記憶の中の旅日記「戦国ナンバーワン武将」
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」
国全体が城であり、人の和こそ、山河の険しさに匹敵する。
山梨県は甲斐の国、武田信玄の国である。
有名大名が群雄割拠した時代。
そんな中、著名な歴史家たちのほぼ一定した武将ナンバーワン評価はこの信玄。
彼のポリシーはまさにこの名言に尽きるのだ。
現在大河ドラマで風林火山が進行中。
軍師山本勘助が主人公なのであるが、信玄の戦勝も彼なくしてはあり得なかっただろう。
勘助の軍師としてスゴいところは、戦略作戦を立て、そして率先して自分がその先頭にしかも1番危険な場所に立つ姿勢。
「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」
おそらく孫子の兵法から学んだ言葉であろうが、なぜ勘助の行動にこんなに感銘するかというと、リアル社会における経営トップの側近達は、いわゆる虎の威を借る狐が多すぎるからなのだ。
むむっ、こんなところでリアルな嘆き??
いかんいかん、本音を愚痴ってしまった。
さてさてではでは話を戻そう。
武田信玄の伝説的戦いは上杉謙信との長年にわたる川中島の合戦。
この戦いの中で生まれたのが・・・ [敵に塩を送る] この言葉は通常、困っている相手に救いの手を差し伸べるという意味につかわれるが、それは戦国時代のこんな逸話による。
戦国時代中期、上杉謙信と武田信玄が争っていたことは有名だが、ある時武田信玄は、織田信長に破れ勢力の衰えた今川領駿河に侵攻し始めた。
追い込まれた今川は、隣国の小田原・北条氏康に助けを求める。
北条氏康はこれに応じ作戦を練る。
山に囲まれ海の無い甲斐の弱点は塩の流通をストップさせるという作戦。
この策は見事に功を奏し、甲斐には一切塩が流通しなくなってしまった。
その後1年半もの長きに渡り、甲斐には塩が入ってこなかった。
領民には伝染病が蔓延、死亡する者が続出する。
焦りを感じた信玄は、やむなく積年のライバル・上杉謙信の領国、越後から塩を買い付けるよう家臣に命じる。しかしそうと知った北条氏康は、先手を打って謙信に「塩止め作戦」への協力を依頼する使者を送るわけだ。
謙信は激怒し、使者を追い返し、すぐさま書状を信玄宛にしたため、商人に塩を甲斐の国に売ってくるよう命じたのだ。
「北条・今川の謀略により、甲斐の領民はたいそう困っているであろう。領民には何の罪も無い。我らは武士の面目のため、家名の存続のために日々領土争いを繰り返してはいるが、これを領民の日々の生活を冒すまでの愚略をもってしてまで争うものではない。もし貴殿が私の考えを甘いと思うなら、いつでも越後まで攻めて来い。そのときは我ら上杉家の弓矢を持って迎えようではないか」
この書面と大量の塩を受け取った武田信玄は、ただただ涙を流したという。
後に信玄は嫡子・勝頼に「もし武田家が滅亡に瀕したら、迷わず越後の上杉謙信を頼りなさい。北条などは信用するに値しない。謙信ならば誠心誠意、嘆願すれば必ず味方してくれるだろう」と遺言した。
あっぱれだね。
ところでそういえば上杉謙信は女性だったという説があるらしい。
理由は死因が更年期障害による脳梗塞。
毎月10日前後は腹痛により戦いを中断していたから・・・らしいのだが、まあそれも極端な推測だけど面白い仮説ではあるね。
信玄の旗印はあの有名な風林火山。
日本人って、特に男達はこの戦国歴史モノがなんでこんなに好きなんだろう?
胸に手を当てて自分の生き方を反省するわけでもないのだが、名言に振れるとなぜか賢くなったような気持ちになる。
言動不一致、有言不実行、朝令暮改、拱手傍観、唯々諾々、軽挙妄動。
日々の生活があまりにもこんな調子だから、風林火山と聞くとドキッと心に染みてしまう。
とはいえ残念なことに寝ると忘れてしまうのではあるが。
とまぁそんなわけで、久しぶりの石和温泉。
バブル期はいわゆるソッチ系の盛んな温泉街だったんだよなぁ。
サクラはほぼ満開だったが、街の賑わいも湯の温度もやや低調だった!
これじゃ信玄の疲れも癒やせない。
相当古い温泉なのでそろそろ源泉切れなのかな??
仕方ない、今夜は林と山はバッグにしまい込み、風の如く、火の如く、ちょっくら寂れたネオン街を攻めに行って来ようかな。
(山梨・甲府石和、春)




