
莉乃の視線の先——
九重獅子丸が、鋭い眼つきでこちらをじっと見ていた。
その視線には、静かな敵意のようなものが宿っている。
さらに、その前の席には——
(……異能管理庁のエージェントって、暇なんやな……)
青山颯が、何食わぬ顔でこちらをちらちらと見ている。
(……やっぱりストーカーやろ)
「……気にせんでええよ。スパイ兼ストーカーやし」
「えっ、スパ……え? ストーカー!?」
「大丈夫。職業ストーカーやから」
「職業ストーカーとは……?」
(まぁ……実際そうやろ。うちが “危険かどうか調べる” とか……人のこと監視して、ほんまストーカーやわ)
視線をそっと外しながら紗月は思う。
(……獅子丸の方は……なんや?)
九重獅子丸に心当たりはない。
恨まれるような言葉も態度も取った覚えはない。
(うち、なんかしたんかな……)
ずっと、授業中も。
プリント配る時も。
目が合うと、必ず睨まれていた。
(……ほんま、なんなん)
すると、頭の中でふわりと声が響く。
(——お、モテモテだなぁ、紗月)
(……清雅、黙っとけ)
(で、どっちと付き合うの?)
(……清雅、消すぞ……)
(ひっ!?)
紗月は、そっとため息を吐いて、窓に額を押し当てた。
——バスは静かに揺れながら、嵐山へと走り続ける。




