#5『双刃』
温かい。
まるで、ぬるま湯に浸かっている様な感覚が全身を包んでいる。
自由落下する身体には似つかわしくない感覚。
纏う光は、命の灯。
それは、精霊なんて呼ばれている原理不明のエネルギー。
見据える敵を、討ち滅ぼすための超常的な力。
私は選ばれたんだ。
私はこうするために生まれてきたんだ。
だから―――。
態勢を整えて、ビルの外壁に足を着く。
数歩の猶予を以て、強く蹴り出して、空に飛び出す。
外壁やガラスを粉々に砕き得られた推進力は、目前の化け物を捉えるには、凡そ十分すぎる程の速度。
音に追いつかれる前に、構えて、切りかかる。
身体の中心を回転軸にして、大きく振りかぶる。
初撃、右手に確かな手応えがあった。
頭上に浮かぶ、その禍々しい異形の環を確かに捉えた。
一体目――。
そのままの勢いで地面を目指す。
漸く外壁やガラスの破砕する音が追い付いてくる。
二体目の亡霊を目で追う。
まるで引き延ばされた時間の中で、その目に映ったものは、幾重にもなる牙に黒く塗りつぶされた様な巨大な顎。
その昔、海と呼ばれる場所に生きていたとされる軟骨魚綱に属する魚類の成れの果て。
間に合わない。地面までまだ距離がある。
回避行動を取る余裕すらもなく、上腕の一部を食い千切られる。
地面に手を着いて受け身を取り、勢いを殺さない様にして地面を蹴る。
捉えた、まるで動きが止まって見える。
勝った――そう確信した瞬間、寸での所で右腕が止まる。
宙摺りになった身体に、幾つも傷が広がっていく。
噛み跡。
どういう原理かは分からない。でも、どうやら直接触れる事なく私に攻撃してきた。
身動きが取れない。これではもう、どうしようもない。
私は――。
「ねえ、フタバ」
遠くで誰かが私を呼んでいる。
「ねえ、フタバってば」
近くで誰かが私を呼んでいる。
「ねえってば。どうしちゃったの」
目の前に、どんなに願っても、もう決して会うことが出来ないと思っていた人の影がある。
「え、あ、どうして……」
頬を何かが伝う感覚がして顔を腕で覆う。
「どうして?まだ寝ぼけてるの?早く準備して。市街地だって。出撃だよ」
灰色の髪を長く伸ばして、腰に刀を下げた犬耳の少女が笑って見せる。
「私が出るんだから、今回も楽勝だよ。さぁ、行こう」
私の手を取って、これから戦場に赴くとは思えない歩調で歩いて、
「みんなも、車に乗って、市街地までかっ飛ばしていくよ」
車の鍵を指でクルクルと回して、楽しそうに、今日も出撃していく。
「よし、これで全部だね。今回も楽勝だったね。みんな怪我はない?」
鞘に刀をしまい、周りに気を配る彼女は、息一つ上げていない。
「お、無線だ。誰だろー」
個人無線の様だった。
無邪気な顔が段々と曇っていき、
「みんなはもう帰投していいよ」
真剣な表情を浮かべて、私たちを帰還するように促してくる。
「えーなんでー。さっきの無線誰だったんです?私たちも一緒に行きますよー」
「そうですよ。隊長だけで行くなんて」
「あたしたちもお供しますよ」
口々に隊員が意見する。
「駄目だ。帰るんだ。頼む」
今まで聞いたことのない口調で、まるで怒鳴る様に言い、背を向ける。
「頼むよ」
震える声が只ならぬ事態であることを犇々と教えてくれた。
それぞれ愚痴を言いながらも、私たちは帰路に着く。
「それにしても何だったんだろうね。個人無線なんてさ」
「さあね」
「重要な任務なんじゃないかな」
「もしそうなら、尚の事私たちと一緒じゃないと駄目なんじゃないかな。一人でなんて」
「確かになー。じゃあなんなんだろ」
「あれ?警報鳴ってない?」
車の窓を下げて、耳を澄ませる。
「あ、ほんとだ。私たちがさっきまでいた方だね」
「やっぱり亡霊だったかー。隊長大丈夫かな」
「大丈夫でしょ。うちの隊長、最強だし」
「まぁ、そうか。そうだよね」
そう、話していると、近くでも警報が鳴り始める。
なんだか、凄く嫌な予感がする。
私は何か、とても大切なことを忘れてしまっている気がする。
「急ごう。一旦戻らないと」
違和感、いや、既視感ってやつだ。
前にもこんな事があった様な、そんなどうしようない感覚。
瞬間、凄まじい衝撃に襲われて、気が付くと、車は宙を舞っていた。
各々車から飛び出して、すぐに臨戦態勢を取る。
地面には天門が幾つも開いていて、そこから夥しい数の亡霊が湧きだしてくる。
「なんだよこれ……」
いや―――。
言葉とは裏腹に、私は良く知っていた。
私は、もう既に一度経験しているんだ。この絶望的な状況を。
そして、この戦いの結末も。
赤黒い液体で満たされた地面に目を向け、最後に残った亡霊に短剣を突き立てる。
「これで終わりだよ、みんな」
亡霊の残骸も、仲間だったであろう赤色も、もはや区別を付ける事も出来ない。
「くっ……くそっ」
放った言葉が静まり返った市街地に虚しく溶けていく。
「なんで、どうして、どうして‼」
圧倒的な理不尽の追体験。
どうしたって、覆せない現実。
決してやり直せない過去。
もう――もう二度と――こんな事―――。
熱い。
まるで、沸き立つ熱湯に浸かっている様な感覚。
瀕死の重傷を負わされている身体には似つかわしくない程の力が湧いている。
纏う光は、命の灯。
それは世界を呪う赤色。
見据える敵を撃ち滅ぼすために与えられた諸刃の剣。
私は選び取ったんだ。
私はもうどうなったっていい。
だから―――。
動作は必要ない。ただ思えばいい。
切れろ―――。
瞬間、亡霊の巨体が半分に裂ける。
切れろ―――。
切れろ切れろ切れろ―――。
二つ、四つ、八つ。
何故だが、こうすればいいと分かる。
これはきっと最後に残された唯一の慈悲なのだろう。
切れろ―――。
環に亀裂が入り、次の一言で、完全に破壊された。
黒い霧になって消えていく異形の化け物を見届けると、身体はもう言う事を聞いてはくれず、地面に崩れ落ちる。
たったの数十秒。私が戦いに費やした時間。
まるで、永遠の様に感じられた時間が、漸く終わった。
「こちら――隊――カネ。鮫型二体の―――至急―――」
遠のく意識の中で、駆け寄ってくる人影を見て、私は意識を手放した。