紗月と鏡
教師が黒板に「平安時代の陰陽師」と大きく書き、静かな教室に向かって口を開いた。
「平安時代、陰陽道は最盛期を迎えました。有名な陰陽師と言えば、まず安倍晴明の名前が挙がりますね。しかし今日は、その後、平安時代後期に活躍した陰陽師――『白鴉』について学びます。」
ここは現代の陰陽師を育成する京都帝陰学院、2年C組の教室。
歴史学の授業が進む中、教師の話に耳を傾け、真剣にノートを取る生徒たち。
ただし、1人だけ、机に突っ伏したまま不機嫌そうな顔で窓の外を眺めている生徒がいた。
(平安時代の陰陽師なんて何やの。ただの古臭い儀式とか、お祓いする人らと違うん?)
その生徒、橘紗月は心の中でため息をつきながら、教師の声を右から左へと流していた。
「白鴉――彼は平安時代後期の陰陽師で、陰陽寮の実務部隊を率いて妖異退治や呪詛解除を専門としていました。その術は大胆かつ奇抜であり、その名は数々の伝説とともに語り継がれています。当時の陰陽道の枠に収まらない発想力と技術で、数多の危機を救ったと言われています。」
教師の言葉に生徒たちが興味津々の表情を浮かべ、熱心にノートを取っている。
それでも紗月だけは、どこか興味なさそうに机に突っ伏したままだった。
「白鴉はその卓越した実力を示す場面が多々ありましたが、特に有名なのが『千年京の術戦』です。この術戦は陰陽師同士が自らの力を試し、競い合った伝説的な記録の一つです。」
(そんなん、どうせうちには縁のないことやし……聞いたかて意味あらへん。)
教師が黒板に「千年京の術戦」の流れを簡単に図示する。
「まず、一方の陰陽師が『鬼霧結界』を発動しました。空間そのものを霧で閉じ込め、相手の動きを封じるための高度な結界術です。」
(……つまらん……)
「しかし、白鴉はそれを破るため『五芒星の転写』という独自の術を使いました。この術は相手の結界を逆転させ、その力を返すというものです。」
生徒たちはざわめきながら、教師の言葉に引き込まれていく。
「その後、対抗する術として『九字護身』が使われましたが、白鴉はさらに『式神封じ』を発動し、相手の動きを封じ込めました。」
紗月は机に突っ伏したまま心の中でぼやく。
(……結局、すごい人の話やってことやろ?そんなもん、聞いたかてうちには関係あらへん。)
突然、教師の視線が窓の外をぼんやり眺めていた紗月に突き刺さる。
「橘、聞いているのか? じゃあ質問だ。ここで白鴉が最後に陰陽師を圧倒した術は何だと思う?」
静まり返る教室の中、紗月はハッとして姿勢を正すが、頭の中は真っ白だ。
「えっと……その……た、多分、五行……何とか……?」
「…違うな。最後の術は『千剣の影』だ。もう少し集中してくれ……しかしだ、これはどんな術だったか、はっきりわかっていない…。」
「下人の子にわかるわけないって。」
「そもそも雑用係が陰陽師なんて無理に決まってんじゃん。」
「ほんとだよ。なんでこんな奴がこの学院にいるんだ?」
(……知らんわ…うちだって…やりたくてやってるわけちゃう……。)
終業のチャイムが響き、教室がざわめき始める。生徒たちはカバンを手に次々と教室を出ていく中、紗月は急いで席を立ち、教室の中央にいた彩花のもとへ駆け寄った。
「彩花様、お疲れ様。帰りましょう。」
彩花は面倒くさそうな顔をすると、小さくため息をついた。
「……紗月、放課後の予定は?」
「あ、えーと…」
紗月は慌てて胸元のメモ帳を取り出し、手書きでぎっしりと書かれたスケジュールを確認する。
「まずは屋敷に戻って、夕餉の準備が整うまで休憩。そして今夜は『月影の集い』や…。」
「……月影の集い……また、あの退屈な行事ね。」
「橘家のみんなが一堂に会して結界の調整を行う日や。年に一度の重要な行事やから、宗近様も楽しみにしてはります……。」
「楽しみにしているのは父だけでしょう。」
彩花はうんざりとした口調で椅子に座り直し、窓の外を見つめる。
「あんな古臭い儀式、私がやったところで何の意味があるのかしら。」
「でも、橘家の伝統やし……みんなが揃う貴重な機会やから……。」
彩花は何も答えず、ふいっと立ち上がった。
「どうせ私は形だけでいいのよ。父と兄が満足するなら、それで十分なんだから。」
(彩花様にとっても、やっぱりあの家の重荷は大きいんやろな……。)
玄関へ向かう廊下を歩きながら、紗月はふと立ち止まった。
(今夜の儀式……またうちだけがいない者として扱われるんやろな……。)
無意識に小さなため息をついた瞬間——
「紗月、何してるの? 早く行くわよ。」
「あ、待って!」
紗月は急いで、彩花の背中を追った。
外に出ると、真夏の暑さが容赦なく襲いかかる。
「ジリジリ……」
蝉の鳴き声が辺り一帯を埋め尽くす中、鴨川沿いの小道を二人は歩いていた。
「暑いわね……こんな日は早く家に帰りたいわ。」
彩花がぽつりとつぶやく。うっすらとした汗が額に浮かび、扇子で軽く仰いでいる。
橘家の屋敷は南禅寺の奥、鬱蒼とした木々の中に隠れるように広がっている。その静かな佇まいは、まるで外界と隔絶された別世界のようだった。
(はぁぁ……うちの一日は、これからが本番なんや。)
日が沈む頃には、橘家の儀式や雑務が待ち構えている。休む暇もないことを考えると、鴨川の涼しい風さえ、どこか遠いものに感じられた。
○
「紗月!何してるの、このお膳、早く持っていきなさい!」
炊事場に響く、水尾春江の声。
紗月にとっては「怖いおばさん」的な存在である春江の言葉に、思わず背筋が伸びる。
「は、はいっ!」
慌ててお膳を持ち上げた紗月は、バランスを崩しかけて、よろめきながらも必死に踏ん張る。
「気ぃつけや、こぼしたらまた春江さんに怒られるで?」
横で作業していた年配の世話役が、くすりと笑いながら囁く。
「そんなこと言わんと、手伝ったげたらええのに。」
もう一人の世話役が苦笑混じりに言うが、春江はきっぱりと首を振った。
「甘やかさないで。自分の仕事は自分でやらないと。」
「うぅ……」
紗月は、お膳をしっかり抱えて廊下へ向かう。
「わっ!」
炊事場の出入り口に差し掛かった瞬間、勢い余って柱にぶつかりそうになる。
その様子を見ていた世話役たちは、くすくすと笑いを漏らす。
「ほんま、よく動く子やなぁ。」
「落ち着きがないって言ったほうが正しいんじゃない?」
廊下の奥へ消えていく紗月の背中を見送りながら、春江はふっと小さくため息をつく。
「まったく、ほんとに手のかかる子ね……。」
そうぼやきながらも、その表情はどこか優しかった。
春江は炊事場の奥に置かれた古びた神棚に目を向ける。そこには橘家の家紋が刻まれた小さな祠が置かれていた。
(橘北家が主家を裏切って没落したことが、どうして今のあの子にまで影を落としてるのかしら。あの子に何の罪もないのに……。)
「春江さん、次は何を運びますか?」
若い世話役の声に、春江はハッと顔を上げた。
「あぁ、そこの大皿を食堂に運んで。紗月が戻ったら、次の膳を準備するように言っといて。」
(あの子は、本家にいる限り、ずっと報われないままかもしれない。それでも……。)
夕飯の配膳が終わると、紗月は炊事場の隅で急いで夕飯を済ませた。
冷めかけたおかずを口に運びながら、ふと壁に掛けられた時計を見る。
(もうすぐ月影の集いや……。)
食器をさっと片付け、紗月は「蔵」へと足を向ける。夜の儀式で使う符を取りに行くのが、彼女の役目だった。
符を作るのも世話役の仕事で、紗月は幼い頃からその作業を続けていた。
(式の意味もわからんし、陰陽術もまともに使えへんけど……これだけは、うちの得意な仕事や。)
——誰よりも早く、正確に符を作れる。
それだけが、紗月が自分を誇れる唯一の技だった。
蔵の扉を開けると、ひんやりとした空気が迎えてくれる。
紗月は慣れた足取りで奥に進む。
そして——必ず、やることがあった。
蔵の奥に置かれた古い鏡台の前に立つと、紗月は真剣な顔で鏡を見つめる。
——そして、いきなり顔を歪ませた。
「イーッ! アーッ! ウーッ!」
口を大きく開けたり、頬を膨らませたり、普段の紗月からは想像もつかないような奇妙な顔を次々と繰り出す。
最後に両手で顔を引っ張り、眉毛を吊り上げたまま「ムンッ」と決めポーズを取ると、思わずクスッと笑った。
(ふぅ……やっぱり、これをやるとちょっと楽になるなぁ。)
この習慣は、幼い頃に始まったものだ。
小さな紗月が、誰にも言えない辛さを抱え、泣きながら蔵に逃げ込んだことがあった。
——偶然目にした鏡に映る自分の泣き顔。
そのあまりの不細工さに、涙をこぼすのも忘れて吹き出してしまったのだ。
それ以来、蔵に来るたびに鏡の前で変顔をして、自分を笑わせるのが習慣になった。
そして、いつものように鏡に向かって、今日一日の鬱憤をぶちまけ始める。
「白鴉って何なん?術も知らんし!空でも飛ぶんか、その人?羽でも生えてるんか?」
鏡の中の自分に向かって、手を大きく広げてみせる。
「それに名前が『白いカラス』って……なんやそれ!カラスやったら黒いほうが普通やろ?ちょっと洒落てるからって名前にせんでええわ!」
鏡の中の自分が頷いてるような気がして、さらに勢いが増す。
「おかげでみんなから馬鹿にされたわ!みんなが全員、術を知ってるわけちゃうやん。何でうちばっかり責められなあかんの?まぁ、ボケっとしてた私が悪いんやけど。」
「ふぅ……。」
「よし、これで元気出た。」
紗月はそう呟いて、棚の上に置かれた符の束に手を伸ばした。
「……ん? 何か今日は空気が重い気がする。」
紗月は気にしないふりをして、符を抱えて蔵を出たのだった——。