第174話 まさかバケモノ呼ばわりされていたとは
思えば、おかしな話だった。
スフレ帝国では、ジュンが街なかを歩けば、
『おかあさん、見て見て、ハーレム使徒さんだよ!』とか、
『おっ、ハーレムさんじゃねえか、きょうは、どんなべっぴんさんを連れてんだぁ…』とか、
『ねえねえ、あれ使徒さんでしょ。学院には、ハーレム専用教室があるってホントなの…?』とか、
どこからともなく、ひそひそ話が、必ず聞こえてくるほど、話題の人になっていた。
そんな彼が、今の今まで、シャーベット王国の、それも、重鎮と呼ばれる人々に、知られていなかったのである。
21世紀の情報社会に暮らす人間には、とうてい信じられないことだろう。
しかし、それほど、シャーベット王国は、スフレ帝国に関心が薄かったのである。
関心が薄かった理由は、第一に、距離の問題だった。
シャーベット王国と、スフレ帝国の間には、広大な『魔物の森』が存在する。『魔物の森』を縦断すれば、かなり近くはなるが、それは、まさしく自殺行為でしかなかった。そのため、シャーベット王国の者が、スフレ帝国を訪れるには、『魔物の森』の周囲をぐるりと回り、いくつもの国を通るという、長旅を覚悟しなければならなかった。
これには、かなりの時間と費用がかかる。長旅である以上、もちろん危険も伴った。
だから、たとえば『帝国魔法学院』は、このシャーベット王国においてさえ、『憧れの学舎』ではあったが、手の届かない存在でもあったのだ。『帝国魔法学院』に留学できたのは、実力のみならず、それだけの費用と準備を捻出できる一部の貴族だけであった。
ちなみに、ミルフィーユの領主アルベールは、『帝国魔法学院』を主席で卒業したが、両親ともに『賢者』と呼ばれた大貴族である。
いうまもないことだが、かつてジュンたちが、短時間で、スフレの帝都に行けたのは、ドラゴンで『魔物の森』上空を飛ぶことができたからであった。
はるかかなたの国である以上、戦争になることもあり得ない。また、商人が行き来するにも、遠すぎる。スフレ帝国まで通って商売をするくらいなら、もっと近くの国々で売り買いするほうが、採算が取れた。
こうした地理的な事情から、あれほどスフレ帝国で『やらかしていた』ジュンの噂が、シャーベット王国の重鎮たちの耳には届いていなかったのであった。
まして、聖女セシリアが、『帝国魔法学院』で、のんびり学生生活を過ごしているとか。軍事演習の際に、民衆の前で、堂々と『ジュンのお嫁さん』と呼ばれたこととか。海の向こうのサバラン王国では、大砲を次々と凍らせて城内へと攻め入り、兵士たちからバケモノ呼ばわりされたことなど、彼らには想像もつかないことであった。
これに対して、スフレの賢帝は、シャーベット王国に関する情報も、絶えず把握していた。国力の違いもあろうが、やはり、為政者としての器の違いが大きかったと言えよう。
そして、このことが、後に、宰相にとっての、最大の敗因となったのである。
「今は、宰相殿と力を合わせて、ミルフィーユを何とかすべきときであろうよ」
『第一皇子派』の長老ともいうべき有力貴族、『オーラン伯爵』だった。
シフォン伯爵は、最初、自分の耳を疑った。
『第一皇子派』と名乗っていはいるが、実質的には、『反宰相派』というべき派閥でしかなかった。もし、この派閥に結束力があるとしたら、それは、第一皇子への忠誠よりも、宰相への反感だったはずだ。
実際に、『宰相派』と一戦交えるのも辞さない貴族はすくなくなかった。
この場には、『第一皇子派』の騎士団長もいたが、彼はすでに、『オーラン伯爵』に侮蔑のまなざしを向けていた。
宰相派の人々にとっても、『オーラン伯爵』の寝返りは、『寝耳に水』だった。
とくに、先ほどから、懸命に、シフォン伯爵たちの詰問に答えていた『シナモン伯爵』は、驚きを通り越して、うんざりした顔をしていた。
そもそも小国である。『オーラン伯爵』がどんな人物なのか、貴族なら誰もが知っていた。
「すでに、我々、第二皇女派の軍勢は、ミルフィーユ攻略に向けて集結しつつある」
オーラン伯爵の裏切りによって、劣勢を挽回せしめたと思ったのだろうか。
宰相は、ふたたび、威勢を取り戻して、堂々と宣言した。
すると、
「我らの『派閥』も、宰相さまの軍勢に、ぞくぞくと加わっておる」
オーラン伯爵まで、胸を張って言った。
オーラン伯爵に同調する貴族は、たしかに、少なくはなかった。しかし、その勢力を堂々と『派閥』と呼ぶとは…
すでに、彼は、第一皇子派を離脱したのか。あるいは……
シフォン伯爵は、『領袖』という立場にありながら、自分が、第一皇子派内の状況を把握しきれなくなっていることを、自覚せざるを得なかった。
会議はここで、お開きとなった。
シフォン伯爵たちは、オーラン伯爵の裏切りで、宰相を攻めあぐねてしまった。
宰相としては、まさか自分が追い詰められるとは、思ってもみなかったが、オーラン伯爵という隠し玉の効果もあって、この会議の目的であった『ミルフィーユへの進軍』を堂々と宣言することができた。
しかし、それにしても、両派閥にとって、新たな情報が多すぎた。
この場で、安易な受け答えをするのは、あまりにも迂闊なことである。
したがって、この場は、お開きとするのが無難であると誰もがおもった。
いずれにしても、宰相たちは、何もしらずに、勝てるはずのない戦へと駒を進めはじめたのであった。