記憶の中の旅日記「草萌ゆる…」
種田山頭火の自由旋律俳句
草が咲いてゐる
やっぱり一人がよろしい雑草
やっぱり一人はさみしい枯草
それもよかろう
生きられるだけは生きようと草萌ゆる
最近しみじみ感じ入ってる俳句である。
草をひとつの生き物としてじっと静かに見つめている。
草が生えているのではなく咲いていると表現し、そのそれぞれの生き様を人生そのものと同化させ、晩年を花萌えのように草が萌えていると表現してるわけだ。
名もない生き物に耀きを授ける。
この俳句は、山頭火が熊本県五木村から宮崎県都城に向け放浪しているときに書いた謳らしい。
旅と放浪の違いは目的があるかないかなのだと思う。
その意味でいえば、芭蕉は旅で、山頭火は放浪だったわけだ。
「放浪」…
男にとってはなんとも魅惑的な響きだ。
だから山頭火はいまだに魅了されてやまないんじゃないか。
旅に生きた詩人俳人の系譜といえば、西行にはじまり芭蕉、蕪村、放哉、山頭火と続くわけだけれど、山頭火だけは、旅というよりは、得体のしれない業を背負ったような救いのない放浪のように思える。
まっすぐな道でさみしい
生死の中の雪ふりしきる
こほろぎに鳴かれてばかり
分け入つても分け入つても青い山
どうしようもないわたしが歩いてゐる
うしろすがたのしぐれてゆくか
これらの俳句を山頭火の心情を思い浮かべながら味わうと、いよいよ尋常ではない業を感じさせ胸に迫ってくる。
家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は砂漠である、と思わざるを得ない。
親は子の心を、子は親の心を理解しない。
夫は妻を、妻は夫を理解しない。
兄は弟を、弟は兄を、そして、姉は妹を、妹は姉を理解しない。
理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹が、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。
彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。
なぜなら理解は多くの場合において、融合を生まずして離反を生むからだ。
反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団、そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりなのだ。
山頭火『砕けた瓦』から
山頭火に言わせると、家族とは、血縁とは、理解しあうことを恐れて反き離れんとする心を、骨肉によって結んだ集団でしかないということなのか!
う~ん、なんという直球理論。
そんな風に思える時もないではないが、まあとりあえず聞き置くしかない箴言ではある。
そんなわけで、ただ呆然と秋の匂い漂う街なかを散策していた。
山口県防府市、山頭火の生まれ故郷である。
有名な防府天満宮に参拝し、山頭火の生家、記念館を訪れた。
老舗の造り酒屋だった種田家、しかし父親の代で倒産、それを苦にして父親は自死してしまう。
その影響で実生活の全てを崩壊させてしまった山頭火。
酒に溺れ何度も彼自身も自死を試みたらしい。
そんな逃避放浪の中で唯一語りかけ光明を与え彼の命をつなぎ止めた雑草たちの生き様。
あまりにも奥が深すぎて、簡単には腹に落ちなかったが、このフレーズだけは心に沁みた。
それも良かろう
生きられるだけは生きようと草萌ゆる
(山口県防府、萌秋)




