ハッピーハピネスでお幸せに。
「ついに買ってしまった」
手の中にある一つの錠剤。
これ一つで千円。
これを飲めば嫌なことが忘れて、幸せな気持ちになれると言われる代物。
「…………」
仕事でストレスがたまり、仕事をきっちりこなしてもダメだと上司に否定されてきた。こんなつらくて苦しい気持ちを解放したくて、僕はついにこれに手を出してしまった。最悪な人間だ。
――ハッピーハピネス。
市場に出回る幸福剤。制限がかかっているが認可はおりている。
価格が低いため、バイトで稼いだ学生にだって手の出せるお手ごろ価格。それでいて、後遺症や病気になるわけでもない。要は価格の高いお菓子だ。
けれど、ハッピーハピネスによって人生を狂わされた人間が多くいる。ゲーム依存お菓子依存ギャンブル依存など、止めたくてもやめられない状態になる。それを適度に服用するならとりわけ悪影響はないわけだが、それでもそう言った症状に陥る人間がいるのだ。
「ごくり」
喉を鳴らした。
仕事のストレス、日常生活への無気力、目標の皆無、ダラダラと生きるやり場のない怒りに、つい買ってしまった。
同僚もこれを服用して生活していると聞く。一週間に一度。多い時で二度。
僕がこれを飲めばどうなってしまうのか、それが不安だった。初めての服用だ。下手をして抜け出せなくなって、それこそ人生を狂わせてしまったら元も子もない。
動かす手が何度も口元へ行ったり来たりしている。
「…………」
真面目に生きてきたつもりだ。
人の言うことを聞いて、極力人様に迷惑を掛けないように心掛けてきたつもりだ。言葉遣いだって態度だってマナーだってそうだ。勉強も怠らず、恥ずかしい人間であらないよう努力してきたつもりだ。けれど今、自分の人生は輝いていない、明るくない、希望がない。薄給で労働時間の長い職場、上がらない給料、高くなっていく物価。こんな国で、いや他の国でも一緒だ。いや、ただそうやって言い訳して行動を起こそうとしていないだけで、不安だからああしようこうしようとしているだけで、そこには積極的な気持ちはない。これでいいのだろうかと常に思いながら生きている。何をもって生活しているのかというと、周囲が自分をどう思っているのかという他人軸だ。こんなので幸せになるなんて絶対に無理だ。僕はいつも不安なんだ。いつも怖いんだ。
「…………」
手の中にある錠剤。
じっと見つめては、目を離し、でもそちらに視線を向けてはまた離す。
嗚呼、こんなものに頼るにまで至った自分が馬鹿馬鹿しい。
嗚呼、本当に情けない。
「…………」
意を決して、目を瞑りながら錠剤を口に含んだ。
イチゴみたいな味がして美味しかった。
人によって味が変わると聞いていたがまさか自分の好きな味に変わるなんて、配慮されていると感じた。
「……あ」
足がふわりと浮いた。まるで背中から翼が生えたみたく、地球の重力から解き放たれたみたく、身体が軽くなった。これまで肩に背中に掛かっていた重みと痛みが無くなっていくのが解る。頭が真っ白になってボーっとしてきた。好きなお菓子を一口目に食べた時、眠たい時にもう一度二度寝する時、オナニーで果てるのを我慢してそれから出す時みたいに、途轍もない快感が頭の中を支配した。
なんて夢心地で、心地の良い感覚なのだろうと、僕はフラフラとした足取りでベッドに倒れ込んだ。
全身から力が抜け、雲の上に乗っているような感覚。
嗚呼、僕はいま天国にいる。
そんな気分にさえ陥った。
「ああ……」
眠くなってくる。
全身が弛緩して、リラックスしたこの状態。
脳みそがチカチカする感じ。
晩御飯を食べて、お風呂にも入って、歯磨きも終えている。何一つ気にすることなく、この感覚に浸りながら眠りにつくことができる。これほどまでに愉快で快活なことはない。
「気持ちい……」
意識を手放していた。
「ッ」
ハッと目を覚ます。
慌てて時計を見ると時間は六時頃。
「……」
昨日寝たのは一時ごろ。
五時間しか寝ていない。出勤時間ギリギリまで寝て六時間。普段なら朝起きるのも一苦労なのに。
「…………すご」
身体が軽い、気分良い、頭が冴えている、何でもできそうな気持で一杯だった。
「ああ、最高だ」
出勤時間まであと一時間。余裕な気持ちで、僕はコーヒーを作ってみた。埃を被ってほとんど触ったことのないコーヒーパック、そしてコーヒーカップ。お湯を注ぎ、パックを入れてコーヒーを作る。砂糖を小さじ一杯入れて飲む。
「ああ、落ち着く」
久しぶりのコーヒーの味に、僕は息を吐いた。
着替え、髪を整え、髭も剃る。時間を見てもまだ二十分経っただけ。食パンを焼いて、バターを塗って食べる。美味しかった。
「こんなにも余裕をもって過ごせるなんて、ほんとに幸せだ」
ハッピーハピネスを飲むと、皆が口を揃えて「幸せだ」と口にすると聞いたが、まさにその通りだと思った。
二杯目のコーヒーを作って飲み終えると、七時になる前に出発。
スクーターに乗ってエンジンをかけて走らせる。風を切る感覚が気持ちよかった。
いつもなら何も感じずに道路を走り、渋滞に舌打ちしているのに、今は何とも思わない。みんなも頑張っているんだなと感心していた。信号が赤信号になろうとしても突き進まない。時計を見てもまだ時間がある。
会社に着くと、事務所員や社員、同僚たちに挨拶した。みんな不思議そうに挨拶を返してくれたが、僕は気にしない。どう思われようと、どう感じられようと気にならなかった。
自分の席に座り、隣にいる同僚の山田に挨拶する。
「おはよう」
「おう、おはよう……なんだ? お前、やけに爽やかじゃねえか」
「うん、すっごく気分が良くて幸せでね」
それを聞いて、山田は頷く。
「……ああ~、お前、ハピハピを飲んだな?」
「ハピハピ?」
「ああ、ハッピーハピネスの略称さ。どうだ? 最高だろ?」
「ああ、お前が何度も勧めてきたときは忌避ばかりだったけど、いざ飲んでみると最高だよ」
「だろ? これで副作用や後遺症が起こらないって話だからな。こんなにもお買い得なのが世の中に有っていいのかって感じだ」
「他の人たちも飲めばいいのにって思うよ」
「他にもいるぜ。特に俺たちみたいな若い世代はな」
「じゃあ上司とか――」
「ああ。あの頭の固い奴らは飲んじゃいない。だからいつも不平不満やカリカリしてんだろうが。ほんと迷惑だぜ」
「ああ、まったくだ」
僕はパソコンに向き合う。立ち上げ、エクセルを開く。
引き出しから取り出した書類を見ながら、数字や文章を打ち込んでいく。
「おお、早え」
「頭がすっきりしていて捗るよ」
パチパチとパソコンに入力していると視線を感じた。
「あの東雲が?」
「なんか自信にあふれてる?」
「かっこいいわねえ~」
なんて声が聞えて来た。
人生が百八十度変わった気分だった。
「東雲くん、昨日提出した書類だが」
「はい、何でしょう」
笑顔で返した。いつもならおどおどした感じで返答していたのだが。
それに部長も驚いたのか、一度咳払いをして口を開いた。
「ここが間違っているぞ。これだからお前と言う奴は」
「すみません、すぐに直して再提出いたしますね。他にも間違いがあればおしゃってください。すぐに訂正いたします」
「あ、当たり前だ……まあ、何かあればすぐに伝えよう」
「かしこまりました。ありがとうございます」
そして丁寧に頭を下げた。
少し躊躇い気味に部長は頷くと、自分の席へと戻っていった。
「お前すげえな。なんつう変わりようだよ」
「自分でも驚いているよ」
ニコニコと返していた。
それからも仕事が鬼のように捗った。誰かがミスをしたらフォローできるほどに余裕がある。それほどに気持ちにも仕事にも落ち着きがあった。
仕事を終え、家に帰宅すると、いつもならビール片手にテレビを見ているところだが、それもなく。僕は明日の仕事について考えていた。あれもこれもと考えが収まらず、気持ちが浮ついてしまう。
筋トレを無理のない範囲で行い、前から興味があった俳句を勉強した。
「すごく楽しいっ」
いつの間にか十二時を回ろうとしていた。
「よし、寝るか」
明日もこんな感じで順風満帆で過ごせるのだろうと思うと、愉しみで仕方がなかった。
「……あれ?」
目を覚ますと、身体がだるかった。筋トレした影響かもしれないと思いつつ、服を着替えるが異様に身体が重かった。今にも死にそうに、死にたくなる感覚に、僕は目を回す。
「なんで、あれ?」
この感覚は知っている。
ハピハピを飲む前の、苦痛に歪む僕の本来のそれだ。
「……効果は長くて一週間って話じゃないの?」
捨てた箱をゴミ箱から取り出した。個人差があって、短い人でも二日から三日は効果があると書いてある。
「僕は……一日?」
突然の吐き気に僕はトイレに駆け込んだ。
起きたのは七時前。早く家を出ないと遅刻してしまう。
頭が痛い。お腹が痛い。
これも知っている。いつものことだ。
慌てて服を着替えて、バタバタしながら家を出た。
いつものように渋滞する道路。イライラして舌打ち。
職場に着くと走って、挨拶どころではなかった。
ギリギリタイムカードを切って、椅子に座る。
「東雲、今日はギリギリだな」
「……なあ山田、ハピハピ今持ってる?」
「持ってるけど、何? どうした?」
「僕、一日しか持たない」
「え? 短くね? 俺でも長い時だと五日は持つのに」
「いいから早くくれっ、休み明けに返すからっ」
「解った解った」
山田から渡されたそれをひったくるように貰って、僕は口に運んで飲み込む。
天にも昇るような感覚が身体中に染みわたり、頭が冴え渡っていくのが解る。
「ごめん山田っ、口悪く言っちまって」
「お前、真面目だからなあ。相当ストレス溜めこんでんじゃね?」
「そうかもしれない」
「だからってあんま飲み過ぎるなよ? ハピハピの過剰摂取で死んだ奴もいるみたいだしな」
「解った」
そして仕事に打ち込んだ。
「あ、あ?」
家に帰る途中、またも気分が悪くなってきた。頭が痛くて、今にも倒れてしまいそうな吐き気がした。今日はそれほど忙しくもなく、余裕のある流れでやっていたのに。
家に帰ると、風呂にも入らずにベッドに突っ伏した。
「ダルイ、しんどい、死にたい……」
そんな言葉を繰り返し言っていた。
明日は休み。
ハピハピを販売している店に行って買いに行かないと。
「最悪だ、気分が悪い」
何もやる気が起きない。ハピハピを飲む前よりも症状がひどい気がした。
「僕、どれだけ日ごろからストレス溜めこんでいるんだろ」
そして翌日。
起きたのは十時を過ぎていた。
ようやく身体が動き、昼以降に店へと向かった。
繁盛しているらしく、店の中には多くの客がいた。僕はハピハピを一万円分手に取って会計を済ませる。
店を出るとすぐに服用した。
気分がすっきりして、一気に気が晴れる。
「よし、帰ろう」
ルンルン気分で帰路に就く。
家事や掃除をしていると、十八時過ぎにまた気が滅入ってきた。
「なんかしんど」
またハピハピを服用していた。
気分は晴れ、明日の仕事について考える。
筋トレをやり、俳句を作る。
寝る前に気が滅入り、ハピハピをまた飲んだ。
「……………………」
朝起きたのは六時ごろ。
けれど身体がだるく、、気持ち悪かった。死にたい気持ちで一杯だった。
ハピハピを飲む。全部手に持って、出勤した。
「お前、どうした?」
「ん?」
「なんかげっそりしてね?」
「ハピハピ飲んでるから?」
会社に到着して椅子に座って、山田から言われた直後にまた服用。
今度は一切気分が晴れなかった。
「ああ、これ、返すよ」
そう言って、鞄からハピハピを取り出して渡そうとして。
体勢を崩して気を失った。
目を覚ますと、見知らぬ天井。
「隆、目をさましたのねっ」
そして部屋を出ていくお母さん。
先生を連れて戻ってくると、お母さんは涙を流していた。
「ハッピーハピネスによる中毒症状ですね」
医師からそう告げられた。
意識を失って一週間だそうだ。
「ハッピーハピネスの幸福作用を大きく超えるストレスですね。真面目な方に多くその傾向がありますので、一度精神科への受診をお勧めします」
お母さんに連れられて、紹介された精神科病院に行くと、うつ病と診断された。
「あなたって小さい頃から繊細だったものね。仕事合わなかったのかもしれないわ。仕事を辞めてこっちに帰ってきたらどう?」
言われるままに、僕は仕事を止めて実家に帰った。ここまでお母さんに迷惑をかけてしまったのだ。仕事や職場が合わなかったとしか言いようがない。
田舎の畑仕事。
お父さんの手伝いをしながら、今は落ち着いて生活している。
「よっ、東雲。体調はどうだ?」
「山田」
ある日に山田が来てくれた。
「ったく、お前はいつも急なんだからよお」
と、笑っていた。
心配をかけてしまったのが申し訳なく思う。
「餞別だ」
そう言って手渡そうとしてくるハピハピ。
僕は首を横に振る。
「薬物はダメ、ゼッタイ」
「んな子供みたいな」
「もう僕は良いんだ。それは要らない」
押し返した。
山田は頷いて、それを鞄の中に入れた。
「悪かったな。お前に勧めた俺にも責任がある」
「いいよ。もう終わったことだし」
「……前向きだな」
「そうじゃないと時間が勿体ない、でしょ?」
「まあな……」
少しだけだんまりになる僕たち。
「農家の服、似合ってるな」
「それはどうも」
「お前にはこれが合ってたってことだな」
「無理してここを出たのが間違いだったかな」
「でもそれで気づくことはあった。だろ?」
「うん」
「じゃあこれも悪いことじゃねえ。次だ次」
そう言って、山田はニコッと笑った。
そう言ってくれて、僕は心が晴れていく。
「また今度飲みに行こうぜ。いつ行ける?」
「後で連絡するよ。お父さんに相談するから」
「親孝行ものだな。お父さんも嬉しがるだろうよ」
「そうでもないよ。いっつもぶっきらぼうさ」
「ふーん。素直じゃねえなあ」
「はははっ……」
苦笑いした。
「じゃあまた連絡くれ。もう行くよ」
「うん、ありがとう」
そう言って、僕たちは手を振り合った。
次に山田に会うのが楽しみだった。
「隆、こっち手伝ってくれ」
「わかった」
お父さんの元へと走っていく。
これが僕には性に合っているのだろう。
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【集】我が家の隣には神様が居る
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