十四話 別れ 2
姫君が着替える間に、俺もひげを剃り顔を洗う。
亀に「むさくるしい顔で姫を送るな」と怒られたからだ。
自分がどんな状態になっているかなんてわからない。
ただ、姫君に嫌われたくない。
髪も綺麗に整えて、姫君の結紐でぎゅっと結んだ。
姫君は市で買ったお揃い風の帯を締めていた。
身だしなみを整えた俺の帯を見て「お揃いですね」とうれしそうに笑ってくれる。
髪には俺と同じ結紐。
今日も助けた亀がくれた妻は愛らしい。
ぎゅうっと抱きしめる。
離れたくない。
連れて行きたくない。
このまま、ずっと一緒にいたい。
彼女も抱きしめ返してくれる。
その圧迫感が、ぬくもりが、愛おしい。
「そろそろ、行きましょう」
姫君の言葉にも、しばらく動けなかった。
いつの間にか満天の星空が広がっていた。
「そういえば、夜に出掛けるのは初めてですね」
「そうですね」
姫君のつぶやきに、一緒に空を見上げたまま答える。
「貴女、夜はすぐに寝てしまうから」
わざとからかうように言うと、彼女は恥ずかしそうに顔を隠してしまった。
「お子様ですみません」
「かわいいだけですが?」
いつぞやのやりとりのような俺の答えに、彼女も思い出したのだろう。
顔を見せて、うれしそうに微笑んだ。
もう歩けない彼女を抱きかかえ、亀を肩に乗せて夜の道を歩く。
都市部は迂回して、外周部の人気のない整備されていない道を行く。
少しでも長く一緒にいられるように。
少しでも別れを遅らせることができるように。
抱きかかえて運ばれる姫君からは星空がよく見えるのだろう。
ずっと天を見つめている。
「どこかの国では、天の川の両岸に隔てられた夫婦を、鵲が架け橋となって会わせるんですって」
「鵲が」
俺達夫婦も、鵲がまた会わせてくれないかな。
いや。俺達の場合は。
「俺達夫婦の場合は、鵲ではなく、亀ですね」
ニヤリと笑ってちらりと肩の亀を見る。
きょとんとしていた姫君も、クスクスと楽しそうに笑った。
亀は何も言わない。
ただ、一緒に天を仰いでいるようだった。
鳥辺野は、葬送地だ。
この橋を渡れば鳥辺野。
こちらは此岸。あちらは彼岸。
「ここで、大丈夫です」
橋の手前で姫君が降ろせと言う。
「向こうまで行く」
「駄目です」
「じゃあせめて、橋の上まで」
彼女を抱いたまま、橋に足をかける。
一歩、二歩。
ああ、あと少しで彼女を手放さなければならない。
あと数歩で、彼女と別れなければならない。
あと二歩で。
あと一歩で。
あと一歩で橋のなかほど、というところで、動けなくなった。
ぎゅっと彼女を抱く腕に力がこもる。
「トモさん…?」
彼女が俺を見上げている。
何で下ろしてくれないのだろうと戸惑っている。
いやだ。離したくない。
死が逃れられないものならば、せめて最後のその瞬間まで、俺の腕の中に閉じ込めていたい。
つん、と眉間を突かれた。
驚いて腕の中を見ると、彼女はくすりと笑った。
「シワができてますよ」
優しい笑みに、涙が勝手に落ちる。
これまで我慢してきたのに。くそう。格好悪い。
こらえようと歯を食いしばるのに、涙は止まらない。
抱き上げたままの彼女の肩に顔を埋めるように抱きしめる。
「離したくない」
本音がこぼれる。
「最後の瞬間まで、共にいたい」
なんで鳥辺野に送らないといけないんだ。
なんで彼女ひとりで逝かせないといけないんだ。
俺がずっと抱いていてもいいじゃないか。
最後の、その瞬間まで。
「駄目ですよ」
「なんで」
「貴方、無理するから」
意味がわからず、彼女の顔を見る。
彼女は困ったように眉を寄せ、微笑んだ。
「私に霊力渡すために、自分の霊力空っぽにしちゃうから」
そんなことするだろうか?
そう言われたら、したような気も、しないでもない。
思ってもいなかったことを指摘されて、彼女を抱く力がぬけた。
その隙をつくように、するりと彼女が降り立った。
「私は、もう時間切れです。
それはいいんです。でも」
俺の肩にもたれるように頭を寄せ、彼女は言った。
「貴方を、巻き込みたくない」
巻き込むって、何だ?
巻き込んでくれていいのに。
俺達は夫婦なんだから。
「『やめて』ってお願いしても、貴方は絶対無理をする。自分の生命を削る。
だから、ここでお別れするの」
つまり、最後の瞬間まで共にいられないのは、俺の自業自得か。
理解した途端愕然としたが、同時に思う。
彼女の言うとおり、彼女の生命が尽きそうならば「やめろ」と言われても俺はやめない。
たとえ俺自身の生命が無くなっても、彼女に霊力を送り続ける。
「トモさん。――智明さん」
彼女が名を呼んでくれる。
俺の好きな、やさしい声で。
「私の、トモさん」
初めて、彼女が、俺のことを「自分の」と言ってくれた。
うれしくて喉の奥が苦しい。
「ありがとう。
好きになってくれて。
妻にしてくれて。
しあわせにしてくれて。
ありがとう」
ポロポロと涙を流しながら、しゃくりながら、一生懸命に彼女が伝えてくれる。
涙をこぼしながら笑顔を向けてくれる。
ああ、なんて愛おしい。
濡れる頬を両手ではさみ、少し上に向ける。
そっと唇を寄せ、ついばむ。
彼女は頬の俺の手に、自分の手を重ねた。
もう一度、と甘えられているようで、胸がいっぱいになる。
ちゅ、と触れ、そしてゆっくりと唇を重ねた。
この感触を忘れたくない。
最後のくちづけ。
ただ重ねるだけの、触れ合うだけのくちづけ。
やわらかくて、甘くて、苦しい。
彼女の指が俺の指とからまる。
彼女のやわらかい頬とてのひらではさまれ、俺の手がしあわせだ。
その俺の手が濡れているのは、彼女の涙か、俺の涙か。
どちらでもいい。
二人の涙が混じってひとつになればいい。
身体は分かたれてしまうのだから、せめて涙だけでもひとつに。
そんなことを考えていたら、不意に、霊力を集めてしまった。
ちょうどいい。彼女にこのまま霊力を吹き込もう。
そう思い、さらに霊力を集め、圧縮する。
息吹に霊力を込める。
そのつもり、だった。
何故か、霊力は左手に集まった。
重ねた手に意識があったからかもしれない。
あれ? と彼女の唇から離れると、指にきらめく輝きがあった。
二人の薬指の根本に、銀色の指輪がはまっていた。
突然現れた指輪に驚いたが、同時に理解した。
彼女と俺の涙で、俺が錬成したのだ。
「涙だけでもひとつに」その願いのとおりに。
驚く俺の様子に、彼女が疑問を浮かべる。
彼女の手をとり、俺の手と一緒に目の前にもっていった。
「これ…!」
驚く彼女。
驚くよな。俺も驚いたよ。
いきなり指輪はまってるなんてな。
「トモさん――?」
「俺と貴女の涙から錬成したみたいだ」
自分がこんなことできるなんて知らなかった。
きっと俺達を哀れんだ誰かが奇跡を起こしてくれたんだ。
彼女はうれしそうに微笑んだ。
自分の指を見て、俺の指を見て、俺の目を見つめてしあわせそうに笑った。
「ありがとうございます」
涙に濡れた笑顔がかわいい。
「お揃いが増えましたね」
「ホントだ」
二人で笑いあい、抱き合った。
「生まれ変わるのならば、また会いにきて。
もし間に合わなくて俺が死んだら、俺も必ず生まれ変わって、貴女を探すから。
必ず貴女を見つけて、また妻にするから」
俺の願いのこもった言葉に、彼女は返事をくれなかった。
ただ、ぎゅっと抱きしめてくれた。
やがて彼女は俺から身を離した。
もうこれ以上は駄目だというように、まっすぐに俺の目を見て、言った。
「ありがとうございました」
ああ、もう本当に駄目なんだ。
これ以上は彼女を困らせる。
彼女を苦しめる。
もう、側にいられない。
お別れなんだ。
苦しい。悲しい。泣き叫びたい。すがりついて止めたい。
でも。
でも、そんなこと、彼女は望んでいない。
そんなことしたら彼女を困らせる。
彼女を困らせたくない。
彼女に心配をかけさせたくない。
彼女に情けないところは見せたくない。
少しでも、頼りがいのある男でいたい。
それなら。
この苦しみも悲しみも、全部封じて、彼女を送ろう。
彼女が安心して旅立てるように。
彼女にふさわしい男でいられるように。
「俺こそ。ありがとう」
我慢に我慢を重ねて、なんとか笑みの形を作って、それだけ言えた。
彼女はふわりと笑ってくれた。
やさしい微笑み。
大好きな、俺の妻。
助けた亀がくれた、俺の唯一。
追いすがりたい気持ちも、彼女を止めたい気持ちもぐっと押し込む。
すがりそうになる手を、拳を握ることでおさえつける。
追いかけるために動きそうになる足を踏ん張ってこらえる。
彼女は欄干の上で気配を消して待っていてくれた亀を肩に乗せ、俺に告げた。
「さようなら」
俺も、まっすぐに立つ。
少しでも彼女にふさわしいように。
彼女に頼りがいのある男だと思ってもらえるように。
彼女が心配しないように。
握った拳が震えるのは、見逃して。
がんばってがんばって、笑顔をつくる。
彼女に見せる最後の顔だ。
少しでも良く思われるように。
「さようなら。また、いつか」
彼女は、俺の言葉に驚いたようだが、にっこりと笑ってくれた。
ぺこりと一つお辞儀をして、俺に背を向け歩いて行った。
彼女が見えなくなっても、その場から動くことができなかった。




