第624話 散布
「帰っちゃったわね……」
小さくため息をつきながら、千冬がつぶやいた。
大エッグ艦橋の大モニターの中央には、土煙をあげて敗走するレバニラ軍が映し出されている。
結局のところ、彼らは、ヒレカツ帝国の砦付近まで進軍して、何もせずに引き返すしかなかった。
言ってみれば、二万人で、武装してお散歩しに来たようなものだ。
帰りは、けっこうハードなランニングになったろうが……。
大モニターには、砦のようすも映っていた。
数百名の兵士たちが、あちこちにうずくまって、呻いていた。
様子を見るために、兵士のそばに転移したクマさんが、千冬に報告した。
『ご丁寧に、両腕とも砕かれてる……クマ』
もちろん、レバニラ帝城に乗り込んだ、例のふたりの不審者の仕業だった。
乙女座Tシャツの青年と、真紅のワンピ少女のことだ。
いわゆる『峰打ち』で、兵士たちの両腕を砕いたのだ。
両腕に力が入らないとなれば、起き上がることもできないのだろう。
数百名の兵士が、なすすべもなく、うずくまっていた。
少なくとも、乙女座青年は、緋グマ剣心さんと互角に刀を交えていた。
真紅の少女も、殿様ガエルさんにこそ手も脚も出なかったが、アンセン軍団長をあっさりと叩きのめした強者である。
数百名を斬って捨てるとなれば、刀が保たなかったかもしれないが、峰打ちとなれば、文字通り一騎当千であった。
ちなみに、砦の門のそばにいた兵士は、腕を砕かれることはなかった。
しかし、乙女座青年が、門を吹き飛ばしたときに巻き込まれたせいで、血みどろになって横たわっていた。
帝城にまで、命からがら早馬を飛ばしたのは、この門付近で待機していた兵士のひとりだった。
「……放っておくわけにもいかないわね」
千冬がふたたびため息をついた。
たしかに、エリ草エキスを薄めたものを、ちょっと振りかけてやれば、たちまち治るだろう。
しかし、数百名である。
なかなか面倒ではあった。
「大丈夫。任せてほしい……クマ」
艦橋の中央塔を見上げながら、白衣のクマさんが言った。
「ちょっと濃い目のエリ草ポーションを戦艦から散布する……クマ」
近頃は、『エリ草茶』が主流になっていたが、さすがに『エリ草茶』を散布するわけにはいかない。
食べ物や飲み物を粗末に扱っていはいけないのだ。
それに、『エリ草茶_いちご味』などを散布してしまったら、兵士たちがみなべたべたの甘々になってしまうだろう。
なるほど…。
千冬も納得した。
いぜん、ジュンのおうちのクローゼットにあったDVDで、ヘリコプターから、畑に農薬を散布する映像を見たことがあった。
たしか…、『環境破壊』に関するビデオだった気もするが……。
「え、ええ…。それでお願い」
まもなくのことである。
砦の上空に滞空していた戦艦の一隻が、高度を下げた。
そして、どこからともなく、ポーションの散布が始まった。
「…おお」
「痛みがひいていくぞ…」
「腕に力がはいるようになった……」
「…助かったのか?」
上空に留まっている天空の島のような大エッグや、百隻およぶ巨大戦艦に肝を冷やしていた砦の兵士たちから、つぎつぎと安堵の声が上がった。
上空からの広域散布である。
戦艦の真下には、鮮やかに、七色の虹がかかった。
そればかりではない。
砦の一帯に『奇跡』が起きた。
エリ草ポーションが、ちょっと濃すぎたのかもしれない。
そもそも、ただのポーションではないのだ。
エリクサーは、文字通り奇跡の万能薬であり、高濃度の魔力の塊でもあるのだ。
「…おお」
「な、なんということだ…」
「ま、まさに……」
『神の奇跡』
腕が快癒し、傷も完治した兵士たちが、涙ながらに讃えた。
そして、誰もがひざまずき、『魔物艦隊』を見上げて祈りを捧げた。
『神よ…。我らをお救いくださり、ありがとうございます』と。
砦一帯の赤茶けた地面から、新緑が芽吹き、色とりどりの花々が咲き誇ったのである。
…無理もない。
こうして、砦は、たちまち、瑞々しい花園と化した。
ちなみに、この日の『奇跡』は、ヒレカツ帝国のひとびとに語り継がれた。
そして、『魔物艦隊』は、『神々の艦隊』と讃えられるようになったという。




