暗闇から
これは私が大学に入ってすぐの頃のお話しだ。
私は当時引越しのアルバイトをしていて、色んなマンションやアパートに行く事が多くて。
荷物を運び出す際に住人と鉢合わせることもよくあった。
その中で奇妙な出来事と共に関わってしまった男の子が居た。
引越し作業中に出会ったシングルマザーの、まだ若い奥さんと男の子と女の子。
女の子の方がお姉さんで、ぐずる弟の手を引くしっかり者だ。
母親もバタバタしながらも「お疲れ様です」とすれ違ったら挨拶をしてくれる人で、その日の仕事はとてもやりやすかったと行って良い。
4階建てのハイツの3階、間取りは2DKでお客様の荷物を運び出しながら微かに聞こえる物音に首を傾げていた。
しかしこちらの荷物を運び出す音の方がうるさいはずだし、もしかしたら苦情でも来るのかと荷物を持って玄関を潜ると、本当に目の前に男の子がスケッチブックを抱いて座り込んで居たので思わずびっくりして荷物を落っことしそうになる。
トラックまで荷物を運び戻ると、まだ男の子はそこに座り込んで居たので「大丈夫?」と声を掛けるが返事は無い。
隣はシングルマザーのこの子の家だし、もしかしたらイタズラでもして追い出されてしまったかなと不憫に思ってトラックにある自分の荷物からおやつとして持って来ていたビスケットの袋を取って戻った。
「はい、今日も暑いしちゃんと水分取って食べときな」
「……」
一瞬パッと表情が華やいだけれど、スグに首を振る。
けど私は仕事に戻りたい気持ちもあったがそのまま見捨てるつもりも無かった。
母親とは今日の間で何度も挨拶を交わしたし、何よりその子は何となく良い子だろうと思ったから。
押し付けがましいかもしれないが、廊下の端に移動させてビスケットの袋をしっかりと両手に握らせる。
「暇だったら私達のお仕事、ここから見学しときな。
面白くなかったらお家に帰る。ね?」
「……」
じっと私を見ると、しばらくしてから「ありがとう」と呟いて頷く。
うんと私も頷いて返して仕事を再開した。
多分、そこまでは普通だったと思う。
けど何となく、家の中での物音が増えて来て一緒に荷物を出している作業員も不思議に思う様になって来た。
更には引越し作業をしている部屋の住人までもが物音に気付き始めて、作業も一段落付いたので水分補給の為に1度外に出た時、まだ男の子が居るので私はふと問い掛けたのだ。
「ねえ。お母さんとお姉さんはお家に居るの?」
「居ないよ。僕1人」
「え?」
周りで聞いていた作業員2人とお客様が顔を合わせる。
1人の作業員がお客様に断って部屋に入って、ちょうど部屋と部屋の境目にある押し入れを覗く。
すっかり荷物も無くなって、壁だけのそこに耳を当てるけれど特に何も聞こえないらしい。
首を振っていたのでやはり私達の勘違いだったかと男の子に視線を向けると、じっとコンクリート造りの廊下を見て小さく呟いた。
「良いよ。別に。」
「え?」
「いつもの事だから、大丈夫だもん」
それは1人で家に居るのが、だろうか。
作業員の1人が男の子にカルピスを買って来てやって、私達はモヤモヤしたものが残りながらも作業を再開する事にした。
けれど、私にはまだ隣の部屋からの音がやっぱり聞こえていて、他の人は聞こえてない様だった。
まるでフォーク同士をぶつける様な甲高い音。
でも人は居ない、何故?
その疑問は私が残り少ない荷物を運び出している時に解決された。
部屋の中にはあとお客様が持ち運ぶ荷物のみとなり、車まで運ぼうと私が紙袋を持って階段を降りている時。
男の子がすごい早さで私の隣を駆け抜けて行った。
「危ないよ!」
そう声をかけたけれど、さっきまで男の子が居た場所に黒い影が見えて。
視界の端で捉えたそれが何か分からなくてそちらを向くと…真っ黒に顔が潰れた何かが、三本の細長いナイフのような物を手のひらから出して、暗闇から消えて行く所だった。
驚きで思わず叫びそうになったけれど、階段を急いで走り逃げる男の子が怪我をするかもしれない。
そう思ったら私も走っていた。
その奇妙で恐ろしいモノは何があってあそこに居たのかとか、もしかして幽霊かもしれないとかそう言うのはその時どうでも良かった。
男の子が危ないかもしれない。
もつれそうになる足を必死に動かして、もうまどろっこしくて数段上からジャンプして飛び降りた。
一気に男の子に近付いて「ねえ見た!?」と叫ぶと、ハッとして男の子の方もコクコク頷くので、やはり見間違いじゃ無かったんだと確信を持った。
あと1階分階段を降りれば目の前にはトラックが止まっているはずだ。
せめて男の子の方を先に立たせて逃げて貰えばと先を促そうとすると、2階の踊り場の中央。
階段の手すりから黒い空間がぽっかりと現れた。
唖然としている間にとろりとその場に現れた手から細長いナイフのような物が男の子に向かう。
何これと真正面で見ると脳が検索を拒否しているみたいで何とも言えなくて、考えが停止してしまいそうになる。
だから歯を食いしばって右足を振り上げると回し蹴りの要領でナイフ三本を真横から上に押し上げた。
「相手絶対間違ってる!」
この子は何もしてないはず。
私は勝手にそう決めつけて叫んだ。
黒い穴はまた静かにとろりと姿を隠して行く。
顔の潰れたモノからは何も読み取れない。
でも退けられたと思った。
男の子は階段の踊り場、私とは反対方向で意識を失っていてトラックに聞こえるくらい大きな声で人を呼ぶとスグに救急車が呼ばれて、あの件もすっかり忘れてしまっていた。
ふと思い出して考えてみると、男の子はいつもの事だから大丈夫と言った。
それが意味する所とは、家にはアレが常に居たと言う事だろうか?
意識を失って家に戻った時。
彼は救われて居たのだろうか?
何ヶ月も経ってから思い出すものじゃないなと胸糞悪い気持ちのまま、私は静かに首を振った。