Epi 神域
——もっと奥へ。
その一歩を境に、世界がふっと揺れる。
空気の密度が変わり、参道の喧騒が遠ざかり、鳥居を越えた先とは明らかに違う、しんとした静寂が広がる。
(……ここ、どこ……?)
境内の空気とは違う。
もっと古く、もっと濃密で、誰かに見られているような圧。
「ようこそ——」
ふいに、耳元で女の声がした。
ぞくり、と身体が震えた。
木々の奥——光の筋の中に“女性”が立っていた。
長い黒髪が風にそよぎ、白い衣が淡く光をまとっている。
美しさでは葛葉にも劣らないのに、“恐怖”と“魅了”が同時に押し寄せる。
(……だれ……?)
問いかけようとした瞬間——
膝が、勝手に折れそうになった。
頭を下げ、従いたくなる。
でも、理由が分からない。
女はゆっくりと近づき、静かに言った。
「……やっと見つけたの。ずっと探していたのよ」
「……え?」
女はまっすぐ彩花を見据えた。
「その胸の奥……綺麗な“光”があるわね」
「……ひ、光……?」
「まだ小さいけれど、育てれば……きっと——」
(きっと……なにを……?)
「あなたは……誰……なの……?」
震えながら問うと、女は一歩、前に進む。
「私は——須勢理毘売」
「す……せり……?」
「大国主の妻よ」
柔らかく名乗りながら、その目には炎のような憎しみが宿っていた。
「そしてね——天照の系譜が大嫌いな女でもあるわ」
女は視線を上空へ向け、吐き捨てるように言う。
「国を譲れと言って夫を脅し、力でねじ伏せ、結界で私たちを縛りつけた“傲慢な太陽”」
白い指先が、境内の奥へと向けられる。
「——天照。あの女神はね、自分より輝くものを全部潰したがるの」
声は静かなのに、怒りの熱だけがひどく生々しい。
「夫を屈服させたあと、私はこの出雲の“奥の神域”に閉じ込められたままよ。外に出ることすら許されずに」
手のひらが、結界の空間を示すように横へ払われる。
「忌々しい天照の結界。あれは私たちを“見えない檻”に閉じ込めるためのものよ」
須勢理毘売はわずかに目を細め、彩花へ向けて囁いた。
「——武甕雷が降りたのでしょう?」
(……!)
「相変わらず乱暴で、無礼で、脳筋。神気だけは強くて……うるさい雷鳴ばかり響かせる。天照に尻尾を振る“飼い犬の雷神”」
侮蔑というより、唾を吐きかけるような言い方だった。
「だからね、外に触れられる“あなた”が必要なの」
「外……?」
「あなたは外で動ける。天照の目の届かないところに、私の手を伸ばせる」
須勢理毘売は彩花の頬へ、そっと白い指を伸ばす。
触れられたら終わる。
理由は分からないのに、身体が警鐘を鳴らす。
「天照に気づかれる前に……手を伸ばしておくべきなのよ」
(……っ)
微笑みながらも、瞳の奥は獣のように鋭く光っていた。
「安心して。あなたを縛る気は、まだないわ」
——まだ。
その一語が、冷たい刃のように胸に刺さる。
「でも、近いうちに“選ぶ”時が来る。どの神を呼ぶのか。天津か国津か、どちら側につくのか。その魂で、何を成すのか——」
風が吹いた。
次の瞬間、須勢理毘売の姿はかき消えるように薄れていき——
境内の空気がゆっくり元の色へ戻っていく。
「また会いましょう——」
消えゆく声だけが、耳に残った。
「……私の、小さな光の子」
はっと気づくと、彩花は参道の脇で立ち尽くしていた。
「彩花ちゃん!? どこ行ってたの!?」
美鈴が駆け寄ってくる。
「ご、ごめん……なんか……変なところに……」
「え? なにそれ……迷っちゃった?」
彩花は首を振る。
すると美鈴がふと鼻をひくつかせた。
「……なんか、彩花ちゃんいい匂いする……お香? お花の匂い……?」
「わかんない……私も……何が何だか……」
香りの主は、もういない。
ただ——
胸の奥で、さっきの囁きだけが消えずに残っていた。
『近いうちに“選ぶ”時が来る。どの神を呼ぶのか。天津か国津か、どちら側につくのか。その魂で、何を成すのか——』
***
出雲大社の神楽殿。
陽の光が板の間に射し込み、巫女たちの衣がふわりと揺れていた。
(……集中……しなきゃ。分かってるのに……)
稲葉真希は、神楽舞の隊列の中で一歩前に出る。両手に持った神楽鈴が小さく震えた。
今日の奉納神楽は、観光客も団体参拝者も多い。いつもの数倍の視線が注がれているはずだった。
けれど——今の真希には、その視線すら届かない。
(……京都の霊障……防ぎきれなかった……)
大きく息を呑む音と共に、真希の手元がふらついた。
——チリリンッ。
本来あるべきタイミングから外れた鈴の音。
「——真希ちゃん!」
「あ、ご、ごめんなさい……!」
隣の巫女が心配そうにちらりと見てくる。
(……ダメだ……本当にダメね……私……)
呼吸を整えようとしても胸が詰まる。
京都の鞍馬山で起きた霊障事件。
(……助っ人として呼ばれたのに……何も……できなかった)
喉の奥に、熱いものが込み上げる。
その瞬間——。
——カランッ。
真希の手から、神楽鈴が滑り落ちた。
周りの巫女たちがはっと息を呑む。
鈴が床に転がる音だけが広い神楽殿に響いた。
「ま、真希さん!? 大丈夫?」
「今日は休んだほうが……」
「顔色悪いよ……!」
舞の終了後、楽屋に戻るなり、同僚たちが一斉に駆け寄ってきた。
「ご、ごめんなさい……本当に……」
「いいのよ、無理しないで! 京都、大変だったって聞いたよ!」
「ニュースにも出てたし……真希さん、すごい頑張ったんだってみんな言ってるんだから!」
「うんうん、むしろ戻ってきただけですごいよ……!」
皆の優しく、気遣う声に、真希は顔を上げられなかった。
(みんな……ありがとう……でも……私……)
京都の惨状が脳裏によみがえる。
(……あの時……結界を破れなかった……)
鞍馬山を覆った異様な空間。
何度階段を駆け降りても同じ場所に戻ってしまう、あの“閉じた空間”。
賢治に頼まれ、真希は何度も霊符を重ね、五芒星を描き、霊力を絞り出した。
けれど——
『……ッ!…だめです…! この術式は普通の結界じゃない……誰かが強力な呪いを混ぜている……!』
どれだけ力を注いでも、結界はびくともしなかった。
自分の術では届かなかった。
(……助けを求めてる人がいるのに……私の術じゃ……何も……壊せなかった)
その“無力”が、いまも胸を刺し続けている。
そのあとに起きた——
——空を裂く雷鳴。
——京都中に降り注ぐ万の雷。
——大地すら震わせる神気。
自分には到底理解の届かない何かが動いていた。
(……私が……強ければ……もっと誰かを……助けられたかもしれないのに……)
それに……それだけじゃない。
(……緑ちゃん……)
“神楽坂緑”──
かつて、同じ特級陰陽師であり、親しかった友人。
今は——
“特別異能者収容施設”から脱獄した八名の中のひとり。
(どうして……脱獄なんてしたの……? いったい何をするつもりなの……?)
同僚たちは優しく背中をさする。
「今日の神楽、代わりに入っておくから。真希さんは休んで」
「少し外の風、吸ってきたら? ね?」
優しさが逆に痛い。
真希は深々と頭を下げ、神楽殿をあとにした。
***
真希は神楽殿を出ると、そのまま授与所へと足を向けた。
「稲葉さん、大丈夫? 顔色……」
「大丈夫です。売店、手伝わせてください」
そう言って、無理やり笑みを作る。
ほどなくして——
出雲大社の授与所は、観光客と参拝客でごった返していた。
「はい、御朱印の受付はあちらです」
「縁結びのお守りはこちらの棚になります」
「交通安全はこの赤いほうですね」
次々に差し出されるお守りとお札、財布、小銭。
目の前の事務作業に集中していれば——少なくとも、京都の光景は頭から遠ざかる。
(……こうしてるほうが、まだマシ……)
そう思いかけた、その時だった。
視界の端で、ふと“見覚えのあるシルエット”が横切った。
(……え?)
人の波の向こう、少し離れた参道側。
帽子を目深にかぶり、サングラスをかけた長身の女性。
風に揺れる黒髪。立ち姿。空気の張りつめ方。
(……緑ちゃん……?)
胸が、どくりと大きく跳ねた。
「す、すみません、後をお願いします!」
隣の巫女に声をかけ、半ば飛び出すように授与所のカウンターから離れる。
「い、稲葉さん!? ちょっと——」
呼び止める声も、今の彼女には届かなかった。
人の波をかき分け、参道へ飛び出す。
「緑ちゃん……!」
横顔はサングラスに隠れ、はっきりとは見えない。
それでも——あの背中、歩き方、纏う気配。
(絶対……緑ちゃんだ……!)
「待って……! 緑ちゃん!!」
声を張り上げるが、周囲のざわめきと観光客の笑い声にかき消される。
「前、通ります、ごめんなさいっ——!」
真希は慣れない勢いで人を押し分け、必死にその背を追った。
だが——
「——あれ?」
次の角を曲がった瞬間。
そこには、もう誰の姿もなかった。
参道は人で溢れているのに、“それらしい影”だけが跡形もなく消えている。
「……うそ……」
真希はその場に立ち尽くした。
肩で荒く息をしながら、辺りを見回す。
(……見間違い……?)
現実的な思考が、ようやく追いついてくる。
——“特別異能者収容施設”から脱獄した指名手配犯が、堂々と人の多い出雲大社の参道を歩くか?
——ましてや、テレビでも顔が出回った神楽坂緑が。
(……そうよね……そんなわけ、ない……)
自分に言い聞かせるように、胸に手を当てる。
(会いたいって気持ちが……勝手に姿を重ねただけ……)
深く、深く、息を吐いた、その時——。
「——お姉ちゃん!」
弾むような声が、背後から飛んできた。
「……え?」
振り向くと、私服姿の少女が小さく手を振っていた。
肩までの髪をポニーテールにまとめ、ラフなシャツとスカート姿。
胸元には、出雲大社の巫女が使う名札だけがぶら下がっている。
「美鈴……?」
「やっぱりお姉ちゃんだ! こんなところで何してるの?」
「そ、それは……」
真希は一瞬言葉に詰まり、視線を逸らす。
美鈴の後ろから、もうひとりの少女が、少し遠慮がちに顔を出した。
「えっと……美鈴、その子は……?」
「あっ、うん!」
美鈴は胸を張って、一歩前に出る。
「お姉ちゃん、この子、彩花ちゃん! 僕の友達! さっき駅の近くのカフェで知り合ってさ、今、僕が出雲を案内してるんだ!」
その言葉に、少女がぺこりと頭を下げた。
「は、初めまして……美鈴ちゃんに案内してもらってます……」
「……彩花、ちゃん……?」
一瞬——真希の眉がぴくりと動いた。
(……どこかで……聞いたような……)
目の前の彩花は、どこにでもいる高校生にしか見えない。危険な雰囲気も、何も感じない。
(……私、疲れてるのかな……)
真希は、柔らかく笑みを作った。
「初めまして。……美鈴の姉です」
「えっ、お姉さん……! 美鈴ちゃんには、お世話になってます……!」
彩花が慌ててもう一度、深く頭を下げる。
「ちょ、彩花ちゃん、そんな固くならなくていいよ! ね、お姉ちゃん?」
「ふふ……そうね。こちらこそ、美鈴と仲良くしてくれてありがとう」
そう言いながら、真希はそっと二人を見比べた。
美鈴の無邪気な笑顔。
その隣で、少し戸惑いながらも礼儀正しく振る舞おうとする彩花。
——ほんの少しだけ。
胸の奥に溜まっていた重たいものが、和らいだ気がした。
(……そうだ、私はこういう“未来のある子たちを守るため”に陰陽師になったんだ……もっと強くならなきゃ……!)
「お姉ちゃん、体調はもう大丈夫なの?」
「え?」
「さっき、神楽殿のほうから心配してる同僚さんが来てたよ。『真希さん、途中で抜けちゃって……』って」
「……そう……心配、かけちゃったわね」
真希は苦笑しながら、授与所の方角へ視線をやる。
「ごめんね、美鈴。……いろいろ考えすぎちゃって」
「もう……無理しすぎなんだよ、お姉ちゃんは」
美鈴は頬を膨らませてから、すぐに表情を緩めた。
「じゃあ、僕たち、もう少しだけ回ってから帰るね。今日は仕事じゃなくて案内係だから!」
「ふふ、そう。頼もしいわね、案内係さん」
「任せて! じゃ、またあとでね、お姉ちゃん!」
美鈴は彩花の方を向き、嬉しそうに言う。
「行こ、彩花ちゃん! さっきの続きで、今度は本殿の方、案内してあげる!」
「う、うん。よろしくお願いします」
二人が並んで歩き出す。
その背中を見送りながら——
(……彩花……)
真希はもう一度、心の中でその名前を反芻したが。
(……きっと気のせいよね)
自分にそう言い聞かせてから、真希は小さく息を吐き、授与所へと歩みを戻していった。




