公子曹植の恋
この話の中に「しんふく」と言うヒロインが出てくるのですが、「ふく」と言う字が変換出来ませんでした。お許し下さい。
2月の下旬『旧暦』、桐壺帝の桜の宴があった。
頭の中将が「洛心譜」と言う漢詩の朗詠を終えた時、侍従が「春宮さまが、おみえになりました」と奏上し、人々はざわめいた。
「春宮は不例『高貴な人の病臥のこと』」と毎回、なっていたからである。
春宮は右手に杖をつき、左を一条に助けてもらいながら、ゆっくり入って来た。祖父の帝の形見の白銀の地に御所車の模様の上着であった。
一条も、古い晴着を春宮に借りていた。古風な地味なものだった。
そして、人々の目をひいたのは、紫の晴着の朧月夜であった。どこの姫君なのだろう、と人々はざわめいた。
朧月夜は堂々と名乗った。
「陛下、右大臣家の六の君、朧月夜にございます。いく久しう、よろしう」
そして、母后と右大臣もいた。
桐壺帝と源氏の君の顔色は変わった。もちろん、朧月夜のようないい女を春宮が得たことを不快に思ったからである。
しかし、春宮は帝に次ぐ地位なので、出席した以上、無視することは出来なかった。
「お酒『おささ』を」
女官の一人が琉球の豪華な茶碗に清酒を入れて、持って来たが、春宮は「まがり『木製の茶碗』に、お水を入れてやり直しなさい」と厳かに言い渡した。
春宮と父帝は仲悪かったが、親子だったので、春宮は女官が父帝の召人『実事専門の召使い』だと、すぐ見抜いた。
それで、声に怒気がこもった。
例えば、桐壺帝の弟で、春宮の次に高い地位の親王桃園式部卿宮は、春宮のことを「古風な礼儀作法を守っていらっしゃる。意外と英主になられるかも知れぬ」と、お思いになられた。(豪華な茶碗は母后がいただかれた。)
桐壺帝の両脇には、藤壺の宮と源氏の君がいた。源氏の君は如才なく言った。
「兄上さまをことほぐため、『春』の題で朗詠をいたします」
そして、源氏の君は春の題の漢詩を朗詠し、春宮は無感情な表情で、それを聞いていた。父帝は大いに満足していた。
「文章『もんじょう』は経国の大業、不朽の盛事『せいじ』。震旦の言葉じゃ。知っておるか?」
「もちろん、知っております」
「そなたは最近、何を読んでおる?」
「小説を読んでおります」
ワーハハハ、と父帝は笑った。
「白痴におはしますそなたは、やはりこのような晴れの場に出て来るべきではなかった。どんな話があった?」
母后は不安げな顔をしたが、春宮は「朗詠ばかりでは飽きてしまいましょう。我が語りましょう」と平然と言った。
皇国『すめらみくに』が、まだ邪馬台国と呼ばれ、卑弥呼女王が治めていた頃の話にございます。その頃の震旦には、魏と言う王国がございました。
魏王国の初代は武帝曹操、二代は文帝曹丕でございました。ある時、二人は北方のまつろわぬもの、袁紹を討ち取ったのでございます。戦が終わった時、曹丕は袁紹の宮殿に入られました。袁紹の息子、袁煕の妻、甄ふく『しんふく』が美女だったので、乱取りしたのでございます。武帝は「息子の妻を得るため戦をしたようなものじゃ」と仰せになったとのこと。しかし、甄ふくは夫や舅を討ち取った曹丕に心を開きませんでした。
さて、その武帝には文帝の他に、曹植と言う弟がございました。おもうさんと、我と、源氏の君のように、弟の曹植は顔も美麗で、詩才にも恵まれ、父帝の寵愛を受けていたのです。その公子曹植と甄ふくは偶然出逢い、道ならぬ恋に落ちたのです。本朝と違って、震旦は戦が多い。武帝と文帝はしょっちゅう都を空け、公子曹植と甄ふくは逢瀬を重ね、熱烈な恋文や詩をものしたのでございます。そして、甄ふくは身ごもられました。文帝はおのが子ではないことは、お気づきになられたでしょう。しかし、武帝がご健在の時は手出し出来ませんでした。後に明帝となる曹叡が生まれました。
そして、武帝が崩御した後、曹丕は毒牙をむき出しにしたのでございます。
曹丕はまず、甄ふくを処刑しました。また、その亡骸の髪をかき乱し、口にぬかを詰め込んだと申します。
そして、曹丕はいよいよ曹植を亡き者にしようとなされました。
曹植の詩は本人の作ではないのだろうと責め、七歩のうちに詩を作れなければ殺すと狭ったのです。
しかし、曹植はたちどころに詩を作りました。
豆を煮てもってあつものと作し『なし』
しを漉して以って汁と為す
まめがらは釜下に在りて燃え
豆は釜中に在りて泣く
本同根より生ずるに
相煎ること何ぞはなはだ急なる
(豆を煮て、あつものを作る。豆で作った調味料で味を調える。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く。豆も豆がらも同じ根から育ったものなのに、豆がらは豆を煮るのにどうしてそんなに激しく煮るのか?)
その詩は、兄帝を批判する内容だったので、曹植は斬られそうになりました。しかし、そこに卞『べん』皇太后が『弟を殺そうとするのか?』と止めに参ったため、曹植は罪一等を減じられ、辺境の地に島流しになったのです。
そこまで話してから、春宮は頭の中将をご覧になった。「その時に作ったのが、そなた様が朗詠していた『洛神譜』じゃ」
頭の中将は驚きでビクンと震えた。源氏の君は何故か、青ざめて震えていた。そして、藤壺の宮の頬には、幾筋もの涙が流れ、口を開いていらした。
「くだらぬ!!拙劣な小説じゃ!!」
と桐壺帝は吐き捨てたが、人々は春宮の才気に驚いていた。小説とは、なかなか面白きものじゃ。これが春宮さまの御代の新儀なのかも知れぬ。
春宮は杖をついて、立ち上がった。
「不慣れな宴に参加して、いささか疲れました。お暇いたします。別れのお名残に父上さまに賀の歌を捧げます」
「そのようなもの欲しくない」
しかし、かまわず春宮は歌った。
「桜花散りかいくもれ」
「愚か者!!場所をわきまえよ!!」
父帝の怒号が響きわたったが、春宮は歌いきった。
「桜花散りかいくもれ老いらくの来むと言ふなる道まがふがに」(桜花よ、散ってしまえ、そして、辺りをかきくもらせよ、おもうさんのところにやって来る『老い』と言うものの道が分からなくなってしまうように。)
ワッと万座がわいた。当時の人々は機知、才気を好んだ。そのため、その夜の主役は、「小説」と「賀の歌」を披露した春宮と定まった。
(やはり、英主とならせられる。)
桃園の式部卿宮はお思いになられた。
去り際に春宮は振り向きもせず、仰せになった。
「おもうさん、『文章は経国の大業、不朽の盛事』と言うのは、文帝曹丕が『典論』に書かれたお言葉にございます。引用するなら、文章博士にでも、お聞きになることです」
人々はどよめいていた。
その翌日には、宴に出られぬ下級の役人の間でも、噂が広がっていた。
意外と豪儀な御気性。平城帝の陛下のような剛胆な帝になられるかも知れぬ。
「道まがふ」と歌っても、老いはやって来るのだもの。早く引退なされと暗に言い渡されたのじゃ。