詩織の家族
夏休みに家族皆でキャンプをしたい。それはおそらく詩織が言った、最後のわがままであった。大企業グループの経営に携わっている彼女の両親はとても忙しく、詩織に対してはいつも、手のかからない良い子でいなさいと、口を酸っぱくして言い付けていた。彼女自身も両親の言い付けをよく守り、良い子であることを常に心がけていた。しかし不満がないわけではない。詩織とて、本音を言えば両親にまだまだ甘えたかった。良い子でいれば、いつか両親に気にかけてもらえる。そう信じていたに過ぎない。だが実際には、彼女が良い子であればあるほど、彼女の両親は安心し、自分たちの仕事に没頭していったのであった。
詩織の学校が夏休みに入る三週間ほど前の出来事である。クラスメートの少女たちが夏休みの予定を互いに話し合っているのを偶然耳にした。
「お父さんとお母さんと、遊園地に行くんだ」
帰宅してからしばらくの時間が経っても、その嬉しそうな声が頭から離れなかった。遊園地なんて、詩織は行ったことなどなかった。彼女の両親は共に無駄を徹底的に嫌う人種であり、親子の交流や会話などに、さほどの価値もないと思っているのだ。最後に家族と出かけたのは、いったいいつのことだろう? 彼女は思い返してみたが、思い当たる記憶などどこにもなかった。
そんなときだ。詩織の父親が、珍しく帰宅してきたのだ。会食のための着替えを取りに来たらしい。三十分もしないうちに、また出かけるであろう。いても立ってもいられないという気持ちで、彼女は自分の部屋を飛び出した。
「あのね、お父さん。ちょっと良い?」
娘に問いかけられた父親は怪訝な顔をする。その様子を感じ取った詩織は、すぐに済むからと言い訳っぽくまくしたて始めた。
「え、えっとね。夏休みに出かけたいの。……キャンプに」
遊園地に、とは言わなかった。それでは絶対に、父親が許可するはずがないと、詩織にも分かりきっていたからだ。緊張と興奮とで胸を高鳴らせながらも、彼女の冷静さはまだ可能性のある提案を口にしたのだ。
しかしながら、それでも父親の顔は怪訝そうな様子を残したままだった。
「突然、何を言っているんだ?」
射貫くような父親の視線に、詩織は体をこわばらせる。しかしここでひるむわけにはいかない。彼女は勇気を出して、もう一度、キャンプに行きたいと口にした。
「あのね、山の中って夏でも涼しくて、快適に過ごしやすいんだって。マイナスイオンとかなんとかが出ててね。ストレスの発散とかできるし、勉強だって、いつも以上に集中できるしだし……」
普段理知的であるべきと考えている詩織には珍しく、後先を考えずに思いつくままに話していた。とにかく黙ってはいけない。常に話し続けなければ。キャンプに行くことが、決して無駄なことじゃないとお父さんに思わせなくちゃ。彼女は何も言葉が思い浮かばなくなるまで、ひたすら口を動かし続けた。
「だから、だからね。家族でキャンプ、行っちゃ、ダメかな?」
詩織は不安そうに父親の顔を覗き込む。彼は何やらじっくりと考え込んでいるようだ。少なくとも、時間の無駄だと、すぐに一蹴するような様子を見られない。それでも彼女は全く安心できず、しばらくの間、居心地の悪い気分を味わった。
「良いんじゃないか」
父親がそう口にする。詩織は最初、自分の耳を疑った。彼女としては、当たって砕けるつもりで切り出した交渉だ。思っていたよりもはるかにすんなりと父親が賛成したことに、すっかりと困惑してしまった。
娘のそんな様子に気を配る様子も見せず、男は続きを口にする。
「実はな。前から少し気になっていたんだ。お前のことでな」
いったい何のことだろう? 詩織は父親の言葉に委縮してしまうが、彼の方では別に彼女を叱責するつもりではないらしい。
「自己主張が足りないと思っていたんだ。自分から要求したり、意見を言ったりしなければ、世の中ではいつまで経っても使われる側だ。私は嬉しいんだよ。お前が物おじせずに、私に要求してきたことが」
そう見えんかもしれんがな。父親は最後、自嘲的にそうつぶやく。そして、キャンプに行くなら決めなければならない具体的な事柄を、次々と口にしていった。キャンプ場経営をしている知り合いに、コテージを一つ借りれないか手配してみよう。予約で埋まっているだろうが、なに、一つくらい無理をしてでも用意してくれるさ。一週間くらいの滞在で良いだろう。あまり長くいても仕方あるまい。家具、食器、食料、日用品。これらもすぐ用意できるはずだ。父親の口から次々と出てくる前向きな言葉に、詩織の中の不安や困惑はすっかり期待と喜びとに変えられてしまった。
ああ、こんなにも簡単なことだったんだ。自分の気持ちを、言葉にしてちゃんと伝えれば、お父さんたちも応えてくれたんだ。詩織は自分の過去の言動を反省する。そうだよね。ただ良い子でいて、黙って我慢していたって何も変わらないよね。これからはもっと、自分の気持ちをちゃんと伝えるようにしよう。
詩織が一人で反省している間も、彼女の父親は話し続けていた。
「それと一人、家政婦を雇わないとな」
「家政婦?」
父親の言葉で、詩織の意識は現実の方へと引き戻された。自分たちは家族で行くキャンプの話をしていたはずだ。なぜ、新しく家政婦を雇う話になっているのだろう?
不思議そうな顔をする娘に、父親は何一つ調子を変えずにその理由を口にした。
「キャンプ場で、お前の世話をする人間を雇う必要があるだろう? まさか、お前一人でキャンプさせるわけにもいくまい」
その言葉に、詩織の頭の中は一瞬、真っ白になった。お父さん、私、家族でって言ったじゃない。私は家族で一緒に過ごしたいんだよ。私の主張、分かってくれたんじゃなかったの? 先程までの幸せな気持ちは、すっかりと無くなってしまった。
その場に倒れこみそうになる体をなんとか踏ん張らせ、詩織は恐る恐る口を開いた。
「あの、お父さんたちは、……行かないの?」
娘の問いかけに、父親は簡潔に、かつ冷徹に答えた。
「行くわけないだろう。私にも、母さんにも、そんな暇などないのだから。第一私には、新鮮な空気も、リラックスできる環境も必要ないしな」
空っぽになった詩織の心の中を、今度は悲しみが徐々に満たしていく。ああ、私のことを分かってくれてなどいなかったんだ。私の勘違いだったんだ。頭の良い私のお父さん。私の支離滅裂な主張を、ただ言葉通りに、私がキャンプに行きたいって受け取っただけだったんだ。違うよ、お父さん。私、本当はキャンプに行きたいわけじゃないんだよ。ほんの少し、たった一日、いや一時間でも、一分でも良いから、私と一緒にいて欲しかったんだよ。私のことを見て、考えて欲しかっただけなんだよ。
娘の様子に、父親は再び怪訝な顔をする。
「どうした? お前の望み通りにキャンプに行けるんだぞ。嬉しくないのか?」
「うん、そうだね」
「家政婦にはいつも通り、優秀な者を選ぶつもりだ。問題なんか起こらず、お前も快適に過ごせるはずだ。いったい何が不満なんだ?」
詩織は伏せていた顔を上げる。不満? お父さんたちが一緒に来てくれないことだよ。私と一緒にキャンプしてよ。夏休みのほんの少しの期間だけでも、私と一緒に過ごしてよ。そう伝えてみようかと、彼女は思った。今、それを伝えなければ、夏休みの一週間を、赤の他人と二人きりで、さほど興味もないキャンプをして過ごすことになってしまう。今を逃せば、二度と本音を父に伝えられる機会はないのだ。彼女の理性はそのことをよく分かっていた。けれどできなかった。その勇気がなかった。伝えたら最後、父親は必ず、詩織の問いに答えるだろう。答えを聞くのが怖かった。父親はおそらく、いやきっと、NOと答えるはずだ。それはつまり、娘と過ごす時間など何の価値もないと、父親がそう思っているということに他ならないではないか。そのようなこと、詩織はどうしても自分の耳では聞きたくなかった。
彼女が沈黙したままでいると、父親の携帯電話が鳴り響いた。
「すまない。この続きはまた今度にしよう。大丈夫だ。約束は守る。キャンプは必ず手配しておこう」
彼はそう言って、一切のためらいを見せずに部屋を出て行った。自分の気持ちを言葉にしたって、分かり合えないこともあるんだ。たとえ親子でも。一人残された詩織の心は以前よりもはるかに強い寂しさに苦しめられていた。