お膳
一条と言う女房に先導され、朧月夜の君は入って来た。春宮と頭の中将は息をのんだ。春宮は今まで、一番美しい女性は藤壺の宮と思って来たが、朧月夜の君は勝るとも劣らぬ美しさだった。女性としては体の大きい母后(姉)に比べると、体は小柄だったが、可愛らしさの中に、ちょっと小悪魔的なところ、コケティッシュな妖艶さがあった。
朧月夜は殊勝げに春宮に平伏した。
「右大臣の娘の朧月夜にございます」
春宮はどぎまぎして、何を仰せになったら良いか、分からなかった。
朧月夜は母后と似て、物おじしない、勝ち気な娘だった。
「春宮さまは普段は何をなさっているのですか?」
「小説を読んでおります」
母后は顔をしかめた。当時は良い趣味とされていなかったからである。しかし、朧月夜は意外な答えを返した。
「私は『捜神記』と言うのを読んだことがあります。面白うございました」
春宮の顔はパッと喜びに輝いた。
「あれは漢王国か、三国時代の古い小説ですが、小説のイロハのつまった、とても良い作品です。今の時代の震旦では『唐宋伝奇』と言うものが流行っているのです。貸して進ぜましょう」
朧月夜は、鷹揚に頭を下げてから、また質問した。
「殿下はお召し上がりものでは何がお好きですか?」
「我は体が弱い故、食が一番養生での、薬膳を勉強して、白飯をたくさんたべため玉子も入れた雑炊にし、お魚も必ず食べるようにいたしております。果物も。旬のものを」
「からくだものをよく召し上がっていると、おうかがいいたしましたが」
「ええ、よくいただいております」
ちょうど一条が、一番立派な菓子皿にからくだものを盛って差し出した。他の女房も茶を運んできた。
一条がよく心得ていて、一番良い白天目の茶碗を朧月夜に出した。
朧月夜はひと息に茶を喫すると、春宮の部屋を見渡した。
「春宮さまは、無欲なお方とうかがっていたのですが、良い品がいろいろございますね」
「分かりますか」
「はい、分かります」
春宮の祖父、桐壺帝の父に当たる帝の宝物のほとんどは春宮が相続していた。(桐壺帝が新しいもの好きで、祖父の帝の品に関心を示さなかったのもある。)
桐壺帝、春宮、藤壺の宮、源氏の君の中で春宮と藤壺の宮は、あまり予算を使わず、質素に暮らしていた。
秘訣は先祖からもらったものの範囲で暮らすことだった。
母后は着道楽だったが、祖父の帝の残したものは着きれないほどあった。
春宮は食はこだわっていたが、一人の食べる量などたかが知れている。
何より大きいのは春宮は外出なさらないことだった。高貴など人が外出するのには、多くの供が必要だったが、春宮はほとんど出かけられなかった。
そういう意味では、一番浪費をしているのは源氏の君だった。
「春宮さまは儒の教えで、心がけていらっしゃることはございますか?」
女子『おなご』の言葉にしては、硬い感じもするが、皇后として政務をとるには、学識も必要なので、そんなに変な質問とは、思われなかった。
「おお、ございます。『食〘し〙はしいらげたるをいとわず、膾は細きをいとわず』と言うところです」
母后と右大臣は困ったような顔をした。めったに言及されるところではないが、「論語」の中の食事の作法を定めたところ。食は精米された白飯を好み、肉料理は細かく刻んだものを好み、食べ物の色や匂いがおかしいものは食べず、上手に調理されていないものや旬でないものは食べず、汁もの無しでは食べない・・・と言うところだった。
朧月夜は噴き出すのをこらえようとして、扇で顔を隠したが、こらえきれず、「アハハ」と声をあげて笑った。
「春宮さまは気難しい方かと思っていましたが、面白い方なのですね」
春宮はニコニコしていた。母后と右大臣はホッとした。
ちょうど、その時、一条が、「御膳の用意が出来ました」と参上した。母后は食膳を運ぶよう命じられた。
そして、春宮、朧月夜、母后、右大臣、頭の中将の前に食膳が運ばれた。
当時は3つのお膳があり、一つに大量の白飯と調味料。二の膳はあつもの(お吸い物)とおかず、三の膳はおかず、果物、からくだもの『菓子』と言う形式が多かった。
だが、春宮のお膳は少し変わっていた。一の膳のご飯は同じだが、調味料は無し。二の膳のおかずが多かった。焼き魚二品。うなぎの白焼きと、鮭の切り身。(この頃はかば焼きのタレはまだ発明されていなかった。)黄色い玉子焼き。鶏肉だろうか、焼き鳥。つくし、わらび、ぜんまい、筍などを炊いたもの。大根、ごぼう、蕪などの煮付け。野菜は当時、下品なものとされていたので、朧月夜はちょっと戸惑った。
そこに春宮は助け舟を出した。
「野菜は下品なものと言うのは迷信じゃ。我は震旦の食養生を勉強している故、よくいただいておる」
朧月夜は少し納得した顔を見せた。そこに一条が、小さいお膳に乗せたお茶碗を差し出した。
「あの・・・失礼ではございますが・・・これは見慣れないものかと存じますが、御所さま(春宮のこと)が食養生で、毎日、召し上がっているものにございます」
白と茶の濁った汁もの。澄んだあつものとはちょっと違ったものだった。
「これはの、あつものに貴重な味噌を入れたものじゃ」
朧月夜は驚いた。
当時は味噌やしょうゆはまだ大量生産されておらず、貴重なものだった。
源氏の君は春宮について、「質素に暮らしていると言うが、食道楽に金をかけている」と、そしっていた。
また、源氏の君も、時には春宮御所に参上し、春宮も食事をふるまったことがあるが、おみそ汁を出したら、「こんな気持ち悪いものが飲めるか!!」と下げさせ、普通のあつものをいただいていた。
また、その日の食事会も母后、右大臣、頭の中将はあつものをいただいていた。しかし、春宮は、ご飯をザッザッザッとおみそ汁に入れて、雑炊にしていた。
「ならば、私もいただきましょう」
「よろしゅうございました。私もいただいているのでございますよ」と一条は申した。
三つ目のお膳はやや小さく、みかんの類、りんご、干したぶどうや栗。からくだもの。餅菓子が盛ってあった。
そして、全員に(やはり当時は貴重であった)茶がやきものの茶碗に入れて出してあった。そして、春宮はやや大きいまがり『木製茶碗』に水を入れていた。
母后、頭の中将、右大臣は酒をいただいていた。
「春宮さまは、お酒は召しあがらないのですか?」
「うむ。あまり好きではない。儀式の時は一杯だけいただくが・・・」
「御所さまは、漢方の薬をいただいております。それ故、御酒『ごしゅ』は控えていらっしゃるのです」
朧月夜は春宮のことを、よく知っている一条を少し意識し始めた。
「そなたはお酒は?」
「いただきます」
「一番良いものを出してやりなさい」
「はい」
一条が立った。この時代、お酒も清酒は珍しく、母后、右大臣、頭の中将、朧月夜、(そして源氏の君や父帝も)たちは普段はいわゆる「どぶろく」を飲んでいた。
春宮は茶とお水を飲んでいた。
宴はお酒も入り、雰囲気がほぐれてきた。朧月夜は頭の中将から、源氏の君と葵の上の不仲の話を聞いていた。
不仲は、当時の社交界では、もう常識で、朧月夜は細かい、確かな情報を聞きたがった。
春宮は朧月夜に出逢えたことを喜びつつ、着実にお膳をいただいていた。
朧月夜は源氏の君の物語が終わるまで元気に生きていた壮健な女子『おなご』だったが、ご飯とおかずの二の膳まで食べると、流石に満腹になってしまわれた。
「三の膳を包んでさしあげよ」
春宮がお命じになられると、一条が朧月夜の三の膳をわりご『木製の弁当箱』に果物や餅を詰め、からくだものは清潔な布で包んだ。
「おひいさん(お姫さま)のような、やんごとない方には、からくだものも、お珍しくないかもしれませぬが、御所さまの職人は、また格別の腕前でございます」
朧月夜は、少なからず、多分にわがままな所があり、女中頭とはいえ、春宮と距離の近い一条を、少しうっとうしく思し召された。
一方、春宮は少し迂闊だったと思っていた。母后や、祖父右大臣がまともな姫を連れてくると思っていなかったので、まともな贈り物を用意していなかった。
「おひいさん、その白天目の茶碗と!飛騨の職人の作ったまがりを差し上げましょう」
「ありがとうございます。今後。御所に参上した時に使わせていただきます。くりやに預けておいて下さいまし」
「うむ・・・」
貴人の贈り物としては身につけているものを贈ることが出来たが、朧月夜も身分が高かったので、(身につけたものを贈るのは)図々しい気がして、やめておいた。
「後日、何かを差し上げましょう」
「ありがとうございます」
朧月夜、母后、右大臣は一緒に帰り、頭の中将も帰って行った。「超一流の女性ですな」と頭の中将は感じいっていた。
皆が帰った後、春宮は一条にお尋ねになられた。
「祖父の帝や先代(の帝)さまから相続した宝物『ほうもつ』の中に女装束もたくさんあったと思う。それを一つ差し上げようと思うが」
「良くないと思います」
「何故?」
一条はピシャリと言い、春宮は驚いた。
「私は、おひいさんに初めて出会ったのですし、身分も違うので、おこがましいかもしれませぬ。しかし、女子『おなご』は、過去の偉大な皇后さまの由緒正しい品などと言うものを好みませぬ」
「ならば、どうしたら良いであろうか?」
「藤壺の宮さまや、源氏の君さまのところに出入りしている流行の職人に新しいお召し物を作らせるのが、一番良いと思います」
春宮は、その言葉に従い、後日、朧月夜に晴着の生地を選ばせた。そして、紫の地に金糸で鳥や蝶が刺繍してあるものを朧月夜は選んだ。
「この晴着を皆に見せとうございます」
「皆に?」
「父帝さまの桜の御宴がございますとか。一緒におうかがいいたしましょう」
「おお・・・」
春宮と父帝の間の冷戦は長く、春宮は父帝の私的な行事には長く参加していなかった。
(しかし、御代がわりが近い。参加する頃合いかも知れぬ。)
春宮は決断した。