第九話 亀がくれた妻
予想どおり、姫君は熱を出した。
姫君を抱きしめ「大丈夫」「大丈夫」と背をなでていると、突然くたりと姫君の身体から力が失われた。
恐怖に青ざめすぐに姫君を確認すると、発熱していた。
あわてて荷物と姫君を抱え、飛ぶように家に帰った。
すぐに楽な着物に着替えさせ、額を冷やす。
熱に浮かされた荒い息の中で、姫君はずっと謝っている。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」
何に対して謝っているのかはわからないが、ポロポロと泣きながら謝るので、馬鹿の一つ覚えのように「大丈夫ですよ」と繰り返す。
熱冷ましに霊力回復薬に、と薬を飲ませ、休ませる。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですよ」
何度言っても姫君は泣く。
市に連れて行ったら、熱が出ることは予想していた。
それでも、興奮しすぎての発熱だと思っていた。
「楽しかったですね」「はしゃぎすぎましたね」と笑って看病するつもりだった。
こんなふうに泣かせることになるなら連れて行かなければよかった。
俺が自責の念で唇を噛んでいることに気付いたのだろう。
姫君が俺の拳にそっと触れた。
「ごめんなさい」
「――姫君のせいではありません」
無理矢理微笑んで、額の布で姫君の汗をぬぐう。
もうぬるくなってしまった。
すぐにかえなくては。
目元もぬぐい、涙をふく。
それなのに、また涙があふれてくる。
「ごめんなさい」
「――――!」
たまらなくなって、ガバリと姫君を抱き起こす。
ぎゅうっと抱きしめる。いつもより身体が熱い。
俺の身体で姫君の熱を吸い取れたらいいのに。
俺の身体で姫君の悲しみを吸い取れたらいいのに。
姫君の涙で俺の着物が濡れていく。
俺にもたれ、姫はまた「ごめんなさい」と口にする。
「――何が『ごめんなさい』なんですか?」
なるべく優しく聞こえるように気をつけて、口を開く。
抱きしめる腕をゆるめ、姫君の顔を見つめる。
目を伏せあわせない姫君の涙をてのひらでぬぐい、頭を、頬をなでながら言葉をつむぐ。
「何が貴女を苦しめているんですか?
俺のことなら大丈夫ですよ。
いつも亀が言っているでしょう?
『夫婦は助け合うものだ』って」
その言葉に、姫君も思うものがあったのだろう。
おずおずと、俺に目をあわせてきた。
その目を見つめ、微笑む。
少しでも頼りがいがあるように見えていますように。
「俺は、貴女の夫なんです。
貴女が何か背負っているならば、俺も一緒に背負います」
彼女の頬に手を添え、その目をまっすぐに見つめる。
「貴女は、俺の妻なのですから」
姫君は、俺を見つめたまま、ぽろりと涙をこぼした。
そのままとどまることなく涙があふれるが、くしゃりと顔をゆがめるだけで拭くことはなかった。
仕方ないので姫君を抱き寄せ、俺の胸で涙を拭かせる。
姫君はぎゅうっと俺にしがみついている。
少しは頼りに思ってくれているようでうれしい。
「――名を…」
やがて姫君は、ちいさくつぶやいた。
「名を、呼んでください」
相手の名を呼ぶという行為は、よほど親しい人にしかしない。
『名を呼ぶ』ということは、呪術的に『相手を支配する』ことになるからだと聞いたことがある。
だから、夫婦や家族、親しい友人、信頼した部下くらいしか名を呼ぶのを聞いたことがない。
大抵は住んでいる地名とか役職とかで呼び交わす。
それなのに、『名』を呼ぶことを許してくれた。
姫君が、俺を『夫』と認めてくれた。
うれしくて胸が震える。
それ以上に、残り時間の短さを突きつけられたようで、知らず涙がこぼれた。
あわてて涙をふき、抱きしめていた身体を少しはなす。
熱に浮かされた姫君の赤い顔をまっすぐに見つめる。
「――『竹』」
姫君は、涙を浮かべたまま、うれしそうに笑った。
「――はい」
「竹」
「はい」
「竹」
初めて会った頃、事情を聞いた時に名も聞いていた。
呼ぶことなどないと思っていた。
本当の夫婦のように、名を呼べる日が来るなど、考えたこともなかった。
胸が熱い。うれしい。うれしい!
ぎゅうっと抱きしめる。
彼女の熱が伝わってくる。
「俺も、呼んで?」
俺も、初めて会った時に名を名乗っていた。
覚えてくれているかわからないが、名を呼ぶことを許された喜びのままにねだっていた。
「――智明、様…?」
名を覚えてくれていたことに喜びが湧き上がる。
彼女の口から俺の名が出てきたことに、歓喜の渦が俺の中で暴れまわる。
うれしくてうれしくて、ぎゅううっと彼女を抱きしめてしまう。
なんとか自分を落ち着けて、姫君の赤い顔をのぞく。
熱のせいだけではなく赤くなっているようだった。
「『トモ』でいい。子供の頃、家族にはそう呼ばれていた」
「トモ、様?」
「『様』はちょっと」
「じゃあ、トモ、さん?」
「んー…。まあ、それで」
俺の妥協がおかしかったのか、やっと彼女が笑った。
涙でぐしゃぐしゃの笑顔でも、とびきり可愛かった。
「――トモさん」
「はい」
「その、」
「はい」
「その、さっきおっしゃった、その、『ごめんなさい』の理由なんですが」
さっき「何が『ごめんなさい』なのか」と聞いたことを気にしているらしい。
聞き流せばいいのに、生真面目だなぁ。
「はい」と答えると「あの」「その」と、目を伏せ指を意味もなくもじもじと動かしていた。
「その、理由、いろいろありまして、その、一言では言えないというか、その、」
質問に答えなくてはいけないと彼女なりにまとめようとし、うまくいかなくて困っているらしい。
生真面目な彼女らしいと微笑ましくなる。
「じゃあ、ひとつずつ聞かせてください」
俺の提案に、彼女はびっくりして俺をじっと見た。
まつげが涙にぬれている。
熱と泣いたのとで頬も目も赤い。
ああ、かわいいなぁ。
「まとめなくていいです。
うまく説明しようとしなくていいです。
思いつくままに、気の向くままに、ひとつずつ、いろいろ、教えてください」
背をなでながら、彼女の目を見て言う。
彼女は戸惑っていたが、目を閉じ、俺の胸に額を押し付け、俺の着物をぎゅっと握った。
頼りにされているようでめちゃめちゃうれしい。
ぎゅうぎゅうに抱きしめてもいいかな?
俺が邪な感情と闘っていると、彼女がやっと顔を上げた。
おそるおそる、という感じに見上げてくる。
何だソレ。めちゃめちゃかわいい!!
腹を決めたらしい彼女は、震える声で俺に言った。
「――いろいろ、言っても、いいですか…?」
「もちろん」
内なる欲情をかけらもみせることなく、彼女に微笑むことに成功した。
俺の腕の中、俺にもたれたまま、彼女はしばらくためらっていたが、ようやく口を開いた。
「――いつも迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑って、何のことです?」
「……すぐに熱を出して寝込んで、全然お役に立てなくて……」
「貴女がいてくれるだけでうれしいのに?」
「……お薬作ってくださったり、他にも色々お手数を…」
「俺が好きでやっていることです。妻の世話は夫の役目です」
終わり? ん? まだある? どうぞ?
「私が弱いから、貴方が自分を責める。
そんな思いをさせて、ごめんなさい」
「それは夫の勤めです。あきらめてください」
終わり? なんでぽかんとしてるんです?
まだある? じゃあどうぞ?
何に驚いているのか、彼女は俺にもたれていた身体を起こしてしまった。
何故かぽかんと俺の顔をを見ている。
少し離れた距離がさみしく感じるが、両腕で囲い捕らえているのでそのまま話を続けるよううながす。
ぽかんとしていた彼女はハッとして、話をすることを思い出したのだろう。
「えと、あの、」とオロオロしていたが、なにか思い当たったらしく、また悲しそうに目を伏せた。
「せっかく連れて行ってくれたのに、台無しにして、ごめんなさい」
「貴女のせいじゃない。
おかしなのに巻き込まれた、貴女の方こそ可哀想だ」
「ちがうの」
姫君はためらっていたが、意を決したように口を開いた。
「あの女性は、本当に私の乳母だったの」
「そうでしょうね」
あっさりそう答えた俺に、姫君は驚いている。
「気付いていないと思っていたのですか?」
「――え? え?」
呆れる俺に姫君はわたわたと動揺している。
「貴女が貴族の娘だなんて、最初からわかっていましたよ」
目を見開いて口をおさえる姫君。
むしろ何でわからないと思えるんだ?
オロオロしている様子も驚いている様子も愛おしくて、知らず微笑みがこぼれる。
ずっと黙っていようと思っていた本音も、つい、ぽろりとこぼれた。
「身分違いだとわかっていた。
気付かないようにしようと思っていた。
それを、貴女の亀が許してくれた。
俺の本当の願いを知った亀が、貴女を妻にしてくれたんだ」
「――黒陽に言われたから、仕方なく、妻にしてくださったのではないの?」
「違いますよ」
そうか。そう思われても仕方ないか。
この姫君だもんな。
亀にはバレバレの俺の気持ちも、姫君には伝わっていなかったようだ。
この際だ。ちゃんと言おう。
姫君がおかしな勘違いをしないように。
きちんとわからせなければ。
「俺が願ったんです。
隠していたのを、亀に見破られたんです」
姫君はきょとんとしていたが、理解したのだろう。
赤い顔がさらに赤くなった。
熱があがったかもしれない。
が、俺ももう止まれない。
「身分違いだとわかっていても、余命が少ないとわかっていても。
あきらめられなかった。
手放せなかった。
貴女が、好きだから」
まっすぐに彼女の目を見る。
どうか、伝わって。
「俺の半身。俺の唯一。
貴女が、貴女だけが、俺の妻です」
驚愕に見開かれた姫君の目がまた涙でうるむ。
でも、先程までの涙とはちがう涙だ。
俺の言葉を受け入れてくれている様子に、胸が高なる。愛おしさが爆発する。
「――好きです」
万感を込めて、告げる。
「俺の、妻になって――違うな」
もう妻になってくれてるもんな。
少し考えて、言い直す。
「俺の妻で、いてください」
姫君はポロポロと涙を流し、ふるふると首を振った。
「――私、なにも、できなくて」
「そんなことない。側にいてくれるだけで十分です」
「私、もう、生命が」
「それでも、好きなんです」
彼女の言い訳をひとつづつ潰していく。
彼女は俺の腕の中で涙を流し震えている。
口を開いては閉じる彼女に、もう一度、告げる。
「――好きです」
まっすぐにその目を見つめて、もう一度、願う。
「俺の妻で、いてください」
彼女は両手で口元を押さえ、こくこくとうなずいた。
「――はい。はい」
やっと口がきけるようになった姫君は、俺の目を見て返事をくれた。
「貴方の、妻に、妻で、いさせて、ください」
「―――!!」
姫君の身体をぎゅううっと抱きしめる。
喜びで身体中が支配されている。
ああ、しあわせだ。
彼女に俺の気持ちが伝わった。
彼女が俺を受け入れてくれた。
やっと、夫婦になれた。
彼女が、俺の妻になってくれた。
胸が苦しい。
うれしくても苦しくなるなんて知らなかった。
こうやって抱きしめると、いつも感じる。
まるで『欠けた半分』が戻ってきたようだと。
『半身』だと。
でも、心が通じたからだろうか。
いつも抱きしめるよりもよりひとつに戻ったように感じる。
満たされて、しあわせで、心が震える。
彼女も同じ気持ちを感じてくれているだろうか。
そうだったらいい。
このしあわせな気持ちを共にできていたら、これほどしあわせなことはない。
彼女は俺の胸に顔を埋め、背に回した腕でぎゅっと抱きついてくれている。
弱々しい圧迫感が、うれしい。
つい俺もさらに抱き寄せてしまう。
このままひとつに溶けてしまえばいいのに。
そうしたら、もう分かたれなくていい。
ずっと共に在れる。
そんな非現実的なことを願うほど、彼女を愛おしく思う気持ちがあふれていた。
「生まれ変わっても。何度生まれ変わっても。
私、忘れません。
私は、貴方の妻です。
貴方とのこの時間は、私の宝物です」
俺の腕の中でそんなことを言う。
彼女の髪をなでながら、俺も言い返す。
「生まれ変わったら、また会いにきて。
俺はずっと待ってる。
俺の妻は、貴女だけだから」
彼女は答えない。
ただ、俺にぎゅっと抱きついた。
そんな彼女が愛おしくて愛おしくて、俺も彼女を抱きしめる。
「もし今生で会えなくても。
俺が死んで、生まれ変わるならば。
きっとまた貴女に出会う。
そして、また妻にするから。覚えておいて」
俺の言葉に驚いたのだろう。
彼女が少し顔を上げた。
熱と涙でぐちゃぐちゃになった、かわいい妻。
助けた亀がくれた、俺の妻。
顔を寄せ、唇を重ねる。
軽く触れただけの口づけにきょとんとしていた彼女だったが、理解した途端目を回し、くてりと倒れた。




