もう一つの出逢い
その日以降、詩織がキャンプに行くまでの間に父親と直接顔を合わせる機会はなかった。しかし、彼は彼女との約束をきちんと守った。キャンプ場、およびコテージの予約、必要なものの手配、そしてキャンプ場で詩織を世話する家政婦の雇用。詩織が父からのメールで知らされたときには既に、それらのものが全て手配されていた。そして夏休みに入ってすぐに、詩織は例の家政婦と顔合わせをすることになったのだ。
「よろしくお願いします。なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
彼女の第一声はこうであった。まだ若い、なんとも利発そうな女であった。その顔に笑みはなく、無表情に近いものであったのだが、別に怒っているわけでも、不機嫌なわけでもないらしい。単に愛想を振りまくことを不要だと考えているだけなのだろう。お父さんが選びそうな人だと、詩織は思った。
「別に、何でも良いよ。なんて呼ばれてもかまわないし」
「では、詩織さんとお呼びいたします」
家政婦は実に合理的な考え方をする女であった。必要なことは全て完璧にこなし、不要なことは一切しない。キャンプの第一日目においての彼女の行動は全て完璧で、その完璧さが気に障った以外に、彼女が詩織に不満を抱かせたことはなかった。またその翌日、家政婦が事前に決めていた時刻に詩織を起こしに来たとき、詩織が既に目を覚まし、朝の支度を始めていたのを確認すると、さらにその翌日以降に彼女を起こしに来ることはなく、代わりに彼女の洗顔が終わるタイミングに合わせて完璧な朝食を用意するようになったのだ。
彼女たちがキャンプを始めて、この日で五日目である。事務的なものを除けば、詩織と家政婦との間の交流などまるでなかった。詩織は食事やトイレ、入浴を除けばひたすら勉強をしていたし、家政婦の方も常に炊事や洗濯をして過ごしていた。あの人はいったい、空いている時間は何をしているのだろう? あまりにも退屈すぎた詩織は、こっそりと部屋を抜け出し、家政婦に与えられていた部屋を覗いてみたことがあった。机に座っていた彼女は、何やら勉強をしているらしかった。きっと何かの資格を取ろうとしているのだろうと、詩織は納得した。なるほど、彼女も彼女で、無駄な時間を過ごさず、有意義に過ごしているわけだ。思っていたよりもつまらなかった覗きを止めて、詩織はそそくさと自分の部屋に戻っていったのだった。
現在、朝食を済ませた詩織は部屋に戻り、勉強をしていた。しかし、まるで身が入らない。退屈で仕方がないのだ。学校で出されていた課題は全て、とうの昔に終わらせてしまっている。今やっているのは、あくまで自主的な学習だ。ただ、それも既に終わった内容だ。問題集は既に二、三度解いており、全て間違えずに解答できる。テキストにいたっては既に読み込んでしまっていて、内容を暗唱できるぐらいだ。何もかも、刺激が足りない。こんなにも退屈なのに、あと二日もここにいないといけないなんて。詩織はげんなりとしてしまった。
いっそのこと、外へ出てみようか。ふいに詩織の心にそう浮かび上がった。正直なところ、彼女はアウトドアにはまるで興味がなかった。むしろ勉強ばかりして過ごしていたので、運動は苦手なくらいだ。それでも今のように満たされないまま勉強を続けるよりは、ましかもしれない。彼女は今まで読んでいたテキストを閉じると、軽く伸びをして席を立った。
あの人にも、一声かけた方がよいだろうか? コテージを出ようとする直前、ふと詩織の頭によぎった。すぐに結論は出た。ついてこられたり、あれこれ詮索されたりするのは面倒くさい。勉強を途中でやめて、外で遊んでいたと後で父に報告されるのも面倒だ。ちょっと外に出て、すぐに戻ればばれないだろう。コテージを出ていく詩織の足取りは、実に軽やかであった。
キャンプ場内に設置されていた案内地図を頼りに、詩織は大きな湖のある広場へと来ていた。ふだんであればキャンプ場内の客たちが釣りをしたり、貸しボートに乗ったり、水際でバーベキューをしたりして過ごしているのだが、そのときは不自然にも誰もいなかった。実は昨夜の隕石騒動のあと、キャンプ場内の客たちに、キャンプ場運営側から、直ちにキャンプを引き上げて帰宅するか、帰宅しないのであれば、キャンプ場周辺を出歩いたりしないようにという連絡があったのだ。当然、詩織たちのコテージにもその連絡は来ていたのだが、例の家政婦は、自分も詩織もずっとコテージで過ごすのだから、詩織に伝える必要はないと判断し、彼女に伝えずにいたのである。そうとは知らない詩織は、自分しかいないこの場について不思議な思いを抱きながらも、それを受け入れ、楽しんだ。
自分は最初、家族と一緒に過ごしたくて、このキャンプに来たいと言ったはずだ。それなのに私は今、今までで一番満足感を感じている。一人ぼっちなのに、なんでだろう? 水際を散歩しながら、詩織は自問する。悪いことを、いけないことをしているからかな? お父さんたちの言い付けを破って勉強をさぼって、家政婦には何も言わずに、こんなところに一人で来ているからかな? 思えば今まで、良い子でいなさいと言われてやってきたことは、ほとんど勉強であった。それ以外のことはやらなかったし、やって良いとは思っていなかった。むしろ今まで、よくもまああんな退屈なことを続けてこれたものだ。それで得られたものなんて、何もなかったのに。そう考えると、詩織は腹が立ってきた。そうだよ。私はお父さんたちの言う通りにしてきたのに、お父さんたちは私のことなんて何も分かってくれなかった。分かろうともしてくれなかった。私のことなんて、お父さんたちはどうでも良いんだ!
ちゃぽんという水音が聞こえ、詩織は我に返った。今何時だろう。ポケットから携帯電話を取り出して確認すると、彼女がコテージを出てから既に三十分が経過していた。そろそろ帰った方が良いだろう。少しだけ寂しさを感じながら、彼女は元来た道を戻り始めた。
湖からコテージへと帰る道の途中、詩織は立ち止った。すぐ目の前の道の上に、何かが落ちていたのだ。彼女はそれに近づき、拾い上げる。全長十二センチくらいの、ロボットの人形であった。誰かの忘れ物だろうか? 詩織は訝しんだ。さっき通ったときは、こんなものは落ちていなかったはずだ。彼女はその人形を隅々まで観察してみた。
全体的には赤色で、所々が黒色になっていた。肩や手足の先が尖った造形となっており、少し持ちにくかった。よく見ると目や鼻、口のような造形もある。詩織は普段アニメはおろか、ニュース以外のテレビ番組を見ることはなかったが、彼女が今その手に持っているような玩具が販促物となっている子供向けアニメがあることは知っていた。しかしながら、彼女はそのようなものに全く興味がなかった。詩織は手に持ったそれを元の場所に放り投げようとする。
だが彼女はその人形を離さなかった。ふと、考える。この人形はどうしてこんなところにあったのだろう? キャンプに来ていた誰かが、捨てたのだろうか? それとも単に落としただけなのだろうか? 詩織は再び手元の人形に目を向ける。この人形、よくできた造形をしているけど、ボロボロだ。あちこちに決して小さくない傷がいくつも入っている。胸と背中を貫通している傷なんてひどいものだ。ひょっとしたら、この人形は意図的に傷つけられたのではないだろうか? たとえ落としただけだとしても、きっと持ち主はこの人形を大事にしていなかったに違いない。持ち主に大事にしてもらえなかった、かわいそうな人形……。
少し悩んだが、詩織はこの人形を持ち帰ることにした。持ち主が探しに来るとは、彼女にはとても思えなかった。このようなロボット玩具はおろか、ぬいぐるみのようなものを集める趣味は当然、詩織にはなかった。興味だけはあったが、彼女の両親は許さなかった。道で拾った人形を持って帰るなんて、両親が知れば当然、怒るだろう。けれど、こっそりと持ち帰れば、ばれないはずだ。机の中にでも隠しておいて、たまに取り出して遊ぶくらいならばれないだろう。詩織は我知らずにほくそ笑んでいた。
彼女は再びコテージに向けて歩き始めた。歩きながら考える。この人形の傷、少しでも目立たないようにできないだろうか? たぶんできるはずだ。戻ったらインターネットで調べてみよう。「フィギュア 傷 直し方」といったキーワードで検索すれば良いだろう。せっかくなのだから、少しでもマシな状態にした方が良いに決まっている。必要な道具は、キャンプが終わり次第、暇を見つけて買いに行ってみよう。もちろん、誰にも知られないようにこっそりとだ。詩織の機嫌はいつの間にかすっかりと直り、それどころか、今までになく晴れ晴れとした気分になっていた。
彼女の手に握られた人形の口元が、いびつに歪んでいたことに、詩織はこのとき気が付かなかった。