Epi 月下の邂逅
——シャリン……。
夜風に溶けるような、細い鈴の音がした。
(……鈴……?)
——シャリン……シャリン……。
まるで誰かが神楽鈴を揺らしているような、透き通った響き。
(こんな時間に……?)
彩花は音のした方向へ足を向けると、石灯の中にわずかな灯が揺れていた。
看板が月光に照らされ、文字が浮かび上がる。
「出雲阿国の墓」
(阿国……?)
階段の上から、また――
——シャ……リン。
誘われるように、彩花は階段を上りはじめた。
風の音と、鈴の音しかない。
月明かりだけが道を照らす。
(……誰かいる……)
階段をのぼり切った瞬間。
そこに、人がいた。
長い黒髪が月光を受けて銀色に光り、腕の動きひとつで風が起こるようだった。
それが神楽坂緑だと気づくまで、しばし彩花は息を呑んで見惚れていた。
——シャリン……。
やがて緑の唇が、囁くように動いた。
「かむながら
みたま ふりたまえ
かみ ここに くだりませ
やちよの みちを
ひらきたまえ
さきはえたまえ
おおくにぬしの おおみかみ
この みうつしに
やどりませ——」
唱えた瞬間、周囲の風がびりっと震え、薄い霊気が漂った。
だが、それはほんの一瞬で掻き消える。
緑は舞を止め、苛立ったように舌打ちした。
「……祝詞の調子は合っている。舞も乱れていない。どうして応じてくれないの……? 私の霊力が足りない? そんなはず……ないのに……」
墓石の文字を睨みつけるように見つめ、拳を握る。
「……かぶき踊りの女に出来て、私に出来ないなんて……」
月光の下で、緑の表情は怒りとも悔しさともつかない色に染まっていた。
(……すごい……)
彩花はただ、見つめるしかなかった。
あの祝詞——耳にしただけなのに、なぜか胸の奥にすっと入ってくる。
(……祝詞って、こんなに心に響くものなんだ……)
そんな戸惑いが胸を満たした時、緑が振り向いた。
「———っ」
二人の視線が合う。
緑は驚いたように、しかしすぐに警戒を含んだ目に変わった。
「……橘彩花」
その名で呼ばれた瞬間、胸がぎゅっと強張る。
(そ、そうだった……この人……)
元・陰陽師協会の京都支部長で特級陰陽師。
そして、松江を焦土に変えたテロリスト——
(やば……なんか、勘違いされたかも……)
彩花が思わず身を縮こめた。
「あ、あの……ご、ごめんなさい……その……勝手に見るつもりじゃなくて……ただ、すごく綺麗で……」
しどろもどろになりながら必死に言うと、緑はほんの一瞬ぽかんとし、すぐにふっと鼻で笑った。
「謝る必要なんてないわ。怒ってないもの」
「そ、そう……なんですか……」
「ただ……驚いただけよ。人よけの結界を張っていたから、人が来るとは思わなかったの……」
その声音には、怒気はなく――むしろどこか乾いた響きがあった。
そっと会釈し、去ろうとした彩花の背に、緑の声が落ちる。
「待って」
「ひゃいっ!?」
「……ねぇ、あなた。宗近さんの娘なんでしょ?」
「え、父を……知ってるんですか?」
「当たり前じゃない。神楽坂家は七星会の一員。宗近さんにも、あなたのお兄さんにも何度も会ったわよ……ま、あの兄に似てないだけマシね」
(……やっぱり、兄は評判悪い……)
「名門陰陽師の娘が、鬼と一緒にいるなんて……変わってるわね」
「……はは……」
「で、あなた、“白鴉”って呼ばれてる陰陽師を知ってる?」
(……白鴉って……歴史の授業で習った、平安時代の強い陰陽師……? でも、そういう意味で聞いてるんじゃないよね……)
「す、すみません。知りません」
「……じゃあ、夜叉王が言っていた白鴉って誰……? いったいどうやって……? ぶつぶつ……ぶつぶつ……」
緑は完全に独り言の世界に沈み、彩花の存在は忘れられた。
その異様な空気に、彩花はそっと身を引いた。
(……なんか、夜叉王や葛葉の居場所を聞く雰囲気じゃないなぁ……まあいいや……)
彩花は階段を降りながら、意味も分からず——ただ、耳に残った響きだけを追うように、そっと口ずさんだ。
「……みたま ここに くだりませ この みうつしに やどりませ——」
言葉を選んだ覚えはない。
ただ、緑の声の残り香に引かれるように、自然と漏れたものだった。
(……どんな意味の祝詞なんだろ……)
その瞬間、月明かりに映る彩花の影が——深い墨のように濃くなり、すぐにいつもの薄い影へと戻った。
***
コンビニの袋は、歩くたびにかすかに揺れた。
お茶のペットボトルと、なんとなく選んだおにぎりが二つ。
(……ちょっと頭を冷やしたい……)
出雲大社での出来事。
須勢理毘売の声。
出雲阿国の墓で見た緑の舞。
胸の奥に残るざわつき。
美鈴といたときの“楽しさ”が遠のき、今は静けさだけが押し寄せてくる。
海風は冷たく、遠くで波が崩れる音だけが響いていた。
堤防に腰を下ろし、ペットボトルのキャップをひねる。
(……あいつ……夜叉王……どこに行ったんだろ……)
聞きたいことも、確かめたいことも、たくさんある。でも言葉にならず、胸の中で渦を巻くだけだった。
——その時だった。
「……この時代の娘は、夜一人で歩き回ることにためらいがないのか?」
「ぴゃっ……!」
暗闇の奥から、静かな声。
振り向くと——夜叉王がいた。
月を背に影のように立ち、片手をポケットに入れたまま、こちらを見ている。
「ちょ……っ! 気配くらい出しなさいよ! どこ行ってたの!」
「探し物だ。予定が狂ってな……お前こそ、夜更けにふらふらと何をしていた?」
(……心配、された……? いや、そんなはず……)
「べ、別に……ただの散歩」
「散歩と言う割に……迷子の娘にしか見えなかったが」
「勘違いしないでよ……あんたが関係ない人を傷つけたりしないように“見張ってる”だけ。私はあんたの家来じゃないんだから……だから、どこへ行こうが私の勝手でしょ!」
夜叉王は鼻で小さく笑った。
「好きにすればいい。お前に指図するほどこっちも暇ではない」
そう言うと、海に背を向けるように、隣へ腰を下ろした。
(……ちょ、そこに座るの……!?)
胸の鼓動が跳ねるのを誤魔化すように、彩花はお茶を差し出した。
「……飲む? べ、べつに深い意味はないから……」
断られると思った——が。
「……もらおう」
夜叉王はキャップを開けず、手のひらで温度を確かめるように包んだ。
「……温かいな」
「え……?」
「いや、少しだけ、昔を思い出しただけだ」
(……昔……そうだ……今、聞かなきゃ……)
彩花は息を吸い、声を出そうとした。
「ねぇ……出雲大社で——」
その瞬間、喉がきゅっと塞がれたように声が途切れた。
「……っ……」
空気は吸えるのに、言葉だけが出てこない。
(え……なにこれ……?)
もう一度、息を整えて声を出そうとする。
「……須、すせ——」
唇は動くのに、音にならなかった。
胸の奥がざわりと泡立ち、背筋に冷たいものが走る。
(聞いちゃいけないの……? ……聞きたいのに……!)
「……どうした」
夜叉王の声が落ちてきた。
「……っ……な、んでも……ない……」
波音が寄せては返し、二人の間に静けさが積もっていく。
「……小野、義久」
夜叉王の肩が、わずかに動いた。
「えっと……その……なんか……夜叉王って呼びづらいから……嫌だったら、もう呼ばないけど……」
自分でも理由が分からない。
でも、言ってしまった。
夜叉王は怒りも否定もなく、ただ月を見つめ——
「……不思議なものだな。捨てた名だが……」
ゆっくりと彩花へ視線を向ける。
「……だが、お前に呼ばれると……違和感がない」
胸が、どくん、と跳ねた。
「だんだん夜は冷えてきた、そろそろ宿に戻るとするか……行くぞ、“彩花”」
「……っ……うん」
——名前を呼ばれただけ。
ただそれだけで、息が止まりそうになる。
海風が二人の間を抜ける、その一瞬——
彩花の影が月明かりの下でふわりと揺れ、舞台衣装のような長い袖が重なったように見えた。
彩花の物語、いったんここまでにします。
次回より紗月編、再開——。




