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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

雨降りエンド

作者: 垂氷

宜しくお願いいたします。

地雷のある方は、キーワードご注意下さい。

またなんちゃって日本です。現実の時代とは違います。あしからず。

 霧雨が降る。シトシトと静かに世界を濡らしていく。

 

 抜いた襟足から伝った雫が背中を伝い落ちる感覚に震えながら、井戸の上に建てられた庇では僅かの風に舞う雫は避けられないと震える。

 かじかむ手は既に赤いが、夕陽が落ちる前に洗い物を済ませてしまいたい。


 温かい台所と給仕用の廊下との間に干して置けば、明日の朝には少しは乾いているだろう。

 あそこなら凍らないのは先輩の女中たちに教えて貰った。


「終わったかい」


 背後から先日入れたばかりのガラス窓をガラリと開ける音とともに声を掛けられて、へぇ、と返しつつ最後の水を絞る。

 鋭い痛みと共に第二関節に赤い色が鮮やかに見えた。血か肉か。慣れた痛みに軽く唇を噛む。


 ふと直ぐ傍の生け垣の向こうを、どこか知った声たちが笑い声を上げて走り過ぎる。

 

 同級生だろうか。身を縮めつつ視線を向けて動きを止めてしまった私の名前が呼ばれ振り返ると、勝手口から姉さんが手招いていた。

 洗濯物を入れた桶を持って近づけば、近くの台に置けと示される。従ってから、向き合って尋ねた。


「どうしました」

「ちょっとお使い」

「へぇ、どちらに」

「秋さんの店に醤油と油、余ったら飴一つ口に放り込んで帰って来な」

「……ありがとうございます」


 急ぎだと言われて桶を雨の当たらない端に寄せる。洗濯物は後で干そう。一つ頷いて手の中に入って来たお金をギュッと握りしめる。


 買い物籠を腕にかけ、風呂敷を懐に。巾着は下手に見せれば掏られるから、腰帯の中に隠した。


「行ってまいります」

「行っておいで。夕飯の支度が終わる前には戻っておいで」

「すんません」


 一つ頭を下げて裏口の木戸をそっと出る。継ぎ当てだらけの筒袖の着物が恥ずかしく、籠の取っ手を腕にかけた逆手で握る事で少しでも隠して、背を丸めて小走りで道を行く。

 頭に被った手ぬぐいはゆっくりと湿っていくが、さりとて傘をさすほどでも無い。

 何より醤油瓶を抱えたら傘を持って行っても帰りにはさせない。


 ぬかるむ道を急ぎ足で過ぎる。


 霧雨は降っているものの雨雲は薄く、空気が橙色に染まっていた。


「あ、ねぇちゃん!!」


 向かう先の途中から聞こえた声に、ぎくりと足を止める。

 足を止めてしまった以上無視をする事も出来ない。ゆっくりと振り向けば、雲間の夕陽から影となった一番下の弟がコチラにかけて来ていた。

 恐らく父の仕事場で拾っただろう長めの枝を片手に、道を擦って駆けて来る。

 引きずられた枝の先がぬかるみに浅い溝を作っている。跳ね上げた泥が着物に染みを作っていくのに、それは汚れた着物に直ぐに馴染んで違和感を無くしていった。


「こんなとこで……あ、買い物だろ!? なぁ、余ったか? 余ったなら甘いの欲しい」

「これから向かうから、余るかは分からんよ」


 出来ればこのまま帰って欲しいと思いながら、近づく弟に合わせて少し屈んで目を合わせ、微笑んで言う。

 しかし弟の後ろから父が一緒に来ていたらしく、私に撫でろと頭を擦りつける弟に追いついて言った。


「そんならついてけ。余れば貰えるだろ」

「うんっ! ねぇちゃん、良い?」

「ええよ」


 頷いてそっと手を差し出せば、躊躇う事無く握られる。屈託ない笑顔で見上げられて、顔に出さずに頬の内側を噛んだ。

 

「ちゃんとやれてるか?」

「はい」

「学費は出してくれるか?」

「そう聞いております」


 父に頭を下げて言う。

 私は長女だから、弟妹の学費を稼がにゃならんと聞いている。父の稼ぐ金は、父のもので酒と賭け事に消えていく。父の仕事は途絶えた事が無い。庭木の剪定の仕事をしている父のお給金は、庭を持つ家に出入りできるほどだけあり、それなりに良いと聞くがその恩恵を感じた事は無い。


 私は父の酒仲間の家に、自分と弟妹の給食費の代わりに、住み込みでお世話になっていた。一番上の弟も先日奉公に出され、その金子が弟では無く家の糊口へと消えているのも、すれ違った時に少し聞いた。それまで朝晩は草の根を食べていたのに比べれば、格段とマシだと笑った顔は酷くよれていた。

 中々動けない母も時に繕い物などをしてようやっと食べている家で、父の仕事道具と仕事着だけは立派で丈夫なものだった。障子も破れたものを何とか継いでいる家だというのに。


 ジッと俯く頭のてっぺんを背ばかり高い父の視線が刺してくる。

 今日はお使いの最中だ。時折、ご主人の気遣いで家に顔を見せる時のように殴られはしないだろう。

 しかし重い視線に、殴られる時に怒鳴られる辛気臭いという意見は感じる。


「ほんならしっかりやりや」

「はい。行くよ」


 頭を一つ深く下げてから、バチバチと泥を撥ねさせながら枝を揺らす弟の手を引いて歩き出す。

 あんな家なのに幼い弟はニコニコと私へ笑みを持って、殆ど一緒に暮らしたことが無いのに姉と呼ぶ。

 そう私はこの子の、この子たちの姉なのだ。

 小さく熱い手を一度しっかりと握り直した。


 買い物を済ませれば中くらいの飴ならニコ変える金額が残った。大きいのなら一個。

 蒸された飴の甘い匂いのする店先に目を輝かせる弟を置いて、そう考えながら暖簾をくぐる。

 何度か顔を会わせた親父さんがニコリと笑ってくれた。それに小さく頭をさげる。


 ちょうど練っていた飴が細く細く引き伸ばされていた。白く見える細い糸のような雨をからげて綿にしていた。その隣では大きな包丁でトンとまな板に当てる音を立てて切っている人もいる。

 

 箱に並べられた飴はどれもきらきらとしていて美味しそうに見えた。どれでも一つなら買える。

 けれど……私は店の端っこにザラザラと入れられている、割れべっこう飴をいつものように小さな端布に一つ包める分買った。これで並べられた飴一つ分と同じ値段だ。

 親父さんは一つまみだけ量を足してくれた。それをそのまま弟に持たせる。


「にぃちゃん、ねぇちゃん達とちゃんと分けるんだよ? 今度確認するからね?」

「わぁってる。あんがと」


 にかりと笑って店の外で大人しく待ってた弟は枝を放り出して駆けていく。私たち姉弟にとって甘いものはご褒美だ。滅多に食べられるものではない。

 夕焼け色の中を駆けていく姿が霧雨に滲んで、染みになって消える前に枝を拾って背中を向ける。道の端に放り直して、ため息を一つ。持って帰って軒先の陰にでも干して置けば焚きつけの足しにでもなったかもしれないが、今日の荷物では持っていけない。


 もう手元には無い、巾着一つ分。私の分は無い。それでも年長の弟や妹は幼い子に譲って行きわたらない。

 今も具合を悪くしている母の腹は、そんなの関係無いと酒に酔っては伸し掛かる父親の所為で、大きく膨れている。


 腕に抱える瓶と、籠の中の油壷が重くて、腕に食い込み痛い。痛い。だからきっと世界が滲むのだ。

 空を見上げればどこが滲んだかも分からない曇天が屋根の向こうにまで続いている。

 大丈夫。ぽつりと霧雨に交えて降らした。


 重い足を動かし戻り、主人たちの残飯を譲り受けた。姉さんに買い出しを頼まれた礼を伝えると、がんばりな、と笑みを向けられた。

 

 温かい言葉に何故か、乾ききらない着物がより重みを増した気がした。


 影に干した服を、台所の火を消したかまどの傍に紐を渡した場所へと移して吊るし直す。火を落としても暫くは温かい。


 姉さんたちは温石を貰っているが、私はそれを使っていてご主人の息子さんに贅沢だとののしられた事があるので使えない。

 台所で寝ているのも駄目だと言われたので、隙間風の寒い廊下の板間でむしろを被って寝る。服が乾いていれば他の服を掛けられたが、今日はそれも出来ない。


 暫く丸まって震えていればキィキィと板を踏み鳴らして誰かが通りかかる。すぐそこを過ぎれば厠だ。夜中でも誰かが通るのは良くあることだと、眠れないまでも瞼を落としてうつらとしていれば、背中を蹴られた。


 顔を上げれば息子さんが仁王立ちし、どうにも怖い笑みを浮かべていた。

 片手に持った芯の短い蝋燭が揺れる手燭が傾けられ、熱い蠟が落ちて来る。

 咄嗟に転がって避けようとして手の甲を踏まれ、熱い蝋が腕に落ちた。


 上げかけた悲鳴は降りて来た手に阻まれた。

 もごもごと顔を必死に横に振る私の手に掛かる重みは更に増し、ゴリっと板間と擦りれて嫌な音を立てる。

 

「逆らうなや。誰がおんしゃぁらの家、食わしてやってると思うとる?」


 降って来た声にビクリと身体を固める。この三番目の息子さんは暴れん坊で元から怒鳴り過ぎて潰れた声をしていたが、先日前歯を失いそこから息がしゅうしゅうと漏れる音がまじりより聞き取り難い声になった。

 

 ああ、コレも仕方ない事か、仕方ないと諦めるしか無いか、と抵抗をやめれば酷くぬるつく笑い声が密かに後頭部に落ちて来る。

 

「黙っとけ」


 背中に乗った息子さんが、乱れた私の髪を持ち上げ晒した項に蝋を落とす。

 暗闇の中白い光が弾けるほどの衝撃に、袖口の着物を噛んで堪える。

 大丈夫、こんなのはなれている。気難しい姉さんたちに蹴られる事はあるし、煮炊きの時にかまどの横で押された時は、火に顔を突っ込みそうになって胃に冷たいものを飲んだ気分になった。

 この程度大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせて、必死に奥歯を噛みしめる。


「はっはっ、魚のようによう跳ねる」


 勝手に動く身体を息子さんはそう言って更に嗤う。


「動いたらもう一度垂らすからな」


 固まって来た蝋を手のひらで抑えて、身を縮める私の着物の裾をからげる息子さんに今度は尻でも叩かれるのかと怯えていれば、下巻きを抜かれた。

 異性に尻を直接さらしている羞恥を、こんな時に感じた。


 蝋燭の火を翳しているのか、太ももの間に感じる熱に怯えて腰が上がる。見られている羞恥よりもソコに火を着けられる恐怖に血の気が引いた。指先についた蝋が未だ少し熱を持っている。その下の痛みがより恐怖に明確な色を付ける。これよりもきっともっと痛い。

 それに誘ってるのかと意味の分からない事を言われ、熱が離れた。


 ホッとして腰を下ろそうとして、いつの間にか息子さんが距離を詰めていてその腰に当たって下げられない事に気付いた。

 身体を前に逃がして下ろそうとしたら、動くなと尻を強かに叩かれて動けなくなる。


「まぁ、これも務めだと思えや。おんし等の家にどれだけ親父が金注ぎ込んでると思ってる。特別構って貰えるだけありがたいと思え」


 そういって体重をかけられた。

 叫んで足をバタバタと動かし必死に逃げようとしてもその激痛は逃げず、低く笑う息子さんは後ろから首に手を回し騒ぐなと低く恫喝してきた。それでも声を上げる私の口に手ぬぐいだろうか、布が突っ込まれた。


 家を出るまで毎夜のように見てたのに、自分に降りかかると思わなかった。こんな針金みたいな身体の子どもに手を出されるとも。自分がもう子供では無い事をこんな時に自覚した。

 男が入り込めるほどに身体が大きくなっているのだと。


 暴れる動きに首の後ろの蠟が固まった物がバラバラと落ち、冷えた空気に晒されたソコがひりつく。ソコを息子さんの親指が押して確かめるように触った。


「覚えとけ、これが消える前にまたくる」


 どれくらい痛みに翻弄されていたのか、私の身体の中を汚した息子さんは、手ぬぐいはやると言ってさっさとその場を後にした。


 直ぐ近くの部屋の襖が少し開いて誰かが覗いているのが分かる。けれど何も言わずに静かに閉められた。

 遠くから響く雨音だけが廊下を支配した。


(ああ、ああ……)


 心の内にさえ言葉が浮かばず、静かに頬を濡らす雫すら意味をなさない。

 よろりと立ち上がり、口の中の手ぬぐいをその場に放り歩き出す。廊下の床がキィキィとやけに緩慢な音を鳴らす。着物も直さずゆらりと勝手口から外へ出た。


 日中の霧雨は勢いを増し、今は屋根に跳ねる程になっている。


 草履もはかず泥水の中を進み、あっという間に重くなった着物を引きずり井戸の脇に出る。


 先日付けたばかりの手押しポンプを押して、桶に水を汲んでは頭から被る。元より濡れていたのも構わず、何十もの水を大丈夫と念仏のように繰り返しながら被り続けた。

 指先が凍え、桶を取り落としたがそれでも綺麗になったとは思えなかった。


 腕と首の後ろのジリジリとした痛みが背後から迫ってくる何かのように感じられた。

 

 また一つ頭から被って、それでもやはり汚れは落ちず、痛みも消えない。痛みは枷だ。息子さんの抑えた笑い声が頭の中にこだまする。


 もう一度水を汲む気が急に途絶えた。指先から落ちた桶が立てる音がやけに大きく、雨音の支配する世界に響く。


 なぜか笑みがこぼれた。脳裏に弟妹の顔が過る。父母の顔はなぜか思い出せなかった。

 一頻り笑い、急に気持ちがおさまってふと母屋を見る。

 夜の闇の中により暗くうつる影が、まるでバケモノのように思えた。

 そこには駄賃を隠れて渡してくれる姉さんたちもいたのに。


「独りだ」


 なぜそう呟いたのか、自身で理解はしていなかった。

 ただ母屋に戻りたく無くて、ふらりと裏の木戸から道へ出る。


 雨脚の強くなっていくこんな夜に出歩く者もおらず、提灯も揺れていない。

 どの窓も雨戸を閉めているからか、光の漏れも無い。もっともこんな夜半に起きていたら家計に触るか。

 踏み出す私の脇を笑い声が背後へと向かって駆け抜けて言った気がした。


 どこへ行くとも無しに歩き、弟たちと会った場所に居た。今は誰もいない。

 父の今の勤め先はこの道の先なのだろうか。

 しっかりした作業着に仕事道具と日々の浴びるほどの酒代を惜しげもなく渡す家があるんだろうか。


 ぼんやりとそんな事を考えて、裸足の向く先をそちらに換えた。ズルリと引きずる着物が泥を吸って重くひきずられ、痕を残す。直ぐに雨に消えるその跡が私の唯一の軌跡だった。


 漆喰の壁の上から松の影が見えるのを以前通ったから知っている道。今は真っ暗で何も見えない。

 時折、家の壁に当たりながら、ごうごうと轟く音に足を止めた。

 足元はいつの間にか泥から木の板に変わっていた。爪先どころか足の甲が被る程にどこかで跳ねた水が流れている。


 随分近くに聞こえる音を、欄干を握り見下ろす。どこにあるのか、見ようとした、そうそれだけ。

 痺れたように動かない火傷の腕とは逆を使い、取りすがるように欄干にあがり、身を乗り出し、手を伸ばす。大丈夫、もうちょっと。そう呟いて更に手を伸ばす。見えない川面に触れて見たかった。それだけ。

 見下ろす私の項に雨が落ち染みて冷していくごとにジリジリと痛みが背中を押す気がした。

 身体が浮き上がり、足が引っ掛けていた所から抜け、身体が一回転。


 額がどっかに当たり、暗い中に星が散り、伸ばした手を引っ込めるのは忘れた。指に触れるものは何も無く、胃の腑が僅かに空くような不思議な感覚を覚えた。


 多分見上げた空は真っ暗で、共に暗闇に落ちていく中、頬に当たる水滴だけがやけにはっきりと感じた。

ありがとうございました。

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