時代は変わる
当今と秋好『あきこのむ』中宮は、5月5日、7月7日、9月9日の節句も、つつがなく、行った。
ところが、10月(今の12月ぐらい)から、都に少し影が迫って来ていた。
悪疫が流行ってきたのである。
もとから、震旦から漢方薬を輸入していた本院だったが、公務、神事をだいぶ当今と秋好中宮に任せられるようになり、薬種を多く調合し、まず当今一家、本院の一家、源氏の君の一家、そして中納言一家の薬を調合なさった。
しかし、中納言の表情はうかなかった。
「父、摂政は、最近は寝たり、起きたりしています。年も年ですし」
本院の漢方薬は体を元気にするもので、病そのものを治すものではなかった。
次に朝顔の姫君にも薬を贈ったが、桃園式部卿宮も寝たり起きたりらしかった。
しかし、何より本院の心を痛めたのは、貧しい民が多く亡くなったことだった。年末年始も、どこか不穏な空気が流れていた。
そして、松の内が明けた頃、摂政と桃園式部卿宮が続けて薨去した。『現代でも冬と夏の後が老人には一番危ない。』
大官中の大官であり、本院と当今は出席出来ないが、盛大に葬儀が営まれた。
家族が亡くなると斎院は、引退しないといけなく、朝顔の姫宮は引退した。
当今は本院にお尋ねになられた。
「摂政がおかくれになったと言うことは、源氏の君を摂政か関白、太政大臣につけないといけないのでしょうか?」
「順番で言うと、そうですが、当今も十分、大人になられていますし、一年の喪が明けるまで人事は動かさなくて良いでしょう」
と本院は仰せになった。
本院と当今は念持仏に摂政と桃園式部卿宮の往生を祈った。
だが、そのすぐ後、当今には、とても大きい苦しみがやってきた。
薄雲女院が悪疫で倒れられたのである。
当今は公務、神事どころではなく、念持仏に必死に祈っていた。
しかし、3月ごろ、女院は危篤に陥り、本院は太上天皇と言う身分だったので、少し御所を離れられ、母后、一条、彩子、源氏女御、髭黒を連れ、三条の宮『女院の御所』に行幸なさった。
その時、小康状態だったのか、薄雲女院はやつれてはいらしたが、優美さ、高雅さはその身に留まっていた。
薄雲女院は側近の王命婦に助けられ、半身を起こした。
「本院さま、畏れ多いことです。私はもうすぐ旅立ちます」
「そのようなことを仰せになってはなりませぬ。お薬をお召し上がりなさいまし」
「いいえ。それゆえ、私の遺言をお聞き下さい・・・」
「そのような・・・」
「私と当今はつみケガレが多く、少しでも罪障を軽くするため、落飾いたしました。そのような私を慈悲と寛大の御心であつかって下さったこと、感謝しかございません」
「・・・」
「私と当今のため、本院さまと太后さまはお苦しみが多かったと思います・・・」
「そのようなことはございません・・・」
「私と当今は・・・」
「仰せになってはなりませぬ。御約束したではございませぬか」
「私は・・・もうすぐ滅びますが・・・当今に罪障が及ぶことが心配です・・・」
「罪障などございませぬ・・・」
「当今は、みなしごになってしまいます。どうか、本院さまと秋好中宮で助けてやって下さいまし・・・」
「・・。」
「彩子さま、春宮がご元服なさったら、すぐ当今を解放してやって下さい・・・」
「・・・」
「一条さま、あなたは優しい方でした。ありがとう・・・」
「女院さま、お気を強くお持ち下さい!!」
「あーね!!」
と源氏女御が叫んだ。そうだ、女御は妹なのに、ほとんどめんどうをみてこなかった。何と罪深い。女院はそう思し召された。
しかし、源氏女御は女院に仏画をお見せした。御仏が地上にやっていらっしゃる来迎図であった。おお、女御は私を助けるためと思って、お描きになられたのかも知れないが、私はこの御仏にすがって旅立とう。
女院は合掌して、涙を流した。
数日後、薄雲女院は崩御なされた。
桐壺帝の崩御以来、九年ぶりの諒闇の年(帝の親が崩御した年)であった。大人びて賢いとは言っても、当今は現代で言うと、中学生ぐらい。
打ちひしがれて、泣き伏していた。
女院の大喪の礼は、ほとんど本院一家が仕切って行った。
火葬の刻限には本院と当今の一家が集まって、念持仏に祈りを捧げた。
しかし、その夜、本院が、いつか来ることを恐れていた、しかし、覚悟していた運命の時がやって来た。
おはようございます。原作に沿って、進んでいるので、薄雲女院(藤壺の宮)、摂政、桃園式部卿宮が、この回で、退場しました。原作ファンの方なら、この辺りが最大のクライマックスの一つとご存知でしょうので、いい加減には、書けないのですが、もし可能なら、夕方ごろ、次のところを出したいです。よろしくお願いします。




