危険因子レポート
異能管理庁が手配したビジネスホテルの一室は、夜になると不自然なほど静かだった。
青山颯は、紙コップのコーヒーを一口だけ含み、ノートパソコンの画面を睨みつける。
——監視対象:橘紗月。
(……さて、ここからだよな。問題は)
指先がキーボードの上で止まり、数秒浮いたままになる。
危険因子か、それとも——。
——コン、コン。
「どうぞ」
言うより早く、ドアが静かに開いた。
「報告書、進んでる?」
黒川真里は遠慮も前置きもなく部屋に入り、颯の向かいに腰を下ろした。
「まぁ、ぼちぼち」
「口頭でも確認しておきたいわ」
真里は息を吸い、視線をまっすぐ颯に向けた。
「——実際に見た橘紗月は、どうだった?」
少し考え、言葉を選ぶようにして——
「ただの女子高生って感じじゃなかったですね」
「理由は?」
「戦いを“経験している”動きでした。体の使い方も判断も……場数を踏んでる」
颯は一瞬躊躇しながらも続ける。
「それに、力の出どころが自分からじゃない。外から流れ込んでる感じがしました」
「外から?」
「“憑依”に近い。けど、完全に乗っ取られているわけでもない」
「身体の侵食は?」
「ありました。戦いの途中で、明らかに目と髪の色が変わった」
真里は、驚くでも怒るでもなく——まるで答え合わせをするように、静かにペンを止めた。
「……真里さん、何か知ってるんですか?」
「何かって?」
「いや……なんか、そんな顔してる気がしたので」
問いかけると、真里は一瞬だけ視線を上げた。その瞳の奥に、言葉にできない“別の色”が揺れた気がした——。
「危険因子の定義は、忘れてないわよね?」
「……“日本にとって危険かどうか”。ですよね」
「ええ——“政府にとって”危険かどうか」
その言い回しが、わずかなひっかかりを残した。
(……“日本”と“政府”って、同じじゃないのか?)
「——それで、どう見えた? 彼女は」
「今のところ——」
——観察事項:乖離対話の傾向あり
戦闘中だけでなく日常時も、実在しない相手と会話しているように見える動作を複数確認。
幻覚・幻聴、または意識分裂の可能性。
現時点では、危険因子評価は保留とする。
「まだ“安全”とは言い切れないので保留で」
苦笑混じりに言うと、真里の口元がわずかに緩んだ。
「そう。それなら——もう少し近づいてもらう必要がありそうね」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「明日から始まる陰陽師協会の研修、生徒と同行できるように手配しておくわ」
「……は?」
颯の顔が、心底嫌そうに歪む。
(マジかよ……)
だが同時に、その胸の奥で別の感情が静かに燃えた。
(……確かめてやる。あいつが“危険”なのか、それとも——)
真里はタブレットを閉じ、静かに立ち上がる。
「続きはまた明日、研修のあとで聞かせてもらうわ」
けれど、どこか粘度のある沈黙だけが残った。
「……じゃ、おやすみ」
軽く会釈し、颯の返事を待たずに真里はドアを閉めた。次の瞬間、廊下に響くヒールの音が、急に速まる。
——コツ……コツ……コツ……コツ…コツコツコツッ!
エレベーターへ駆けるように遠ざかっていく音。
(……急ぎか? 別に驚くような話してないと思うけど……)
ゆっくり息を吐き、画面へ視線を戻す。
——危険因子評価:保留
キーを押す指が、わずかに震えた。
***
翌朝。
橘東家の裏にある雑木林は、朝露の匂いと土の湿り気に包まれていた。
「……っ、いててててて……」
紗月は木の幹に手をつき、ぎこちない動きで伸びをする。
(昨日、張り切りすぎたなぁ……。全身バキバキや……)
(いやぁ〜、でも名勝負だったじゃん? ほら、“Vチューバー初配信・戦場からこんにちは”回としては満点だったよ)
「いつまで引っ張るつもりやねん!!」
「ワン!」
白い子犬——キリが、紗月の足元をくるくる回りながら、尻尾をブンブン振っている。
「よし、キリ。今日はあんたの出番や」
「ワンッ!」
(で、今日のテーマは“キリ・式神化プロジェクト”だっけ)
「せや。いつまでも“子犬か剣”の二択やと不便やろ」
紗月は腰に手を当て、空を見上げる。
「学院にも連れて行かれへんし、剣のまま持ち歩いたら職質コースやし……」
(まあ、女子高生が日本刀持ち歩いてたらまずいよね)
「まずいどころか逮捕や!」
「ワン……?」
首をかしげるキリの頭を、紗月はぽんぽんと撫でた。
「せやからなキリ。陰陽師には、やっぱ“式神”が一番ええんよ。紙に描いた陣からピョンって出てきてくれたら、めっちゃ助かる」
「ワンッ!」
紗月は地面にしゃがみ込み、土の上に紙を一枚広げる。簡易の符を描き込んだ半紙——昨夜、紅子に教わりながら自分で書き上げた“式神契約の符”だ。
「よしキリ。ここ乗って」
「ワン?」
キリは紙の上にとことこ乗り、座り込む。
(紗月。キリを符の中にしまえるようになれば、持ち歩きも自由自在!)
紗月は、深呼吸をひとつ。
「——術式起動。その霊を符に宿せ……!」
指で印を結び、キリと紙の上に、淡い光の輪を描く。
——ふわ……。
キリの輪郭が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「よし、ええ感じ! そのままゆっくり吸い込まれてな!」
「ワンッ!」
キリの体が徐々に半紙の内部へ沈んでいく。
あと少し——あと少しで成功——!
その瞬間。
——ポコンッ。
「……ん?」
紙の上から、キリの尻尾だけが、にょきっと生えていた。
「え、ちょっ……尻尾だけ!?」
(あー……符に入らないで体が別々になったね)
「どんな失敗やねん!! キリ本体どこ行ったん!?」
足元の地面から聞こえてくる、くぐもった鳴き声。
「……ん、んーーワンッ! ワンワン!!」
「埋まっとるぅぅぅ!!?」
慌てて土を掘ると、顔と前足だけが地面からひょこっと出てくるキリがいた。
「ご、ごめんキリ! 完全にミスったわ!」
「ワウ……」
(いやぁ、だいぶ惜しかったよ、多分?)
「慰め方が雑や!!」
キリの身体がふわりと光に包まれ、ぶるぶるっと震えると——
——ポンッ。
さっきまで土に埋まっていたのが嘘のように、いつもの子犬の姿に戻っていた。
「わっ……戻った! よかったぁ……」
「ワンッ!」
安堵の息をつきながら、紗月は額の汗を拭う。
「よ、よし……第二ラウンドや」
「ワンッ!」
(よーし紗月、次は“顔から”いこう!)
「顔から!?」
(式神化の基本は“存在感”。顔を固定させれば全身の収束が楽になる)
「初耳やわその理屈!!!」
紗月はぶつぶつ文句を言いつつも、印を結び、符の上に手を置く。
「——術式起動。その霊を符に宿せ……!」
——パァァァァァッ!!
白光が爆ぜ、符の上から煙が立ち上がる。
「……成功したんか……?」
恐る恐る覗き込むと——
そこには、キリの首から上だけが、どん、と鎮座していた。
「ひっっ!!!???」
「ワンッ!??」
(あっはははははは!!!!!)
「笑い事ちゃうやろ!!!」
(だって! 生首!! 生首の式神!!)
「いやいやいやいやいや!! 誰が生首の式神つくれ言うたんや!!」
符の上の生首キリが、小さくブルブル震える。
「クゥゥゥゥン……」
「ご、ごめんって!! キリほんまにごめん!! 怖かったなぁ……!」
(紗月、これはもう“ホラー式神”の領域だな。夏に向けて需要あるかも)
「あるかボケェ!! 一回リセット!!!」
——シュッ……!
光とともに生首が消え、キリが紗月の足元に飛びつく。
「ワンッ!」
(よーし、ラストは“完全式神化”で行こう。今度は俺もちゃんと補助するから)
「今までサボっとったんかい」
(さっきまでは実験だから)
「キリの体で実験すな!!」
紗月は目を閉じ、指を印に組んだ。
(じゃ、いくよ。俺が言うから、後について繰り返して)
『——麒麟の霊よ、護りの刃よ。縁ある者の呼び声に応え、この符に宿りたまえ』
紙の上に、白い光が渦を巻く。
「ワン……?」
光の渦となって、キリの姿は紙の中へ吸い込まれていく。
——ポンッ。
光が弾け、すべてが静まり返った。
「……入った……」
(おおおおおおお!!)
「やった……! 清雅、できた!!」
(だから言ったろ、紗月ならできるって)
紗月は符を両手で持ち上げ、胸の前でそっと抱きしめた。
(じゃ、次は“召喚”)
「いくで。キリ、戻ってきてや!」
紗月は符を地面に置き、詠唱を唱えた。
「———天つ霊、地つ力、五行の理に従いて――我が声に応えよ!」
——パァァァッ!
紙の中心から白光が噴出し、小さな影がむくむくと現れる。
「……お?」
そこに立っていたのは——
人の膝ぐらいの大きさの、“二足歩行のキリ”だった。
つぶらな瞳、大きな耳、尻尾はふさふさ。
「……ワ、ワフ?」
二本足で立ったまま、キリが首をかしげる。両前足——いや両手?——を胸の前でそわそわさせている様子は、どう見ても“着ぐるみ感”がすごい。
(見たか紗月! これはもう立派な人型式神だ!)
「……キリ……形、変わってもうてる……大丈夫なん……?」
「ワ、ワ、ワフ……!」
——その瞬間。
ボフッ!!
「——あっ」
「ワンッ!」
煙のように着ぐるみ感が消え、次の瞬間には、いつもの子犬の姿でぺたんと座り込んでいた。
「……戻った……よかった……けど、これって……ほんまに成功なん……?」
(いやいや、十分成功だよ紗月。キリを式神に出来たんだから)
紗月はどさっと地面に座り込み、空を仰いだ。
「はぁ……式神化って、難しいんやなぁ……」
「クゥン……」
キリが申し訳なさそうに近づき、そっと紗月の膝に顎を乗せる。
「なんで謝るんよ、キリは悪くないって。悪いんは清雅や」
(なんか理不尽な気がするなぁ)
——ピピピピピッ!
携帯のタイマーが甲高く鳴り響いた。
「あ、やばっ! もう学院や!」
(完全に時間忘れてたね)
「ほんっま清雅と喋っとったら、時間忘れるわ……!」
土で汚れた手を払いながら、紗月は慌てて立ち上がる。
「キリ、とりあえず今日も研修の時までお留守番や!」
「ワンッ!」
「よし……! 行こ!」
紗月は符を巾着袋にしまい、雑木林の出口へ向かって駆け出した。
朝日が木々の間から差し込み、走る背中を照らす。
「……どうせ、今日は平和な一日やろ。そんなキリが必要なことなんか——」
(そういうこと言うと大抵、何かが起きるんだよね)
「その言い方やめて!? 不吉や!!」
紗月はキリを抱えたまま小声で呟いた。
「……あ、そうや」
「清雅、一個だけお願いしてええ?」
(ん? 何?)
「学院着いたら、静かにしといて……」
立ち止まり、紗月は真剣な顔で空中の清雅をにらむ。
「だって……清雅と喋っとったら、うち“独り言ブツブツ言う危ない子”になるやん!!」
(友達ゼロの紗月にとって、俺は“心のお友達”ポジションだと思ってたんだけど?)
「余計なお世話や!! 学院では静かにして! 頼むから、ほんまに!!」
(はいはい……わかりましたよ〜。友達がいない紗月のために、空気読んで静かにしとくよ)
「友達くらいおるわ!! 莉乃とか……」
(莉乃……)
「……その顔やめろ!!」
一人でツッコミながら駆け出す紗月の姿は——ただの“危ない人”にしか映らなかった。




