第五話 亀の懺悔
朝からいい天気だ。
これなら洗濯物も乾くだろう。
出掛けようと亀が騒ぎ出す前にさっと洗濯を済ませ家に戻ると、狭い部屋で姫君が立っていた。
「あ。おかえりなさい」
にっこりと笑顔を浮かべるその姿は、いつもとは違っていた。
貴族様が差し入れてくれた、庶民風の、それでも一目で高級だとわかる着物と帯を身に着けていた。
せっせと寝床を片付けている。起きる気のようだ。
「姫君!」
起きられるようになった喜びよりも心配が先に立ち、駆け寄る。
「起きて大丈夫ですか? 無理しなくても」
「大丈夫ですよ。もう、黒陽と同じことおっしゃるのね」
ぷうとふくれて言うが、かわいいだけだからな?
確かに「そろそろ歩く練習を」と昨夜話したが、何もこんなすぐにしなくてもいいだろうに。
亀は少し離れたところで心配そうにしている。
姫君にどけられたと見た。
「いただいたお着物、着てみました。
どうですか? ちゃんと着れていますか?」
袖口を持って袖を広げ、俺に見せてくる。
助けた亀がくれた妻が今日もかわいい。
くるんとまわって帯も見せてくる。
「ちゃんと帯も結べていますよ。大丈夫です」
「よかった」
微笑んで、くるんと前に向き直り――
ぐらりと、体が傾いだ。
「姫!」
あわてて抱きとめる。
何とか倒れる前に支えられた。
彼女をこの腕に抱き込んだ。
その、刹那。
ブワワワワーッ!
今まで封じていた気持ちが、一気にあふれた。
欠けた半身がかちりと納まったような、『満たされる』という気持ちが湧き上がる。
抱きしめた彼女の体を離せない。
まるで元々ひとつだったかのように離れられない。
唐突に理解した。
これが『愛おしい』という気持ち。
心からその人を求める、感情。
夫婦に、と望む、根幹。
理解したらもうダメだった。
身分とか、育ちとか、抑えていた色々なものが全部どこかにいってしまった。
ただ、愛おしい。
この人が好きだ。
この人を離したくない。
ずっとこうして、俺の腕の中に閉じ込めておきたい。
ぎゅ、と抱きしめる。
そんなことをしても姫君は嫌がる様子を見せない。
それに気をよくして、腕の位置を少し変え、さらに抱きしめる。
少しでもひとつになるように。
彼女の体温を、重さを、存在を感じるように。
そんな俺をどう思ったのか、姫君も俺の背に腕を回してくれたのがわかった。
弱々しく、ぎゅ、と抱きしめてくれる。
その途端。
愛しさが爆発した!
かわいい。かわいい。かわいい!
なんて愛おしい。なんて愛らしい。
俺の妻だ。俺の大事な人だ。
離さない。離さない。
ずっと、この腕の中で抱きしめていたい!
姫君は頭を俺の肩にあずけ、身を任せてくれている。
その重さが、体温が、うれしい。愛おしい。
好きだ。
好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。
もうダメだ。もう離せない。
何でこの想いを封じられていたのかわからない。
それほどまでに強い想いがあふれ出し、止まらない。
彼女のくれた言葉が、笑顔が、頭に浮かぶ。
抱きしめている体温が、間違いなくそこにあると感じる感触が、俺の心を揺さぶる。
好きだ。好きだ。好きだ。
姫君を助けた時に裸で抱き合ったときも、唇を合わせたときも、こんな激しい感情は沸かなかった。
今となってはよくあんなこと出来たと思う。
助けなければの思いが強かったのもあるが、あの時はまだ『姫君』を知らなかった。
今は知ってしまった。
彼女の笑顔。
彼女の穏やかさ。
彼女の優しさ。
彼女の強さ。
日々を重ねるごとに、彼女への想いも積み重なっていった。
身分が違うからと言い訳してあきらめていた。
それが当たり前のはずだった。
でも、亀が『夫婦』という理由をくれた。
彼女の側にいられる理由。
たとえかりそめでも。
たとえ『ごっこ』でも。
構わない。
彼女といられるのならば。
愛おしい彼女を、抱きしめることができるならば。
何も言えないで、ただ彼女を抱きしめる。
助けた亀がくれた、俺の妻。
愛おしい、俺の唯一。俺の半身。
ずっと、ずっとこのままでいたい――。
「うぉっほん!」
亀のわざとらしい大きな咳払いに、腕の中の姫君がビクリと跳ねる。
「あ、ご、ごめんなさい!」
夢から醒めたように、唐突に俺の腕から逃れようとする姫君。
正直、離したくない。
が、亀が射殺しそうな眼差しを向けている。
これ以上は駄目なようだ。
しぶしぶ、彼女を開放する。
未練がましく腕を支えるくらいは許してほしい。
「大丈夫ですか?」
「はい。ごめんなさい」
そっと彼女を座らせる。
「まだ無理しないで。座っていてください。
すぐに朝食にしますからね」
つい、頭をなでてしまう。
亀の視線がこわい。
でも、止められない。
赤い顔の姫君に、知らず笑顔が浮かぶ。
助けた亀がくれた妻が愛しくてたまらない。
ああ、もうダメだ。
もう認めよう。
俺は、この人が好きだ。
もう離せない。
身分を持ち出されても、亀に何を言われても、もうあきらめられない。
彼女は、俺の妻だ。
いつものように姫を家に残し、亀と二人水脈整備に向かう。
今日の目的地を指示され肩に亀を乗せたまま歩いていると、不意に亀がぽつりと言った。
「お前なら、大丈夫だと思ったんだかな」
「見込み違いだった」とため息をつく亀の言葉に血の気が引く。
「――どういう、意味だよ」
日々を重ねるうちに、この亀とは遠慮なく話すようになった。
互いに名を呼びあい、好き放題言い合う。
それが俺も楽しい。
だが、今の言葉は。
姫君とのことを指しているのは明白だ。
「『夫婦ごっこ』をやめろ」とでも言い出すのか?
まさか、家を出ていくのか?
俺の恐怖を、肩の亀は知ってか知らずか、いつものようにフンと鼻を鳴らした。
「お前、最初から淡々としてたろう?」
最初。姫君を助けた時か。
「我らの『呪い』の話をしたときも、動揺することなく話を続けた。
だから、姫君にそこまで執着しないで、淡々と『夫婦ごっこ』につきあってくれると思ったんだが」
ふう、とため息を落とし「見込み違いだったな」と、もう一度亀が言う。
その声が悲しそうに感じて、反論できなかった。
「――すまん」
ボソリと、亀が言葉を落とす。
その言葉の重さに、思わず足を止める。
ふと見るとちょうどいい石があったので、そこに腰掛け、肩の亀を下ろして自分の前に持っていく。
亀は俺と同じ目線になっても、首をうなだれ視線を合わせようとしない。
「『すまん』て、何がだよ」
水を向けてやっても「すまん」としか言わない。
「――俺は感謝してるよ」
俺の言葉にも、首をうなだれたままだ。
「アンタのおかげで、この都の水脈は整えられた。
アンタの言うとおり、千年保つ都に、きっとなるだろう」
亀の言っていることが姫君のことだとわかっている。
それでも一度ちゃんと言っておきたかったこともあり「ありがとう」と伝える。
亀はゆるく首を振る。
「それに、姫君のことも」
ピクリと亀が反応する。
「たとえ『ごっこ』でも。
『夫婦に』とすすめてくれて、ありがとう」
亀は何も言わない。うつむいたまま、目も合わせない。
「――アンタには、わかっていたんだろ?
俺の『本当の願い』」
亀は何も言わない。
ただ黙ってうなだれている。
「アンタと、姫君と、ずっと一緒に暮らしたいと願っていた。
でも、身分違いの俺が望んではいけないことだと理解していた。
だから、水脈なんて面倒くさい時間のかかる仕事をみつけて、姫君と『夫婦に』と、言ってくれたんだろう?」
亀は何も言わない。
ただ、もう下がらないと思っていた首が、さらに下がった。
「俺は、たまたまアンタ達を助けた。
アンタは助けた俺に恩を返すために、俺の願いを叶えた。
それだけだ。そうだろう?」
もう一度「ありがとう」と伝えたが、亀は弱々しく首を振った。
「――お前も、わかっているんだろう?」
ボソリと、亀が口を開いた。
「姫に残された時間は、もう少ない。
間違いなく半年は保たないだろう」
考えないようにしていたことを突きつけられて、身が固くなる。
そんな俺に気づいているのか、亀は続けた。
「姫は、あの時、死ぬはずだった。
間違いなく、死んだはずだった」
亀がそう言うのだ。きっとそうだったのだろう。
「お前がくれた今の時間は、いわばおまけだ。
きっと姫を憐れんだナニカが、今までの褒美に、お前を遣わしてくれたんだ」
『遣わす』なんて大袈裟な。と思ったが、その言葉に亀の想いがこめられているのを感じて、何も言えなかった。
亀はうなだれたまま、苦しそうに続けた。
「姫を失う苦しみを、あの哀しみを、お前はずっと背負って生きていくことになる」
それは、亀がずっと感じてきた苦しみ。
亀がずっと感じてきた哀しみ。
その辛さを、苦しさを、この亀は一番よく知っている。
どれほど辛いのか。どれほど哀しいのか。
「――『半身』ならなおのこと――」
亀はギュッと口を引き結び、さらに首を下げた。
「すまん」
そして、俺がそれを背負うことを、自分のせいだと謝る。
「お前なら、大丈夫だと思った。
私の見込み違いだった。
私の願いのせいで、お前に苦しみを負わせることになる。すまん」
亀の懺悔に、俺も眉が寄る。
が、ひとつ気になる言葉があった。
「――アンタの願いって、なんだよ」
俺の問いに、亀が弱々しくではあるが、やっと微笑んだ。
「姫に、普通の『しあわせ』を知ってほしかった」
言葉の意味が理解できなくて、無言で先をうながすと、亀はぽつりぽつりと話してくれた。
「姫は生まれてからずっと霊力過多症で苦しんできた。
寝台から起きられる日を数えるほうが容易いくらいに。
それでも、寝台の上から、常に領民をおもい、『魔の森』の結界に力を注ぎ続けた」
「この世界に落とされてからは、ずっと罪を背負っている。
自分のせいで『災禍』を解き放ってしまったと。
自分のせいで多くの生命が失われたと。
何度も生まれ変わり、その度に姫の強い霊力に引き寄せられた『悪しきモノ』のために身内に不幸が起こるために、幼くして家を出るようになった。
姫はずっと苦しんでいる。
人並みの『しあわせ』を知らずに、ここまできてしまった」
「姫の生命が助かったとき。
これは『おまけ』だと感じた。
現に、あの強い霊力は微塵も戻らない。
これならば『悪しきモノ』を呼び寄せることもない。
『災禍』を追うこともできない」
「『おまけ』ならば、今まで願っても得られなかった『普通の暮らし』や『普通のしあわせ』を感じても、許されるのではないかと、そう、考えた」
「お前は、姫の裸を見ても抱いても平然としていたから。最初は不能か男色なのかと思った」
「おい」
「姫の意識が戻った後、お前は姫に惹かれていっているのにもかかわらず、姫に平然と接する。
我らの話を聞いた後も。
それなら、姫を失っても取り乱すことはないだろうと考えた。
それなら、少しの間だけ、姫の『夫婦ごっこ』に付き合ってもらおうと、そう、考えた。
長くても半年のことだからと。
少しの間のことだからと」
「――まさか『半身』だったとは――」
「私が浅慮だった。すまん」
そこまで話して、亀ははぁ、と息をついた。
言いたいことを全部吐き出したようだ。
「――それで全部か?」
「全部だ」
やっと目を合わせた亀は、いつものようにふんぞり返った。
首が上に向いただけだが、俺にはそう感じられる。
「――じゃあ、取引といこうか」
「は?」
思ってもいなかった反応なのだろう。
俺の言葉に、亀は目を丸くする。
そこは俺も狙ってのことなので、思わずニヤリと笑みがこぼれる。
「俺もさっき自覚したばかりだから上手く言えないんだが――」
改めて言葉にしようとすると、ひどく恥ずかしい。
だが、思い切って亀に宣言する。
「――俺は、姫君が、好きだ」
「だろうな」
あっさり言われて驚く。
「何を今更」とあきれられる。
亀に言わせると、俺が姫に惹かれていっているのはバレバレだったらしい。
だからこそ『夫婦ごっこ』を思いついたと。
そんな自覚ないぞ?
「――で?」
話を進めるよううながされ、あわてて思考を戻す。
「アンタの願いは、姫君が『普通のしあわせ』を感じることだろう?
俺で感じてもらえるかはわからないが、姫君が『しあわせ』を感じられるように『普通の夫婦』の触れ合い程度は見逃してほしい」
「――例えば?」
怒気をおさめろ。
さっきまでの殊勝さはどこに行った。
「手をつなぐ。一緒にでかける。抱きしめる」
「おい」
「今朝のくらいは許されてもいいと思うんだが?」
「私が止めなければ止まらなかったろうが」
「…………」
「反論しろよ」
「スマン」
素直に謝ったのに何故か殴られた。
ちいさな亀の手でも痛かった。
「――後で苦しむのはお前だぞ」
「そうだろうな。――でも」
姫君の笑顔が浮かぶ。
あの笑顔を、あとどれくらい見られるのか。
「今でももう、苦しいから」
俺は上手く笑えただろうか?
亀はしかめ面をするだけで何も言わない。
「それなら、残りの時間、少しでも姫君に触れていたい。
一緒にいたい。思い出がほしい。
――ダメか?」
俺の言葉に、亀はまたうなだれてしまった。
しばらく無言の時間が流れる。
やがて、亀が口を開いた。
「同じ手を繋ぐなら、霊力を集めて流せ。
触れていれば、少しは霊力がいくだろう」
「抱きしめるのは?」
「――姫が嫌がったら、やめるか?」
「もちろん」
「やめられるのか?」
「…………」
「オイ」
「努力します」
また殴られた。
動きの軽妙な亀だな。
「まあ、そこまでなら、目をつぶろう」
「ありがとうございます」
「だが! それ以上は駄目だぞ! 姫にはまだ早い!!」
「十ハならもう子供の一人や二人いてもおかしくないだろうに。
じゃあいくつならいいんだよ?」
「いくつでも駄目だ!!
我らの姫が穢されるなど、考えただけで相手を殺したくなる!」
「過保護」
「何とでも言え! 姫の純潔は私が守る!」
やっといつもの調子になった亀に、俺も笑みがこぼれた。




