記憶の中の旅日記「究極の本能とは?」
「法律なんかで愛を裁けるはずがない。あなたは、死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか?」
これは、映画「愛の流刑地」の中のワンシーン。
豊川悦司演じる売れっ子小説家村尾が、長谷川京子演じる検事に裁判中言い返すように叫んだ言葉である。
愛、性、憎悪そして死、まさしく渡辺淳一作品の真骨頂なのであるが、この物語の始まりは京都駅のカフェから展開された。
文芸雑誌社の友人にファンだということで引き合わされた寺島しのぶ演じるヒロイン冬香と交わすさりげない会話。
窓から差し込む夕日に手をかざす冬香の仕草に、
「もしかして北陸のご出身ですか?」
「あっ、はい。富山ですけど」
「じゃあ、おわらを踊った事は?」
「少しだけ。八尾が近いものですから」
そんなたわいもない会話から始まるドロドロの官能ストーリーだった。
もう5年ほど前になるだろうか、広報という仕事柄毎朝7時に出社して全ての新聞に目を通していた。
自社にかかわる事件が起こってない限りなんともつまらないデイリーワークなのだが、唯一楽しみになっていたのが、日経新聞朝刊の連載小説に目を通すことだった。
その頃、この渡辺淳一の「愛の流刑地」が1年近く連載されていた。
確か、さらに十年ほど前は「失楽園」
この失楽園の頃は、まだ若かったのか、朝っぱらから読むような代物か?という感想だった。
ただ渡辺淳一の作品、学生時代に読んだ「リラ冷えの街」からは不思議な衝撃を受けていたので、この作家のことは少しだけ気になっていた。
月日は流れ、そんな懐かしい思い出も後押しし、今日は富山県庄川の上流、橋のたもとにある川金という旅館に宿泊、早めの夕食を取っていた。
この旅館は鮎料理専門の老舗である。
何本にしますか?と尋ねられ、周りの雰囲気に合わせ5本とお願いした。
囲炉裏に串刺しされた天然の鮎は富山の銘酒立山と相まってこんなにも美味いものなのかとしみじみ感激してしまった。
この天然鮎、川魚独特の臭みもなく、なぜこんなにも美味なんだろうとネットで調べたかったのだが残念ながら時間がない。
軽くひと風呂浴びると今夜の主目的に向けた待ち合わせ駐車場に急いだ。
旅館がセットしてくれたマイクロバスで20分、目的地八尾駅に到着、おわら風の盆満喫ナイトがスタートした。
風の盆は毎年9月の最初の週の夜に開催されることになっている。
提灯で飾り付けられ街全体がなんとも風流な情景にセットされている。
まさしく明治にタイムスリップした雰囲気になる。
日が落ち祭りが徐々に進行すると、至る所でいろんな型のおわら踊りが展開される。
物語の中盤、こんなやり取りがあった。
次作に行き詰まっていた小説家村尾が冬香を誘うように閃く。
貴女の指の動きに触発されました。
あの坂の途中のおわら節です。
赤い鼻緒は女、黒の草履は男、足音ひとつ立てずに、妖しく交錯します。
空に男の拳が突き上げられ、稲穂を投げ上げる仕草なのか、鶴のように一本足になって上体を反らせます。
その男踊りは勇壮で荒々しい。
それに比べて女踊りは優美ですよね。
深い編み笠に目の動きを隠した分、秘められた熱情は、もしかしたら男の愛なんて足もとにも及ばないのではないかと強く思わせてしまう。
そんな情景をモチーフにした恋愛小説を書こうと思ってます。
もちろん貴女の可憐なイメージを主人公にして。
冬香は深い喜びの笑みを浮かべ2人だけの時間に陶酔し、そして泥沼の愛憎劇に陥っていった。
提灯坂を登り切った階段下に陣取り男女ペアになる踊りを観覧した。
その優美さ妖しさは、まさしくその通りの踊りだなと感嘆した。
男の猛々しさと女のどことなく本心を見せないよそよそしさ。
これが、これこそがまさに男と女の本性なのか?
「愛してくれているのなら私を殺せるでしょ?」
そんな冬香の切ないため息にも似た囁きが耳元で蘇った。
村尾は結局嘱託殺人罪で懲役8年を求刑される。
冬香が命をかけてまで求めた結実は、村尾が8年間愛という名の美化された流刑地に拘束され、欲望を管理され、男としての最終章をそこで送らせるという究極の独占欲だったことに、出会った日にサインしてあげた本に、隠すように挟んであった小さな置き手紙で気付かされる。
手紙の書き出しには、
貴方はこの手紙を何処で読んでくれているのでしょうね? と綴られている。
村尾は苦笑いする。
「そうか、やっぱり俺は選ばれた殺人者だったんだ」
「わかったよ、だったらその刑を喜んで受け入れることにするよ」
帰りのマイクロバスで、そんな物語のラストシーンを思い出していた。
渡辺淳一はこの風の盆から何を感じ取ったのだろうか?
祭りの情景を物語として具現化することで、その秘められた心象をどのように結びつけ、読み手に何を伝えたかったのだろう?
いつものように、医学者目線で、人間も所詮動物、雄と雌なのだということなのか?
いや違うな。
彼の、科学者、文学者としての視点が交錯し、男と女が織りなすその本能(愛憎)の揺らめきこそが人間の持つ、人間のみに付与された究極美なのだと感じとっていたのだろう。
風の盆という祭りを直に体感できたことにより、なんとなくではあるが、そんな作者の意図を感じ取ることができた。
ほどなく旅館に到着。
取り急ぎ冷蔵庫からビールを取り出した。
さて、そういえば鮎の疑問点が腑に落ちていない。
携帯パソコンを立ち上げネット検索を始める。
なるほどなるほど。
生まれた当初は海の傍に住んでいるが、美味い苔を食べる為に上流を目指しているのか。
しかしなぜそこまでして美味しい苔を食べたいのだろうか?
まあ、おそらく良質な子孫繁栄の為の本能(遺伝子継承)がそうさせているのだろうな。
目をギラつかせ、解禁を待ちわびているツリキチ君達が舌なめずりで渓流待機しているのも知らないで。
清流の中をひたすら泳ぐ若鮎の映像を見ていると舌の根元で夕食の美味が蘇ってくる。
明日は車を飛ばし世界遺産五箇山合掌造りを観に行く予定。
ココよりさらに上流だし、もっと美味な若鮎を堪能できるのだろう。
早々とランチメニューは決定。
フムフム。
人間も動物も魚も虫も、生き物は全て本能で生きている。
つまり、だから、愛憎、遺伝子継承、そしてこの美食欲求もまた本能(煩悩)の成せる技なのだ、ということにしておこう。
(富山・おわら、残暑)




