後編
激しい夕立の降りしきるなか、四年ぶりの……二度と訪れることはないと思っていた侯爵邸にやってきた。
本来もっと緊張すべきなのだろうが、ロバートに続き、雨に濡れぬよう走って玄関をくぐる。
かつて私にお義母様の代わりに行儀作法を教えてくれたメイド長のシャーロットが目を丸くして私を見ている。随分と老けたな、と思いながら、ロバートについていく。私が足を一歩も踏み入れたことのない、侯爵邸メインの当主のエリアに。
一際大きな両開きのドアにたどり着くと、ロバートがコンコンとノックした。
足音が聞こえ、ドアが開く。中から長い焦げ茶の髪を後ろで束ねた若い男性が顔を出した。
「ジュード!旦那様は?」
「一進一退ですね……おや?」
目がパチっとあった。ああ……先生と同じ優しい灰色の瞳。このかたはジュード……先生なのだ。
「そうか、君が親父とリアンのお姫様だね。はじめまして。さあ、なかへ」
ジュード先生に招かれ、ロバートに背を押され、そっと入室した。足音を立てずに大きなベッドに近づいた。
「そんな……どうして……」
ベッドで横たわるリアン様は、最後にお会いした、デミアンたちの結婚式の姿とあまりに変わっていた。顔は血の気が失せ青く痩せ細り、漆黒の少しクセのある髪は……真っ白に変容していた!私の七つ上だから、まだ二十八歳でしかないのに!
私はベッドの脇で崩れ、膝から落ちた。
「エマ様!」
慌てたロバートに引き上げられ、そばにあった椅子に座らせられる。
「リアン様……ああ……おいたわしい……」
リアン様から目を離さずに、私は必死で瞬きして、涙が外に出るのをくいとめる。枕元で泣くなど縁起でもない!
ジュード先生がそっとリアン様の脈を取り、ため息をつく。
「侯爵……ごめん、私は彼と付き合いが長くて呼び捨てを許されているんだ。リアンはね……病に抵抗していないんだよ。もう精も根も尽き果てたってところだ」
「……え?」
「もう疲れすぎてしまってね……死んでもいいって思ってるんだよ」
「そんな……そんな……」
口がわなわなと震える。リアン様、そこまで追い詰められていたの?
「エマさん、いやリュエット伯爵令嬢。君なら……リアンの絶望に共感できると思って呼んだんだ。君は報われない虚しさ、孤独、諦めで覆い尽くされたリアンの今の心情が、表面上ではなくて我がことのようにわかるはずだ」
……わかるわ。だって私たちはこの四年、適当な距離をとりながらも、労わりあって生きてきた同志。
「その上で、君はなんとか生きている。その活力の源を、少しだけリアンに分けてもらえないだろうか?」
ジュード先生のおっしゃる絶望。もちろん理解できる。婚約者に裏切られた孤独、領地を放り出すことになった罪悪感と虚しさ。
私と同じ罪悪感に押しつぶされたうえに、貴族仲間には領地を返上した領主失格者と罵られ、縁を切られて、狭い部屋で暴れるようになった父に幻滅し、そんな自分を『なんて恩知らずな』と罵る日々……
そんな私の活力は、それでも時折優しく笑ってくれる愛する父、私がちょっとは役に立つ人間だとマメに伝えてくれるトーマス先生。そして……リアン様からいただくお花。
私は小さく頷いて、
「どうすれば……いいでしょうか?」
ジュード先生が顎に手をやりながら、
「そうだね。何か話しかけてほしい。意識をこちらに、生のサイドに向けるような。ああ、子守唄もいいね」
「歌?ですか?」
歌など……娯楽などとっくに捨てて生きてきた。
私がオロオロとすると、ジュード先生はクスリと笑ってあくびをした。
「僕がいると邪魔だろうから、隣で仮眠させてもらうよ。何かあったら起こしてね」
よく見ると目の下が真っ黒なジュード先生は、ふらふらと続き部屋に消えた。
私とロバートが残された。
「歌……私……」
歌うことなど忘れていた。没落する以前から、つまりデミアンとナタリーが出会って以来、歌う気持ちになどなったことはない。
するとロバートが、
「昔……この屋敷の庭で、デミアン様とお菓子を食べながらよく歌っておいででした。たまにリアン様もご一緒していたでしょう?あのときの歌がよろしいかと」
言われて、思い出す。音楽の家庭教師に習った歌を大声で披露して、デミアンが大袈裟に拍手してくれていた。侯爵として働きながら学生でもあったリアン様は『仲良くしているかい?』とたまに様子を見に来て、私たちを眩しいものでもみるように目を細めながら、お茶を飲まれていた。
私は、あの頃、確かにリアン様に、妹として温かく迎えられていた。
私はロバートに小さく頷く。
感謝の気持ちと温もりを伝えようと、そっと布団からリアン様の手を引き出し、握りしめる。思っていた数倍熱い!でも熱いということは、まだ病と闘っている証拠だ。
私はコホンと咳をして、何年かぶりに歌った。この国に古くから伝わる故郷を思う歌を。案外覚えているものだ。
三番にさしかかったときに、リアン様のまつげが小さく動き……薄らと目が開き、親しくないものに氷のようだと評される水色の瞳が覗く。ロバートが後ろで息を呑む!
「……だれ……だ」
しかし、声は虚だ。焦点も合っていない。夢のなかにいらっしゃるようだ。
「お、お義兄様、エマです」
「……エマ?……どうして……」
「い、妹として、お義兄様がご病気と聞いて、看病に参りました」
リアン様は僅かに眉間にシワを寄せた。
「君は……妹などではない……」
……え?
「君を妹と思ったことなど……一度もない……」
目の前が真っ暗になった。そんな……。私はリアン様の手を取り落とした。
どうやら……可愛がっていただけていたというのは……私の……思い上がりだったようだ。ただ、弟の捨てた女の面倒を、義理で見ていただけ。
とうとう涙が決壊し、溢れ出した。私はバタンと椅子を倒して立ち上がり、ベッドに背を向け走り去ろうとした。しかしロバートに止められる。
「放して!ロバート!」
「待たれませ!絶対に違います!違うのです!」
「何が違うって言うのよ!私など、結局誰にも求められることなどない!不要な人間なのよ!ちょっとした思いやりも示されず簡単に捨てられる、何の価値もない女!」
「違います!エマ様、落ち着いて!」
「こういう無防備なときこそ、本来の感情が出るものよ!これがリアン様の本心だわ!もういいでしょう?帰らせてっ」
すうっと息を吸う音が背後からした。人というものは末期に確か……恐ろしい予感がして、口論を止めロバートとともにリアン様を振り向く!静寂があたりを包む。
すると……リアン様の水色の瞳から、一筋の涙が流れた。感情をお出しにならない、リアン様の涙。
「ああエマ……私の唯一……どうしたら君は幸せになる……」
とてもとても小さな声だったけれど、私の耳は漏らさず聞き取った。思いがけない言葉に……息ができない。
「エマ……かわいい私の……花の妖精……」
「……うそ…………」
わなわなと身体が震えだす。
リアン様はただ虚空を見つめ、サラサラと涙を流す。
「……愛するエマ……また君の笑顔を見られるのなら……私はどんなことでも……」
リアン様はそれだけ話すと、力尽きたように瞳を閉じられた。
「うぅっ!」
………口から飛び出しそうになる嗚咽を両手で塞いで押さえ込んだ。
ああ…………繋がった!何もかもわかってしまった!
全て、全て、お義兄様……リアン様の差配だったのだ!
すんなりと爵位を保持したまま、良い条件で領地を返上できたのも、父が往来で助けられたことも、先生に引き合わせてもらえたのも、快適な住まいが手に入ったことも、世間知らずの私が仕事を得ることができたのも、みんなみんな、リアン様がそっと手助けしてくださっていたのだ。
私を……愛してくれているから。
「リアン様は……エマ様がこの邸に来ると、死の匂いの濃い暗い屋敷にパッと花が咲いたようだ、と喜んでおられました」
ロバートが独り言のようにささやいた。
「やがて美しく成長されたエマ様を……誰よりも好ましく思っておられましたが、エマ様はデミアン様の婚約者。デミアン様とエマ様の子どもに、将来、万全な形で侯爵家を引き継ぐことができるならば……愛する人が幸せになれる手助けができるのであれば、幸せだと……ご自分の幸せは随分昔に切り捨てられたのです」
私はたまらずベッドに駆け寄り、リアン様の胸に縋り付いて声を上げてわあわあと泣いた。びっくりするほどその体は細くて、悲鳴に近い声が喉奥から押し出される。
愚かで己の不幸ばかりに目を向けていたせいで、ずっと包んでくれていた大きな愛に、気がつくことができなかった。
ようやく気がついた今、大事なこの人の命は、燃え尽きそうになっている。
全てを諦めてしまったせいで。
「り、リアンさまっ!リアンさまー!ううっ、うっ、リアンさまー!」
すると、リアン様の目がゆっくりと開いた。先ほどの虚な表情でなく、目に険呑な光を宿して。
「……エマ、何故泣いている?誰にやられた?」
……正気だ!
私はもっと涙を流しながら、リアン様の首に縋り付いた!
「リアン様の、リアン様のせいです……うう……」
「……私の?」
リアン様は当惑した表情になった。
「そうです!リアン様がご病気だから、泣いております……寂しくて……悲しくて……わ、私のために、早く、げん、元気になってくださらないとっ……許しませんっ!」
リアン様の手がそっと持ち上がり、私の頭を壊れもののように、そっと、ゆっくりと撫でた。
「……泣かないでエマ。君が泣くと……心が潰れそうだ」
「で、では、リアン様が、泣かせないようにしてくださいませ!私をっ、笑わせて、一緒に笑って……早く、お願いっ……笑って……ください……」
私はぼろぼろになった顔を上げて、リアン様のどこまでも清廉な水色の両目を見つめ、彼の頰の涙をそっと指で拭いた。
リアン様はご自分が泣いていると気がついていなかったようで、目を見開いて驚いた。そして私の瞳の奥を穴が開くほど見つめて、
「わかった……君の望みなら」
いつも、表情を変えることのないリアン様が、口の端を上げて、小さく笑った。
あなたは、私のためにならば、無理にでも、笑うのだ。
「う……わあああああああ…………」
私は再び、横たわるリアン様の胸に顔をうずめ泣き崩れた。そんな私の体をリアン様の手が、不器用に撫でて慰め続けた。
たくさんの皆様にお読みいただきありがとうございます!
本編はここまで。この後リアン視点、そして後日談と続きます。
更新は4/3、4/4予定です。
外出のできない週末の暇つぶしにお読みいただければと思っています。
今後とも宜しくお願いします m(_ _)m