車争い
4月、今でもある祭りだが、賀茂祭『葵祭』があった。
当時は皇族の女性が賀茂神社と伊勢神宮にお仕えし、前者は斎院、後者は斎宮と呼ばれた。
斎院、斎宮は政治的発言力も大きく、財力もあった。
御代がわりに合わせて、新帝の妹が新しい斎院となることになった。
そして、斎院が御社『みやしろ』に入る時の行列を源氏の君『右大将』が仕切ることになった。
新帝は私宴などはあまりしなかったが、神社仏閣の大きい祭事の時も人々に禄を配り、盛大に行わせた。
その日は、ふつうの給料日『十五日』でもあり、人々は賀茂祭の行列を見物に出かけた。
そして、その見物人の中には三人の貴婦人がいた。
一人は新帝の従妹でもある朝顔の姫宮だった。父の桃園式部卿宮と、豪華な牛車ではないが、上等な牛車に乗り、良い位置でご覧になっていた。
すると、少し離れた、しかし、やはり良い場所に、一見みすぼらしい牛車が停まった。そして、おつきの者も質素に装っていたが、朝顔の姫宮はお気づきになられた。
六条御息所さまじゃ。
朝顔は、上手ではないが、挨拶の歌を詠み、御息所に贈った。御息所からも、上品な返歌が来た。『下人が走ってやり取りする。)
ところが、その時、運命の転輪が残酷な矢を射かけて来た。
葵の上の牛車が来たのである。
葵の上の左大臣家は、右大臣家のかげに隠れていたが、桐壺帝の妹の大宮を北政所に迎え、けっこう横暴に暮らしていた。
また、葵の上本人もけっこう、気が強く、六条御息所を一番敵視していた。葵の上の下人は六条御息所の下人に気づいて、わざとみすぼらしい牛車を遮るように、三台の牛車を停めた。その上、多勢に無勢、葵の上の下人は、御息所の下人に喧嘩をふっかけた。禄にもらったどぶろくを飲み過ぎていたのである。
朝顔の姫宮は顔色を変え、おのれの下人を止めに走らせたが、間に合わなかった。葵の上の下人は御息所の車のしじ『牛車を停める道具』を壊し、御息所の車はガクッと崩れ落ちた。
もはや、御息所の下人は本丸の車を囲んで、必死に守っていた。
民衆は善でもあり、悪でもあり、ワハハ、身分の高い人が喧嘩したはるは、おもろ、と思っていた。そして、騒ぎ立てていた。
そして、そこに源氏の君『右大将』が馬に乗り、通りかかった。源氏の君は今様の派手な衣装。また、源氏の君は見栄っ張りで、顔の整った若者を華美に着飾らせ、供としていた。(父院にも、そういう所があった。顔は良くなくても、実力のある者は新帝に仕えていた。)
源氏の君は、まず、身分の高い朝顔の姫宮と桃園式部卿宮に一揖すると、葵の上の車に近づき、声をかけ、下人とも少し話したようだったが、六条御息所には気づかず、去っていかれてしまった。
朝顔の姫宮は源氏の君に使いを送ろうとしたが、あまりの混雑でたどり着けなかった。
祭りが終わり、葵の上の一行が帰ると、六条御息所の正式な牛車が来て、御息所は救助された。
朝顔の姫宮も、やっと、身動きがとれた。
「葵の上、許せぬ!!すぐ、参内する!!」
一方、内裏では髭黒が第一報を受け取っていた。髭黒は「統治」と言うことがよく分かっており、検非違使庁の若い役人に市『いち』の様子を常に探らせていた。祭りの時などは特に念入りに行った。また、情報屋にも折々、金を渡していた。
そのうちの一人から髭黒は知らせを受け取ると、新帝のところに向かった。
「陛下、たいへんにございます。祭りで、葵の上と六条御息所さまが、いさかいを起こしたとのこと」
「何と!!二人や、妹宮『賀茂斎院のこと』や、源氏の君は大丈夫なのか?」
「仔細は分かりませぬが、追って知らせが参りましょう」
新帝は神社仏閣の祭りの日は(とかく争いや事故が起こりやすいので)念持仏に祈りを捧げていたが、その声は聞き届けられなかった訳である。
「仔細は私が知っております」
そこに箱崎の取り次ぎも待たず、朝顔の姫宮がやって来た。そして、一部始終を話した。
新帝は青ざめていたが、朝顔の姫宮、一条、彩子の目は怒りでつり上がっていた。
御息所『皇族の子を産んだ女性への尊称』さまに、何ということを。無礼にも程がある。源氏の君と左大臣家は増長しておる。勅勘『帝の罰』を。
女たちが怒っているところに、困った人が来た。朧月夜の君だった。
「陛下、たいへんなことが起こったとか・・・」
その顔には、面白いことが起こった、一番良い見物席で一部始終を見届けてやろうと書いてあった。
帝は見逃されなかったが、女君たちは怒りで、朧月夜の魂胆を見逃してしまった。
そこに、箱崎が頭の中将がわびに来たと告げたが、彩子が「通すに及ばず。わらわが思いっきり、ののしってやる」と御座所を出て行って、満足げに戻って来た。
「いざと言う時、全然、たよりにならぬ男じゃ」
彩子はせせら笑った。
次に源氏の君もわびに来たと、箱崎が告げに来た。
「源氏の君は手強い。私も行きましょう」
「私も参ります」
朝顔の姫宮と一条も立った。
源氏の君と頭の中将は並んで平伏していた。
「姫宮さま、承香殿さま、一条さま、お許しを。私は御息所さまがいらっしゃることは知らなかったのです」
源氏の君の言葉に頭の中将が切れた。
「ふざけんじゃねぇよ!!何、俺の家に全ての罪を着せようとしてるんだよ!!葵は身重で、つわりがひどかったんだぞ!!それをうざがって、放ったらかしにして、六条に入りびたりやがって」
「うぜぇなぁ!!そうやって、つわりがひどいとか、一々、大げさに言ってくるところがうざがられるんだよ。お前の家は。分からねぇのかよ」
「やかましい!!」
朝顔の姫宮が一喝した。また、一条は涙ぐんでいた。「御息所さまも、葵さまも、お気の毒。源氏の君は女子『おなご』の運気をすいとる男じゃ・・・」
この問題が起こったのは、単純な女子の争いではなかった。
日の本の歴史を通じて、皇族、摂関家藤原氏、源氏は序列をめぐって、ずっと緊張関係にあった。
はるか後の世となるが、江戸時代の禁中並公家諸法度は、江戸幕府の武力を背景に、その序列を安定させようとしたものと言う説もある。
皇族の中でも地位の高い朝顔の姫宮は、源氏の君や葵は『皇族の血がまじっていると言っても)はるか越えられない壁があると強く、お思いになっていた。彩子もだいたい同意見だった。一条は、そういう道理は分からなかったが、とにかく、源氏の君が悪い、ひどいと思っていた。
朝顔の姫宮、彩子、一条は帝の御座所に戻った。
そこに箱崎が深刻な顔で来て、髭黒に耳打ちした。
髭黒はうなずき、帝に奏上した。
「本院さま『父帝のこと』と門院さま『藤壺の宮』がおみえになります」
源氏の君が父帝に泣きついたのだった。流石に会わない訳には、いかなかった。
しかし、久しぶりに表に出て来た本院は、新帝と同じように、杖をつき、左半身を門院に支えられていた。
本院は、息子を「陛下」と呼びかけた。
「逆鱗にふれたかも知れぬが、源氏の君と左大臣家を許してやってたもれ。勅勘は酷すぎる」
新帝は父帝の衰弱ぶりに驚き、「もとより勅勘など・・・」と言いかけたが、朝顔の姫宮が、「伯父上さまが源氏の君を甘やかすからいけないのです!!」と遮り、本院は脂汗をかいていた。
それを解決したのは、髭黒だった。「畏れながら、姫宮さま」恐ろしく、冷静な声だった。
「勅勘は公の行為です。国事として、いつ、何故出したのか、歴史書に残ってしまいます。つまり御息所さまの恥が未来永劫残ってしまいます。ですから、勅勘はここは見送り、源氏の君、左大臣、頭の中将は一ヶ月ほど参内することをご遠慮いただくと言う形では?」
朝顔の姫宮は、ほうと納得した顔をした。本院は明らかに救われた表情をした。
本院はずいぶんと力を落とした感じで帰って行かれた。
源氏の君と頭の中将は、そこまでひどい処分でなかったことに安心して帰って行った。
新帝一家は朝顔の姫宮、『そして何故か』朧月夜と夕食を共にしていた。祭りの時は、ちょっと良いものを食べることにし、その日は二の膳に野兎の丸焼きがあった。(急な来客用に材料は多めに用意してあった。余ったものは後日のおかずに再利用されたり、下々の口に入った。)
新帝は素直に言った。
「葵の上は身重とのこと。心配じゃ」
しかし、朧月夜は蓮っ葉『はすっぱ』な感じで言った。
「気の毒は気の毒ですが、葵さまと六条さまは少し浅はかでした。わらわなら、下々の者のいる所なぞ行きませぬ。源氏の君に陽『ひ』の装束を着せて、己の宮殿を回らせましょう」
それを聞いた一条は、あっ、この女、それをやらせたのだ、と顔色を変えた。
朝顔の姫宮は「先ほどの御叡慮お美事であった」と仰せになった。「いえ、我ではなく、髭黒が賢明だったのです」「いや、優れた家臣は帝王の徳じゃ」と言うやり取りにも、朧月夜はプッと噴き出したのを一条は見逃さなかった。
それはともかく、葵が身重と聞いてから、新帝は念持仏に従妹の無事を祈っていた。とにかく、この時代は人が亡くなりやすかった。出産は慶事ではあるが、女性にとっては大きい危機でもあった。
また、都衆は、葵の上と六条御息所の対立や、その後の顛末を面白おかしく話した。勅勘は下りなかったのだが、下級の役人や町衆は『真剣に』勅勘が下りたと思い込んで話した。都の噂は地方にも広がり、その中で、陸奥や九州の民は、源氏の君と左大臣家は処断されて、いなくなってしまったのだと思い、哀れに語り継いだ。
世論は、左大臣家が悪い、と六条御息所に同情的だった。
そんな潮目が変わる出来事が起こった。
一ヶ月ほど経ち、新帝がそろそろ源氏の君や左大臣家の謹慎を解いても良いか、と思ったころだった。新帝たちが公務をしていると、父院と藤壺の宮がやって来た。そして、父院は泣き崩れた。
「帝よ。今日はわしを泣かせて欲しい。吾が初孫は生まれるなり、みなしごになってしまったのだから」
新帝、一条、彩子、母后は顔色が変わった。
「とても難産だったそうです。男子がお生まれになったのですが、葵さまは御薨去なさいました」
髭黒が告げた。
藤壺の宮も涙ぐんでいた。
新帝の頬にも涙が伝った。新帝のもとに入内せず、葵の上は源氏の君に賭けた。そして、敗れたのである。
一条も泣いていた。彩子は憮然としていた。
当時は御所は神社と同じく、神聖なものと見なされていたので、源氏の君と左大臣家はさらに四十九日参内出来なくなった。
また、夏と言うこともあり、葵の上はすぐ火葬された。
皇室の人は家臣の葬儀には『慣例として』出られず、新帝、一条、彩子、母后、父帝、藤壺の宮は火葬の刻限に念持仏に祈っていた。
御香典も、この頃はなかったが、新帝は髭黒の助言で、黄金、白銀一袋ずつをはじめとした喪の贈り物を左大臣に下した。
また、大官たちも、御見舞を贈ったが、そんなことで、左大臣家の心は休まらない。
しかも、もっと悪いことが起こりつつあった。
新帝たちが公務をしている時、髭黒が新帝をひそかに呼んだ。
新帝は御不浄に立つようにそっと立った。
髭黒が廊下で、奏上した。
「陛下、良くないことが起こっております。葵さまの御事、六条御息所さまの怨念が生霊となって葵さまを呪い殺したと、下々の・・・いえ、下々でもありませぬな。宮中の者も噂しております。出所は源氏の君と大宮『葵の上の母』です」
新帝は絶望的なため息をついた。
「源氏の君が仰せになるには、御息所さまの生霊が鬼となり、葵さまを殴ったり、首をしめたりして、歌を詠んだと。
嘆きわび空に乱るる我が魂を結びとどめよしたがひのつま」
「愚かな・・・それこそ、拙劣な小説じゃ。御息所さまがそんな下品な歌をお詠みあそばすはずがない。ど百姓の歌じゃ」
「しかし、大宮は真に受けて、御息所さまを呪っているそうです」
新帝は少しよろめき、髭黒に支えられた。大宮は桐壺帝の妹で、顔も性格も、桐壺帝によく似ていた。つまり、あまり美人でなく、迷信などを信じやすい、心の弱い老女だった。
「どうすれば良いのであろうか?」
「どうしようもありませぬ。噂は禁ずれば、もっと広がります。ただ、時の過ぎ行くのを待つしかないのです」
新帝は重い気持ちで、その日の残りの公務をこなしたが、その夕べ、朧月夜が参内した。
「おひいさん、どうなされました?」
「源氏の君は、家庭内離婚だったとは言え、葵の上の夫ですから、四十九日が明けるまで、左大臣家を出られません。退屈なので、御所に参内したのです。
朧月夜は、そこで新帝の顔をじっと見つめた。
「ところで、噂を聞こし召されましたか?」
新帝は苦しげにうなずいた。
その日は、暑く、女子たちはご飯とおつけものを水飯『お茶漬けのようなもの』にして食べると、果物やからくだもの、茶を横にして、双六や弾棋『たんぎ』をして、遊んでいた。
車争い、葵の死、六条御息所の悪評。次々と悪いことが起こる。
新帝は脇息によりかかり、ため息をついた。しかし、その時、新帝はひらめいた。悪いことが相次ぎ、忘れられているが、源氏の君と葵の上の子は、我が弟の子、我が従妹の子じゃ。
「髭黒、おるか?」
「もちろん、おります」
「特別良い紙と、普通の手紙用の紙を」
「はっ」
新帝は特別良い紙に「夕霧」と書いた。
「我が甥の名じゃ。『夕霧』と名付ける」
「良いお名にございます」
「そしての、確か丹波に大きい荘園があったであろう。我が荘園の中で、数少ない都に近い第一級の荘園じゃ。それを夕霧に授ける」
めったに感情を見せない髭黒が、少し驚きを見せた。
「あれほど良い荘園を?」
「そうじゃ、もし、源氏の君と左大臣家が、この子を鬼っ子扱いした時は、我が後見人となる」
新帝は、そのことを普通の手紙に書き、丹波の荘園の権利書と一緒に左大臣に贈った。
これで、夕霧は一生食べていける。夕霧は、この騒動の中の、かすかな「光」。
新帝の使者は左大臣に勅状を渡した。
そして、ちょっと経ってから、帰って来た。
新帝はケチケチしていると言われても、大官への手紙にも紙背文書を使っていたが、左大臣は貴重な紙に長々と『漢文で』手紙を書いていた。
その内容は、葵を入内させなかった無礼にも関わらず、寛大なお慈悲に感泣の極み。やはり、源氏の君と結婚させたのは失敗だった。その他、六条御息所への恨みなどが書いてあった。
今日は多分、ここまで。平日は投稿、更新するか、様子を見て、また決めます。どうか、よろしくお願いします。




